イエスにつかまえられて歩む                マタイによる福音書第14章22〜33節

 
 この話は、「マタイによる福音書」にだけあります。それは、「ペテロが水の上を歩く話」です。なぜ、これを取り上げているのが一つだけというように、少ないのか。それは、「いくらなんでも」ということがあったのではないでしょうか。
  福音書には、私たちの多くの者にとって信じがたいような奇跡の物語が数多くあります。それでも、それを行ったのがイエス・キリストであるならば、「神の御 子イエス様がなさったというなら、まだわかる」とも思えるでしょう。ところが、ここでは、なんと弟子のペテロが、「水の上を歩く」という信じられないよう な奇跡行為を行っているのです。これでは、「いくらなんでも」と、他の福音書はこれを取り上げなかったのも無理ないかと思うわけです。
 このお話 を、いったいどのように受けとめ、読んだらいいのでしょうか。これは、福音書の他の出来事を読むことにも関わり、共通するのですが、それは、「ペテロが水 の上を歩いたのだから、私たちも今日から水の上を歩く練習をしましょう」ということには、決してならないのです。聖書はそんなことを私たちに伝えようとし ているのではありません。
 ペテロと私は違う、あなたはまた違う。ペテロの人生とその課題は、私やあなたのものとは全く違うのです。だから、ペテロに起こったことは、「聖書に書いてあるのだから」、そのままあなたにも起こるというのは、基本的に違うのだと私は思います。
  しかし、そのように個々の人は基本的に全く違うのだけれど、そういう中にあっても、共通することはある。同じ人間であるとか、イエス・キリストを信じてそ の信仰によって生きて行こうとしているとか。その共通点の中で、私に向けて、あなたに向けて語りかけられているというメッセージを聞き取ろうとすれば、い いのではないでしょうか。

 その共通点の中で語りかけられているメッセージとは何か、私はこうだと思います。「『ペテロは舟からおり、水 の上を歩いてイエスのところへ行った』。イエスさまが『おいでなさい』と招く時、私たちは『自分にはとてもできない』という道に踏み出すことがあるのでは ないでしょうか。」「水の上を歩け」とは言いません、それでも、「とても私にはできない」ということがあるのです。そして、私たちの人生の主イエス・キリ ストは、そのような道へと「おいでなさい」と私たちを招き、導かれることがあるのです。
 その証拠と言ってはなんですが、この箇所を取り上げた二 つの印象深い説教があるのです。一つは、1934年にドイツでなされた神学者カール・バルトによる説教です。この前の年33年に、ドイツではヒットラーに 率いられたナチス党が政権を握りました。そしてその凶暴な支配を始めていて、それを教会にも伸ばそうとするところだったのです。この翌年バルトはナチス政 権によって、大学教授を罷免されてしまいます。そんな嵐の中で、バルトたちは「告白教会」というグループ・運動を結成して、ナチス政権に対抗しようとして いました。しかし、それはなんという「だいそれた」ことでしょうか。ただでさえ国家権力というものは強大で恐ろしいものです。しかもナチスという、全く何 の遠慮も飾りもなく権力をむき出しにして襲って来る者たちとその力に向かって、キリストの名において歯向かおうというのですから。それは、一人一人につい て言うならば、「とても私にはできない」ということだったのではありませんか。その時に、この御言葉が取り上げられ、語られているのです。
 もう 一つは、1978年に教団桑名教会で原崎清牧師によってなされた説教です。この時、彼の伴侶の原崎百子さんは末期がんに冒されて、「今日が最後の礼拝、説 教かも」という緊張感の中で過ごしておられました。43歳で召されて行かれたわけですが、「死」という全く未知の出来事、しかも若くしての突然の闘病と苦 しみを通してそれと向かい合わなければならないということは、どんなに大変な、苦しくつらい経験であり道であったことでしょうか。ご本人にとっても、また ご家族にとっても、まさに「私にはとてもできない」ということであったに違いありません。その只中で、この御言葉が語られ、響いたのです。バルトはこう 語っています。「特別な言葉に服従する人間、特別な奉仕を引き受けることを引き受ける用意のある人間。―――そのような岩を、イエス・キリストは、必要と し給うのである。イエス・キリストの教会には、単に待つことだけがあるのではない。―――そのような召された一人一人の人間が急ぐという事があり、目覚め るということがあり、立ち上がるということがあるのである。―――今ここで、この時に、この聖句によって、私たちは皆、一人一人『汝も特別な服従へと召さ れているのではないか』と問われているのである。」

 しかし、いきなり主イエスが「おいでなさい」と言われたわけではありません。その前 の背景と事情があったのです。この出来事の前、弟子たちが乗った小さな舟は、ガリラヤ湖の真ん中で、逆風と激しい波のため立往生し、彼らは孤独のうちに悩 み苦しんでいたのです。「特別な奉仕」と言わなくても、私たち一人一人と教会には、そのような時があり、そのような状況があるのではないでしょうか。
  しかし同時に聖書は、そんな弟子たちのために、彼らを確かに見て取り、一人祈るイエスの姿を語ります。そして、ついには、そんな彼らのために、湖の上を奇 跡的に歩いて、彼らに近づき、歩み寄ろうとされるイエスの姿を描くのです。「イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らのほうへ行かれた。」「幽霊 だ」と恐れ騒ぐ弟子たちに向かって、イエスは語りかけられます。「しっかりするのだ、わたしである、恐れることはない。」
 「わたしである」、こ れは旧約聖書の中で主なる神がご自分を現される時の言葉と同じです。「わたしはある」、「わたしである」。激しく揺れ動く舟の傍らにあっても、揺るがす弟 子たちのために歩み寄り、語りかけられる方。向かいから吹きまくる暴風の中、恐ろしくも打ち寄せる波の上にあっても、ものともせず歩み、苦しみと困難をも 引き受けて進み行き、近づいて来られる方が、今や彼らと共にいてくださるのです。このお方こそ、私たちのために十字架の苦難を負って、復活して勝利し、常 に私たちと共にいてくださる方、イエス・キリストです。このお方がおられるからこそ、このお方が近づき、声をかけてくださったからこそ、ペテロも「思いも よらない道」へと踏み出してみようとの勇気を与えられたのです。

