信仰の言葉を守られる神                エレミヤ書第36章20〜32節

 
 今日の礼拝は、「信教の自由を守る日の礼拝」としてささげています。今日2月11日は、一般的には「建国記念の日」とされていますが、多くのキリスト教会はこれに反対し、「信教の自由を守る日」として過ごしているのです。
  この日がなぜ「建国記念の日」とされているのか、これをわかりやすく説明してくれているのが、今月の『世の光』の「小羊会例会」のコーナーです。その中 に、子どもたちに向けた質問があります。「『建国記念の日』はどうやってできたのでしょう?」その答えはこうです。「明治政府以来、日本書紀の神話をもと に、初めて天皇が即位した日が日本の歴史の始まりとして祝われた《紀元節》。戦後廃止されたが、1966年、政府はさまざまな反対を押し切って『建国記念 の日』として復活させた。」ですからこの日は、戦前・戦中、国の体制やあり方を基礎づける最も基本的なものだったのです。それは、一つの宗教的神話に基づ いていました。その神話を、政府がすべての国民に向かって「これを受け入れよ、その上でそれぞれの生活を営め」と命じたのです。キリスト教会も例外ではあ りませんでした。同じ『世の光』には、このように記されています。「皇居に向かって最敬礼してから。、礼拝がなされた。教会は常に監視され、問題があると 激しく迫害された。」それは、「信教の自由」を著しく損なうことであり、そのような社会が最終的には戦争にまで突き進んで行き、悲惨な終わりを迎えたこと から、これを反省し、二度とこのようなことが起きないようにと、「建国記念の日」には反対し、「信教の自由を守る日」としているわけです。
 そう いうわけで、今日は共に聖書から「信教の自由」について考えるわけですが、私たちは、単に狭い意味での「信教の自由」だけに留まっているわけにはいきませ ん。「毎週の礼拝さえ、何事もなく守れればそれでいい」ということではないのです。私たちは、他の様々な市民的自由、たとえば「言論の自由」「思想信条の 自由」「集会結社の自由」などがきちんと守られ、十分に確保されているか、時の政府やその権力がこれを侵害・縮小しようとしていないか、それによく注意 し、問題があるならそれを指摘し、発言し、自由の実現のために身をもって努力しなければならないからです。「信教の自由」とは、ただ心の中でこっそり信じ ているという自由ではなく、公に社会の中で広く語り、伝え、また集会を持ち共に礼拝をするという自由であるからです。また世の中で広く自由が守られ、何を 語ってもいい、何を信じてもいい、どのような集まりをもってもいいという中でこそ、「この神を信じ、この福音を語り、ここで礼拝する」という自由もまた守 られるからです。

 さて、そういう視点から見ますと、今日のエレミヤ書の言葉は、この預言者エレミヤの時代における言論弾圧の事件を伝えていると、見ることができます。ユダの王エホヤキムが、エレミヤが告げた神の言葉の巻物を、火にくべて焼いたからです。
  なぜこのようなことが起こったのか、少しさかのぼって、見てまいりましょう。エレミヤは、長らく神の言葉を預かり語るという預言活動を長らく続けてきまし た。その末に、主なる神のもとからこのような言葉が、エレミヤに臨んだのです。「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った人、すなわちヨシヤの日から 今日に至るまで、イスラエルとユダと万国とに関してあなたに語ったすべての言葉を、それにしるしなさい。ユダの家がわたしの下そうとしているすべての災を 聞いて、おのおのその悪い道を離れて帰ることもあろう。そうすれば、わたしはそのとがとその罪をゆるすかも知れない。」神様は、ユダの国とその人々に、最 後のチャンスを与えようとなさるのです。
 そこでエレミヤは、弟子のバルクという人を呼んで、自分が語る言葉を巻物に書き記させます。それができると、バルクを、人々が多く集まる主の神殿の中庭に遣わし、そこでその巻物の言葉を語り聞かせたのです。多くの人がこれを聞きました。
  この知らせは、国を治める主だった役人たちの耳に入りました。かれらもまた、バルクを呼んでこの言葉を読ませたのです。この言葉の重要性に、役人たちは気 づきました。それで、かれらはこれを王であるエホヤキムに聞いてもらわねばならないと考えたのです。そこでこの巻物を預かり、このことを王に告げました。 するとエホヤキム王は、部下を遣わしてその巻物を持って来させ、自分の前で朗読させたのでした。

