行き過ぎた恵みから始まる                マタイによる福音書第3章1〜3、13〜17節

 
  新年になってだいぶ時間が過ぎ、皆さんの多くは、お仕事や活動などがもう本格的に進んで来ているということが多いかもしれません。ですが、今日は少しさか のぼりまして、「仕事始め」のお話です。と言いましても、「イエス様の仕事始め」です。イエス様の「仕事始め」、その公の働きの最初が、今日の出来事でし た。それは、ヨルダン川に出て行って、洗礼者ヨハネという人からバプテスマを受けるということだったのです。
 「バプテスマ」、これは私たちに とっては、イエス・キリストを信じた人がクリスチャンになるための、「第一歩」としての大切な行事・儀式です。イエス・キリストと出会い、イエスを信じた 人は、バプテスマを受けるのです。特に私たちバプテスト教会には、必ず「バプテスマ漕(バプテストリー)」という大きな水槽があります。そこに水を張り、 その中にこれからクリスチャンになろうという人が入っていって、牧師など担当の人によって、その水の中に全身を沈めてもらい、そして起こしてもらうという ことを行います。これを「バプテスマ」と呼ぶのです。「水に浸す、沈める」ことを、「バプティゾー」というからです。私たちがこのバプテスマを受けるとい うのは、私たちの主イエス様が、最初にこうしてバプテスマを受けられた、その後に従おうとするからなのです。

 聖書によりますと、イエス が受けられたバプテスマというのは、ヨハネという人が宣べ伝え、行っていたバプテスマでした。当時まででも、これと同じような儀式は割と行われていたとい うことです。つまり、罪を悔い改めて神におわびの気持ちを表わして、罪の汚れを水で洗い清めることを象徴する儀式です。ところが、このヨハネという人は、 それに独特な性格を与えて、「特別なただ一回きりのバプテスマ」としてこれを伝え始めたのです。
 まず、それは彼が人々に伝えたメッセージと密接 に関連していました。ヨハネは「神の国は近づいた」と語り始めました。「神の国」というのは、「どこかの場所」という意味ではありません。それは、「神の 支配と導き」を意味します。「神様の大きな働きがもう間もなく起こる、やって来る」というのです。私たち一人一人の人生も、また私たちみんなが形作ってい るこの世界も、共に神様の御心から離れ背いてしまっているというのが、聖書の見方です。ところが、神様はそのような私たちとこの世界を放って置かれないの です。神様はこの世界にご自身がおいでなって、私たちをもう一度ご自身のもとに連れ戻し回復しようとなさる、それが「神の国」の働きであり運動なのです。 ヨハネはこのことが一人の人、一人の方を通して起こるのだと言いました。「わたしのあとから来る人は、わたしよりも力のある方」。この「神の国が来る」と いうことを信じ、それに備えて準備すること、そのしるしが「バプテスマ」だったのです。
 次に、「バプテスマ」というのは、「悔い改め」のしるし でした。「悔い改め」と言うと、「懺悔」とか、日本語にはとかく「暗い」イメージがありますが、本当の意味は「方向転換」です。「向きを変える」、やがて 間もなく来る「神の国」に向かって自分の「向き」を変える。これまではよそを向いていたけれど、これからは神様に向かって、その支配と働きに向かって自分 の向きを変え、生き方の方向を変えて、新しく人生を歩き出す、これが「悔い改め」です。「わたしはそうします」ということを形で表わすのが、バプテスマな のです。

