神だけが生かし、導く                マタイによる福音書第4章1〜11節

 
  JRがまだ国鉄だった頃のことですが、こんな宣伝文句がありました。「愛の国から幸福へ」。もう廃線になってしまったようですが、北海道にあった鉄道路線 に、「愛国」と「幸福」という二つの駅があって、その区間の切符が若い人たちを中心に「縁起物」のようにして盛んに買われたのでした。それになぞらえて言 いますと、主イエスのご生涯は、このように言い表す事ができるでしょう。「荒野を通って十字架へ」。イエス・キリストの公の働きは、ヨハネからバプテスマ を受けることによって始められました。バプテスマでヨルダン川から上がるとすぐに、イエスが向かったのは、この荒野でした。そしてここで、悪魔から誘惑を 受けられたのです。そしてこの苦しみと試練の道は、まっすぐにあの十字架へとつながっているのです。

 さてここに、「誘惑」という言葉が 出てきましたが、「誘惑」とは何でしょうか。一般的には、誘惑とは、私たちをも誘い惑わして、神から引き離し、遠ざけ、さらには背かせ、道を踏み外させる ものです。だから私たちは、毎週「主の祈り」の中で、「我らを試み(誘惑)にあわせず、悪より救い出したまえ」と祈っているのです。
 ただ今日特 に気をつけたいのは、「誘惑(試み)」は、避けてばかりもいられないということです。イエス様のように「神の御霊に導かれて」、あえて試みに直面し、対決 しなければならないこともあるのです。なぜならば、イエスが真っ先になさったように、神に従おうとして生き始めるなら、そこで「悪魔」は立ち上がり「誘 惑」は起ってくるからです。その中でこそ、神の御心と道が明らかになることがあるからです。
 そして、この「誘惑」とは、大変広い局面で起こり、 私たちはそれらと向かい合わなければなりません。「救われることによって、あなたが立ち向かわなければならなくなる相手は、あなた個人の欠点や悪い癖、さ さやかな誘惑やつい犯しそうになる小さな犯罪だけでありません。あなたは『暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊』と呼ばれるような相手と立ち向かうこと になるのです。悪は巨大で、壮大な存在であり、組織立てられ、ずるがしこく、隅々にまではびこるリアルな力です。しかもこのもろもろの勢力は、それが悪だ とわかる姿や威圧的な姿をして現れる我ではありません。このもろもろの勢力は、気前よく私たちに振る舞われる自由の衣を身にまとい、あるいは、それがなけ れば生きていくことができないものであるかのように装い、私たちを訪れるのです。たとえば、『経済』はこのもろもろの勢力のひとつです。―――経済は、私 たちの生活を決定し、私たちを喜ばせることも悲しませることもでき、私たちが死にものぐるいになって力を注ぎ込み、自分の身を投じるだけの価値のある相手 であると信じ込むように教わってきたのです。―――1991年の対イラク戦争で空爆攻撃が行われた後、なぜこれほど多くの人びとが殺されることになったの かと、空軍司令官は問われました。『国防上の必要である』。議論はそのひと言で打ち切られました。ここにも、もろもろの勢力が姿を現しています。」(ウィ リモン/ハワーワス『主の祈り』より)でも、そのようなすべての誘惑と試みの中に、「インマヌエル(神我らと共にいます)」という別名を持っておられる、 私たちの救い主イエスは、すでに先立ち、また私たちと共にいて、私たちを助け守り導いていてくださるのです。