 そのペテロに、今や主イエスは声をかけ、命じて、招かれます。「おいでなさい」。彼は恐る恐る足を下ろしてみます。「立った」、何と彼は水の上に立ったのです。そしてそろりそろりと足を踏み出す、すると歩けたのです。
  しかし次の瞬間、彼は自分の周りを見回しました。強い風、激しい波、吹き付ける雨。「なんてことを自分はしているんだ」、そう思った途端、ペテロは恐れに 捕らわれ、すぶすぶと沈み出し、溺れ始めるのです。バルトは語りました。「もし、ペテロが、ただイエスにだけ聞いて、風を見ないことに固執しようとしたな らば、どのように良かったであろう。彼がもはやこのことに固執しなくなるや否や―――すなわち、イエスと風、イエスと実際生活、イエスと『いかになすべき か、如何に成し遂ぐべきか』という問い、イエスと私の困惑、あるいは私の希望、願望、また私の様々な人間的問題、というような小さな『と』が登場するや否 や、一切は駄目になってしまう。その瞬間には、『恐れ』という、ここで起こったことが起こる。」

 しかし、ここに福音があります。ペテロ はこう叫ぶことができたのです。「主よ、お助けください。」私たちも、同じように、こう叫んでよいのです。「主よ、お助けください。」なぜならば、「わた しである、わたしはある、恐れることはない、しっかりするのだ」と語る方は、今も彼のそばに、彼のために、確かにおられるからです。
 そしてこの お方は、このような行動に出てくださいます。「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』。ふたりが舟に乗 り込むと、風はやんでしまった。」「『イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて』。その時にも、すべてはイエスさまにかかっています。決してペテロや私 ではありません。」そうです、あの「とても私には」という道にぶつかるのも、その道に歩み出したのも、決して私の決心の堅さや計画や見通しの確かさによっ たのではありませんでした。主イエスが先立ち、伴って、呼びかけ、招き、導き入れてくださったのです。ここでも、ペテロは恐れ、溺れそうになっても、この お方に手を伸ばされ、つかまえられて助けられ、抱きかかえられて引き上げられ、再びその旅を続けて行くことが許されるのです。私たちも、「イエスにつかま えられて、歩み」、生きることができるのです。「すべてはイエスさまにかかっています。決してペテロや私ではありません。」
 原崎牧師が、ある方 のメッセージを引いて語っておられます。「神は力強く、キリストは力強く―――すべて真実のキリスト者は力強かった。真実のキリスト者は、自己の弱さを苦 しむことにおいてさえも力強かった。彼らは行き詰まりに面した時も、真に行き詰まるまで歩いた。そして率直に行き詰まった。そうしたら、そこに神の力は現 れていた。」(鈴木正久氏、原崎百子『わが涙よ、わが歌となれ』より)原崎百子さんは、このような言葉を子どもたちに残して、神のもとに帰って行かれまし た。「人間が自分で自分の命を、自分の寿命を計画できる、思いのままにできる、としたら、こんな混乱が起こるんじゃないかしら。―――大きな国は水爆や原 爆を作りますね。お金持ちたちは、ますますお金をもうけようとしますね。そしてお金の力にものを言わせて国の政治まで動かそうとして、あんなロッキード事 件のようなことも起こります。―――私は、自分の寿命、生きる歳月ですね、いくつまで生きられると、そういうようなことだけ、それだけ、せめて人間の思い 通りにならないでいるということ、それは、ほんとうは、悲しいことではなくて、とてもいいことだと思えるんです。―――自分で自分のいのちが買えないか ら、だからわたしたちは、ほんとうにわがままな自己中心な人間同士なんだけれども、それでも、まだしも、目の見えない人や、被爆した人や、幼い子どもたち や、病人や、貧しい人のために、自分を削って何かをする、ーーーそういう余地がまだしも残されているのじゃないかしら。」(同上)

 「イ エスにつかまえられて歩む」、これが私たちの信仰であり、私たち一人一人の生きる力であり、人生の秘訣です。また私たちの教会の「足を照らす光であり、歩 む道のともしび」なのです。それは、「とても私には、私たちにはできない」と思われる、主によって導かれたその道においても、私たちを支え、力づけ、導く のです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
 私 たち一人一人は、それぞれにあなたから贈り与えられた人生を歩んでいます。その道の中で、イエス・キリストは常に私たちのために、私たちと共におられま す。このお方の呼びかけの中で、私たちは時に思いもよらない道、「とても私にはできない」という道にも導かれ、このお方の復活の御手によって、恐れと危機 においても、手を伸ばされ、しっかりとつかまえられて、助けられ、歩み続け、ついに目標にまで達することがゆるされます。この計り知れない恵みを覚えつ つ、今週も私たち一人一人またその教会をあなたの証人、出会うすべての人のしもべとして導き、お用いください。
まことの道、真理そして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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