 このヨハネの「神の国」のメッセージに賛同して、それに自分も加わりたいという意志を表しつつ、今イエスはヨルダン川にやって 来られます。そして、まさにヨハネからバプテスマを受けようとされるのです。ところが、ヨハネはこれに反対し、これを断ろうとしました。「ところがヨハネ は、それを思いとどまらせようとして言った、『わたしこそあなたからバプテスマをを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのです か』。」なぜなら、ヨハネはイエスこそ、まさにその「神の国」をこの世にもたらす実現するその人であると知っていたからです。「わたしのあとから来る人は わたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。」イエスこそ、ヨハネよりも優れた方、神の国をもたらす方、罪なき方である と、ヨハネはよくわかっていたからです。申しましたように、バプテスマとは「罪の悔い改め、神様へのおわび」の式です。そんなものを、なぜ「罪がない、正 しい方」であるイエス様が受けなければならなかったのか。
 その答えは、主イエスのヨハネへの応答の中にあります。「しかしイエスは答えて言われ た、『今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである』。」イエスが今バプテスマをお受けに なる、それは「正しいこと、ふさわしいこと」を行なうためであった、というのです。「正しいこと、ふさわしいこと」、それはイエスをこの世に送られた神に とって「正しいこと」、そして神から送り出されてここにまで来られたイエスにとって「ふさわしい」ことであったに違いありません。

 その「正しいこと、ふさわしいこと」とは、一体何でしょうか。
  ある人が大変興味深いことを語っておられます。一般的・常識的・伝統的には「正しいこと」とは、こうだというのです、「人間の行為に精確に即して報賞(ほ うび)と罰とを割り当てる」こと。つまり、ある人が良いことをしたとすれば良いものをほうびとして与え、悪いことをした者には悪いことを罰として与えるこ と。これは現代の私たちの社会では「自己責任」の論理として通用しています。いいことも悪いことは、すべては私たち自身のした行為の是非によって決めら れ、配分され、実現される。それが「正しいこと」だと、私たちの多くは思っている。「悪いことをして、怠慢をして、失敗をしたのだから、悪いものを受けて も、ひどい目にあっても、それで苦しんでいても、それは当然、自業自得、自己責任、それを助ける必要はないし、むしろ助けないのが『正しいこと』」、そう 私たちは思っているかもしれません。さらには、そんな人を助けることは「行き過ぎたこと」であって、かえって「悪」であると。今は、「行き過ぎたこと」が 是正される時代です。「保護や福祉の行き過ぎは、人を甘やかし社会を駄目にする」、「権利の主張の行き過ぎは社会の秩序を緩めて危機に陥らせるから、義務 も同等以上に言わなければならない。」

 ところが、神様にとって「正しいこと」「神の義」とはこうだというのです。「それは他者に対し て、その人が必要としている点において応じる振る舞いのことである。」(以上、『NTD新約聖書注解2「マタイによる福音書」』より)「その人が必要とし ている」ことを行い、与える、これが「神にとって正しいこと」だと言うのです。相手の人がいい人であるか悪い人であるかを問わない、その人が悪いことをし たかいいことをしたかを問わない。その人に助けが必要なら、助けを与える。たとえその人が悪いことをしたために苦しんでいたとしても、その人に助けが必要 なら助けを与える、赦しと再出発が必要なそれを与える、それが「神の義」、神様の正しさだというのです。
 聖書の「主なる神」は、ずっと「罪と不信の民イスラエル」に向かって、そのように接して来られました。そして今神は、すべての人に対して、このお方イエス・キリストにおいて、まさにこのように「正しく」行動され、行為なさるのです。
  聖書によれば、私たちは神から離れ、神に背き、自分勝手に自分の道を歩んで来た者たちです。そんな「罪人」たちが、自分の罪のために苦しみ、傷つけ争い合 い、その結果として罰を受け、滅んでも、それは「自業自得」「当然の報い」なのか。いいえ、神様はそう考えられなかったのです。罪人に助けが必要なら助け を与える、赦しが必要なら赦しを与える、そのためにこそ今救い主イエスをお送りになるのです。
 イエスのバプテスマ、それは徹底的に罪人と共にな る、どこまでも連帯的になる、最後までどん底までも一体となる、そのような行為であると言われます。なにしろ、「悔い改めべき罪人」の一人となって、そこ まで降りて行って、そこまで一緒になるのですから。本来的なことを言うならば、イエス様は罪人と共にいなくてもよかったでしょう、また他者の罪を自分が引 き受け負う責任も必要もなかったでしょう。しかし、その共にいなくてもよいはずなのに共にいる、その負わなくてよいものをあえて負い担う、それがイエス・ キリストの生涯であり、それをまさに表し始めるのが、このイエスのバプテスマだったのです。この主イエスの恵みは、私たちの基準からしたら「行き過ぎ」て います。しかし、この「行き過ぎた恵み」から、イエスの生涯は始まり、働きはなされて行くのです。