 そういった中で、このようなことが起 こったのです。「王はその巻物を持ってこさせるためにエホデをつかわした。エホデは書記エリシャマのへやから巻物を取ってきて、それを王と王のかたわらに 立っているすべてのつかさたちに読みきかせた。時は九月であって、王は冬の家に座していた。その前に炉があって日が燃えていた。エホデが三段か四段を読む と、王は小刀をもってそれを切り取り、炉の火に投げ入れ、ついに巻物全部を炉の火で焼きつくした。」
 なぜエホヤキム王は、こんなことをしたのでしょうか。
  それは何より聖書が告げている通りです。「王とその家来たちはこのすべての言葉を聞いても恐れず、またその着物を裂くこともしなかった。」それは、神の言 葉を受け入れず、信じず、それに従おうとしなかったからです。彼らは「着物を裂く」という悔い改めの行為をするのではなく、「巻物を裂いて燃やす」という 逆の行為によって、神への不服従と反逆を表したのです。「巻物を焼く」という行為には、そこに書かれている神の言葉の力を削ぎ、その効力をなきものにする という意味があるのです。
 「書物を焼き、言葉をなきものにする」という行為、それは紛れもなく、言論弾圧であり思想弾圧の業なのです。それは、 古代から現代に至るまで、世界中で、国家やその権力者によって行われてきました。古代中国の秦の始皇帝は「焚書坑儒」と言って、自分の支配体制とその思想 に逆らうと見られる儒家や墨家の思想家たちの書物を没収して焼き、さらにはその思想家たちをも捕らえて生き埋めにして殺したと言われています。「書物を焼 く者は、やがては人間をも焼くようになる」のです。また私たちの国日本でも、アジア・太平洋戦争に敗北した時に、大量の公文書を燃やし廃棄したと言われて います。自分たちに都合の悪い文書は廃棄し、隠蔽する、この姿勢は今に至るまで変わっていないのではないでしょうか。このエホヤキム王の行為は、その上 に、「神の言葉を破壊し、無にしよう」という、救いがたいような業であったのです。

 こんなことが起こされて、いったいどうなってしまうのでしょうか。
 しかし聖書は、ここでも、このような時代、このような状況、このような社会の中でも、福音を語るのです。
  何より言わなければならないのは、神の言葉それ自体が動き、働き、業をするのだということです。『エレミヤの生涯』という小説を読みました。そこにはこの ように語られるのです。「私(バルク)はエレミヤに言いました。『私が直接読むべきでした。私が読まなかったので、私の代わりに、神の言葉が受難にあった のです』『おまえのせいではないよ、バルク。巻物は受難にあった。が、その使命を果たしたのだ。今日一日で三回読まれた。神殿で、エリシャマの部屋で、王 の前で。そして巻物は燃えることによってエホヤキムの姿を明るみに出し、王家から神の憐れみを奪った』―――『君たち三人は神の言葉のためによく働いた。 王は聞かず、巻物を火に投げた。それは神のわざなのだ。悔いるにはおよばない』」(磯部隆『エレミヤの生涯』より)神の言葉が、まるで生き物のように、い や事実生きている神の言葉として、動き、働き、業をするのです。自分自身を、人々の手を通して王の前まで持って行かせ、そして王が逆らいそれを焼いても、 自ら焼かれることによって、神の業を行い、ますます進ませるのです。「神の言は生きていて、力があり、もろ刃の剣よりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄 とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(ヘブル4・12)「この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、つ いに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。」(Uテモテ2・9)
 また神は、ご自身の言葉を語りそれに仕える宣教者、奉仕者たちを、権力の脅しと圧迫・迫害から守られるのです。「王は―――書記バルクと預言者エレミヤを捕えるようにと命じたが、主は彼らを隠された。」
  さらに、こうして燃やされ消されてしまった主の言葉は、もう一度再び記されるのです。「巻物を王が焼いた後、主の言葉がエレミヤに臨んだ、『他の巻物を取 り、ユダの王エホヤキムが焼いた、前の巻物のうちにある言葉を皆それに書きしるしなさい。』―――そこでエレミヤは他の巻物を取り、エリヤの子書記バルク に与えたので、バルクはユダの王エホヤキムが火にくべて焼いた巻物のすべての言葉を、エレミヤの口述にしたがってそれに書きしるし、また同じような言葉を 多くそれに加えた。」罪ある人間は、神の言葉に逆らい、それを燃やして無きものにし、無効にしようし、それを闇の中へと忘れ去ろうとするでしょう。しか し、主なる神は、決してご自分の言葉をお忘れにならないのです。それを一字一句覚えておられ、記す者・語る者たちを起こして、それを何度でも繰り返して書 き記させ、語らせられるのです。「わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。また、から だを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(マタイ10・27〜28)