 この悪魔との関わりの中 で、イエス様にとっていったい何が問題だったのでしょうか。悪魔はイエス様に対して、繰り返しこう言っています。「あなたが神の子であるなら」。主イエス はまさに「神の子」であられました。悪魔はその中心点に対して、真っ向勝負を挑んでいるのです。「あなたが神の子であるなら」、あなたは「神の子」でしょ う、「神の子」ならこういう「神の子」であるべきでしょう、それならばと、悪魔はイエス様に「神の子」の一つの勝手なイメージを押し付けようとしているの です。それを受けたイエス様にとって、「自分はどのような神の子であるのか。自分は、どのような神の子であり、どのようにして神の子として生きて行くの か」ということが、きわめて大切な問題だったからです。それは、裏を返せば、そのイエス様を信じ、これを今読んでいる私たちにとっても、大きな大切な問題 として迫ってきます。「私たちは、イエス様をどのような神の子と信じ、それを信じて、どのように一人の人として自分自身生きて行くのか。」イエス・キリス トにとって、「神の子として生きる」ということと「人間として生きる」ということは、一つの事柄でした。なぜならば、主イエスは「神の子・救い主」とし て、私たち罪人が神の前で投げ捨て、失ってしまった、「人として正しく生きる」という道を回復し、新しく開いてくださったからです。

 そ のようにして、悪魔が最初にイエス様に投げかけた誘惑、問いは、「人間として生きること」そのものでした。それは、「食べること」を巡ってでした。イエス は四十日四十夜断食をし、空腹になられた。すると試みる者が来て言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさ い』」。「食べること」は、「人間として」、体と魂、命を持って「生きる」ことに直結し、「生きる」ことそのものを表わします。
 主イエスは、こ の悪魔の申し出をはっきりと断られました。「イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものであ る』。」これは、旧約聖書申命記第8章からの引用です。この言葉を、どう考えればいいのでしょう。ある人はこう言ったそうです。「人はパンだけで生きるも のではない。肉も野菜も必要だ。」これは冗談ですが、でもこういうふうに解釈し読んでいることが、私たちにはよくあります。「人はパンだけで生きるもので はない。しかし、パンなしでも生きられない。」あるいは、「パン、食べ物があって、物質的に満たされているだけではいけない。もっと精神的・宗教的な支え や慰めがなければならない」。
 ところが、イエス様がこの言葉を引かれた元の旧約聖書の文脈や意味は違うのです。そこでは、神様が、荒野の旅をす るイスラエルの民を日々導き、彼らが神に逆らうにもかかわらず見捨てることなく、毎日毎日マナという食べ物を与えて、日々彼らを養われたことが思い返され ます。その上でこう言われるのです。「そこで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ―――マナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は 主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8・3)つまり、イエス様にとって、パンと神様の言とは、切 り離されて別々に、「これも必要だけども、あれも必要だ」という具合にあるものではありません。そうではなくて、「神だけがわたしを生かし、あなたをも生 かしてくださるのだ。神こそが、その口から出る一つ一つの言によって、あなたに物質的・肉体的なパンをも与え、あなたを人間として生かし、養われるのだ。 わたしはこの神にこそ信頼し従い、そうして生きるのだ、」とおっしゃったのです。

 次に悪魔が主イエスに投げかけた第二の問いは、「で は、神を信じるとはどういうことか」ということでした。「それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、『もしあなたが神の 子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じあなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえる であろう』と書いてありますから。」悪魔が引用したのは、なんと『聖書』です。「悪魔が聖書を引用するのか!」いや、悪魔だから引用したのかもしれません よ。悪魔は私やあなたより、はるかに聖書をよく知っているのではないでしょうか。そしてそれをもって、私たちを神から引き離そうとさえするのではないで しょうか。
 悪魔はこうイエス様に持ちかけたのです。「神の言葉である聖書にこう書いてあるのですから、それをあなたの都合のいい時に、都合のい いように使ったらいいではありませんか。そうして、あなたが願う望む通りに、神様に助けてもらえばいいではありませんか。あなた自身が、自分の人生の主人 公であり導き手なのですから。」私たちにとっては、その反面の問いが投げかけられるかもしれません。「もしあなたの願いが叶えられないなら、神を信じて何 になるのか。」「神の子であるなら、下へおりてごらんなさい。」この問いかけは、まっすぐに十字架の下へとつながっています。「もし神の子なら、自分を救 え。そして十字架からおりてこい。」(マタイ27・40)
 これに対して、イエス様は別のこの言葉を聖書から引いて、この悪魔の申し出をもきっぱ りと断りました。「イエスは彼に言われた、『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある。」イエスはこの後、度々奇跡の業を行われますが、そ れを自分のためになさったことは一度もなかったと言われます。「わたしが求めるのは奇跡でも、自分の願いと目標の実現でもない。わたしは神の御心に従い、 神が出会わせられる他者のためにこそ、業と働きを行う。わたしが自分の人生を動かしているのではなく、神だけがそれを導いておられるからだ。」