 ヨハネによってヨルダンの水に全身沈 められ、そこから上がった時、このようなことが起こりました。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊 が鳩のように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』。」それ は、天の父なる神からの「オーケー」でした。「それでいいのだ、これが神にとって正しいことであり、このイエスこそわたしが喜び送った者、わたしが願うこ とをふさわしく行ってくれる者」。ここからイエスのお働きと歩みが、今始まって行くのです。
 そして、イエス・キリストを信じ、イエスに従う者と なる私たちの歩みも、ここから新しく始められて行くのです。イエスの「行き過ぎた恵み」によって引き受けられ、担われ、赦され、生かされた私たちは、この 「行き過ぎた恵み」に答え、これを表し指し示すような生き方へと呼びかけられ、招かれ、導かれるのです。
 「洗礼(筆者注:「バプテスマ」と読 む、以下同じ)は天国行きのキップではないし、一生安心して暮らせることを保証する保険でもない。イエス・キリストの死という恐ろしい出来事に自分も参与 することだという。しかも、イエス・キリストの死は、処刑という晴れがましくも誇らしくもない死である。―――イエス・キリストの死、十字架上の刑死を招 来したものは―――『イエス・キリストの生』であった。それは―――恵まれない人々と苦労する、という生き方であった。私たちの中には、『お前が必要だ、 私と一緒に苦労してくれ』と言われても、いろいろな事情から、『ちょっと待ってくれ』と言わざるを得ない人もたくさんいるであろう。―――にもかかわら ず、『一緒に苦労してくれ』という呼びかけに応じてくれる人、またそうできる事情の人がいれば、それはもちろん大きな喜びである。私たちは、神が用意して くださった私たちの状況に許されて、神と共に苦労してみようという決断ができた――そういう意味において幸せ、また恵まれているのであろう。だからこそ、 私たちは、同じ招きを人々にしたいと思うのである。―――それは決して、安心立命、無病息災、家内安全――またその延長線上にある精神的・抽象的『恵み』 の約束であってはならない。―――その『苦労』は、教会の存続と生きのびるための苦労ではない。人々の苦しみと悲惨を、どれだけともにしようとしているか が、教会の分かち合うべき『苦労』である。―――だからこそ、その中から、共に苦労をしてくれる者を得た喜びは大きい。」(植田仁太郎、『アレテイア 釈 義と黙想 マタイによる福音書』より)
 しかもこのことを、イエス様は「外から」「上から」眺めて、命令し指図するのではなく、その道の中へと入 り込み、自らがその道に先立ち、その道を自分がたどることによって、私たち人間を導こうとなさったのです。バプテスマにおいて、本当に主イエスは私たちと すべてを共にしてくださいます。何度も申しますように、イエス様ご自身が、ヨルダン川の中へと、バプテストリーの中へと、バプテスマの中へと入って来られ たのです。私たちが決心して水の中へと入る時、悔い改めをもって低い所に身を置こうとする時、その時そこにイエス様も共におられるのです。どこか私たちの 遠くにおられるのでなく、実に近くに、そのただ中にいてくださるのです。「今ここからわたしはあなたと共にいるよ」と語っていてくださるのです。それは、 「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」、私たちもまた主イエスと共にこの神の御声を聴きながら、この主と共に始まり、主と共に行く道な のです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
 主 はその最初の働きとして、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。それは「身を沈める、全身を低い所に置く」こと、そして「神の正しいこと、ふさわし いこと」を行なうためでした。それは、私たちと共にあり、私たちとその罪を引き受け担うことでした。この「行き過ぎた恵み」によって救われた私たちもま た、この恵みに答え、これを行い表わす一人一人、また教会とされますように。
世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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