  神はご自身の言葉を守られるのです。神の言葉は、生きて働き、受難をも越えて生きて語るのです。このことを考えるとき、私たちは私たちの主・救い主イエ ス・キリストを思わずにはいられません。神の言葉、それは何より決定的・究極的にイエス・キリストによってこそ語られたからです。イエス・キリストご自身 が「神の言」、世の創られ始まるよりも前の「はじめ」から神と共におられた「神の言」そのものであったと言われるのです。「いつしか、主なる神はこの契約 を果たすためにわれらのいる低き所まで降り来たり、ご自身が血を流すごとき痛みを甘受されて、新しい契約をお立てになるでございましょう。」
(磯 部、前掲書より)罪ある人間たちは、私たちもまさにそのような者ですが、かれらはこの「神の言」イエス・キリストを捕らえ、苦しめ、十字架につけて殺し、 その「言」をこの世から消し去り、抹殺し、無きものにしようとしました。そしてイエスがこの世の敗北の有様で死んだとき、「ああ、これでもう邪魔物はなく なった、神の言葉はなくなった」と、安心したことでしょう。
 しかし「神の言葉はつながれてはいなかった」のです。父なる神は、三日目の朝、御子 イエスを死者の中から、罪と死の中から引き上げ、勝利をもって復活させられたのです。この復活者イエスによって、神の言葉は再び、またよりいっそうの力強 さと新しさと輝きとをもって語られ始めたのでした。「安かれ、あなたがたに平安があるように」と。「見よ、わたしは天においても地においてもいっさいの権 威を与えられた」と。「見よ、わたしは世の終りまであなたがたと共にいるのだ」と。

 神がご自身の言葉を守ってくださいます。それによっ て、神が、私たちの信仰の言葉、宣教の言葉、証の言葉、生きて働くための言葉をも守ってくださるのです。私たちが「信教の自由を守る」、そのための働きと 歩みのための力とは、この神ご自身の働きと力とを信じることなのです。
 「神はご自身の言葉を守り、私たちの信仰の言葉を守ってくださる」、そう信じたならば、私たちはこの神の導きと助けに忠実に、真実をもって、希望をもって従い行くのです。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイ24・35)

(祈り)
天地の主なる神、私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  あなたはご自身の言葉を守られます。この世の罪と悪の行いと業ににもかかわらず、それらすべてを乗り越え、勝利して、御言葉は進み行き、働き、神の業を成 し遂げます。私たちは、何よりこのことを「神の言」イエス・キリストの生涯、その十字架と復活によって知らされます。どうか、この時代、この社会、この国 にあって、私たちがあなたから与えられた信仰の自由、礼拝の自由、宣教の自由のために、またすべての人のための自由と人権のために祈り、働き、証しする私 たちまた教会としてください。
まことの道、真理、命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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