  そして、悪魔がつきつける最後の問いは、「だれの支配の下で生きるのか」ということでした。「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のす べての国々とその栄華とを見せて、言った、『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう』。」ここではもう悪魔は なりふり構わずにいます。「あなたが神の子であるなら」と、礼儀正しく敬虔そうに語りかけるのではなく、悪魔としての本性と支配を剥きだしにして、主イエ スに迫るのです。
 「悪魔によって主イエスが誘惑された物語が指し示しているのは―――私たちがいったい誰を拝んでいるのかという問題であること です。ーーー誰をこの世界の責任者と認め、誰の意志がこの世界で最も重要であると認めるのか、ということなのです。信仰の中には、この世の問題から逃れる ことを願っている信仰者ひとりひとりに、剣と盾、ぶどう酒とパン、あるいは政治と権力というような、目に見える地上の事柄とは距離を取らせようとするもの もあるでしょう。しかし、キリスト教はそのような宗教ではありません。肉体と魂を持つ、あなたが求められているのです。―――ですから、あなたがどのよう に金を使い、時を用い、誰に投票するのかということについても、物を言わざるをえないのです。」(前掲『主の祈り』より)
 これに対して、主イエ スもまた遠慮はしません。ただ一言、きっぱりとこう答えられたのです。「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』。」だから、主 イエスの道は、まっすぐに十字架へと続くのです。「イエスは、神のみわざを人間世界の力関係の類比で理解することを、厳しく拒否されたのです。むしろ神の 力あるみわざは、人間的には弱く、排斥され、差別され、その痛みが御自分の存在を刺し貫くまでに、人間の弱さに参与されることにおいて―――換言すれば、 もっとも無力となるという仕方において―――示されるのです。」(岸本羊一『スキャンダラスな人々』より)
 大先輩である安藤栄雄牧師は、若い頃 キリスト者として消費者運動や公害反対運動に取り組んでおられました。その中で公害を出している企業と、真正面から対決しなければならいことも度々であっ たということです。その先生が、このような証をしておられたのを、忘れることができません。「人間の命や神が創られた自然よりも、もうけのためには手段を 選ばない企業と向かい合っていく中で、私自身も憤りと反発を覚え、『よし、それならこちらも、私も鬼になってやろう』という気持ちになったことが多くあり ました。そんな私を救ってくれたのは、毎週の教会の礼拝でした。そこで語られる神の御言葉の一つ一つが、私を、『こっちも悪魔や鬼になってやる』という思 いから救い、神の前で人間として正しく生きることを取り戻させてくれたのです。」
 この道はまっすぐに十字架へと続いています。そして、主はこの 道を通ってこそ復活し、勝利されたのです。この道で、主は私たちに先立ち、私たちと共にあり、そして私たちのために勝利されたのです。この道の一歩一歩の 歩みの中で、神は「その口から出る一つ一つの言によって」、私たちをも生かし、養い助け、導いてくださるのです。ただ神だけが私たちを生かし、そして導く のです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
 主 イエスは、私たちに先立って、私たちのために、私たちと共に悪魔の誘惑を受け、そして勝利されました。ただ神だけが私たちを生かし導かれることを示し、神 の前で人間として正しく生きる道を示し、ご自身の生涯、その十字架と復活とをもって切り開かれたのです。私たちもこのお方と共に、あなたに従い、あなたの 前で正しく喜ばしく、共に生きる一人一人また教会としてください。
まことの道、真理、また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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