星が導く、神が導く                マタイによる福音書第2章1〜12節

 
 皆さん、あけましておめでとうございます。私たちは、この年最初の礼拝を献げています。今日私たちは、世界で最初に救い主イエス・キリストの前で礼拝を献げた人々のことを聞いています。それは、東の国から来た博士たちでした。
  さて、昨日1月6日は、教会の暦では「公現祭」と言いまして、今日取り上げました「東の国の博士たち」が、クリスマスにお生まれになった幼子イエスを訪ね て来たことを記念する日なのです。ちなみに、この「博士」たちが「三人」であったというのは、よく読んでみればおわかりのように、聖書にその人数が書かれ ているわけではなく、贈り物の数から「三人」と推定しているのです。この出来事は、クリスマス劇などで大変有名ですが、でも、この「博士」たちについては それほど深く知られているとは思えません。「博士」、またこの訳では「占星術の学者」と言われていますが、彼らはいったい何者であったのでしょうか。ま た、そもそもなぜ、幼子イエス様を訪ねて来たのでしょうか。
 彼らのことを、原語では「マゴス」と呼びます。これは、イスラエルから見てペルシャ などの東の国々で、そこの宗教の「祭司」としての務めをする人々であったと思われます。当時の古代世界には、星などの天体の動きが世界の歩みとその運命を 司っているという観念が広く広まっていました。そこで、このマゴスたちは、それらの星の動きを観察しながら、この世界はどのようにして進み、これから世界 はどうなっていくかを探求し、人々を指導していたのです。そういった星の観測をしたり、それに基づいて暦を作ったりすることは、高い技術と教養を必要とし ます。ですから、彼らは、当時の世界にあっては、神学・哲学・自然科学を代表する最高技術者であり、エリートであり、また支配階級に属する人々であったの です。しかしまた、聖書の伝統からしましたら、かれら博士たちは異邦人また異教徒であり、神から遠く、また神の祝福・救いから遠い者とされていたのです。

  この「マゴス」「博士」たちが、あるとき、実に珍しい、不思議な星を見つけました。それが具体的にどのような「星」であったのかは知るよしもありません が、とにかく彼らのそれまでの常識ではありえないような「星」であったことは間違いありません。彼らは、この不思議な「星」について、さまざまに調べ、研 究しました。その結果、おぼろげながらも、これは「西の国で、この世界に平和と正義をもたらす偉大な王が生まれた」というしるしであることがわかりまし た。それを知ったとき、この「博士」たちは、その「西の国」を目指して旅立ち、そして今、このユダヤの都エルサレムにまで到着したのでした。「イエスは、 ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。その時、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれ になった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」
 彼らはなぜ旅立ち、なぜ来たのか、それは 「道」、「生きるべき道」を求めたからであったと思います。それは、彼らがこのために払った犠牲の大きさに表れていると思います。そもそも、当時にあって は、このような旅は、大変な冒険でした。飛行機や自動車があるわけではありません。何日もかかります。また、長い旅の間に何が起こり、何が襲ってくるか、 わかりません。病気、盗賊、災害。死を意味するかもしれません。彼らは、故国で持っていた地位・職務や名誉、財産といったものを、いわば投げ捨てるように して、出て来たのです。

 そうして彼らを促し、導いたのは、「星」でした。「星」とは、神様の語りかけであり、問いかけであり、導きで す。彼らは「星」を相手の仕事でした。その毎日の営みのただ中に、この「星」は輝いたのです。どのような人の歩みの中でも、皆さんの営みと歩みのただ中で も、神様はその人のために「星」を上らせ、輝かせてくださいます。
 ところが、この博士たちの道は、いつしか行き詰まり、迷いの中にはまり込んで しまいます。彼らは、正しいベツレヘムではなく、当時のユダヤの都エルサレムに来てしまったのです。それは、情報が乏しく不正確であったというのも確かで すが、それと共に、それは、今までの彼らの生き方や方向性によって導かれたものであったと思います。彼らはきっとこう思ったのです。「王様なら、国の中心 だろう、富み栄えている都だろう、きらびやかな宮殿だろう。」彼らのこれまでの居場所は、基本的に王の宮殿・神殿でした。彼らは東の国において、王たち支 配階級に仕え、彼らの学問や占い・まじないの技術によってその政策や制度・体制を正当化し、守ることによって生活し、そのことによって彼らは多くの特権と 名誉と利益を得ていました。だから、彼らの考え方・生き方は、「権力志向」「上昇志向」「『中心』志向」でした。要するに、「『中心』を目指し、『強 く』・『高く』なることを目指し、また既にそのような位置にある者たちになびき、従っていく」、そういうものであるほかはなかったのです。
 その 都で彼らが出会ったのは、彼らの道を迷わせ、彼らの思いを鈍らせ邪魔をするような人たちでした。まず何と言っても、ヘロデ王です。ヘロデ王は、自分の地位 と権力を守るためには手段を選ばないような冷酷無残な権力者です。ヘロデは、彼らを利用して幼子イエスを殺そうとします。博士たちは、そのための手先にさ れそうになるのです。また、エルサレムの住民たち、ヘロデによる今一時の繁栄と安心・安全を守りたくて、「新しい王」などはごめんだと思い、ヘロデと共に 「不安を感じ」てしまう住民たちでした。さらに祭司・律法学者たち、ヘロデから問われて、「救い主はベツレヘムに生まれることになっています」と聖書を引 きつつ答えたものの、自分からは決してそこに行って救い主に会おうともしない学者たちでした。博士たちは、がっかりしたと同時に、深く考え、反省させられ たことと思います。ここで出会ったヘロデ王や、エルサレムの人々は、つい昨日までの「自分」と同じではないか、そして「自分」もまた「今まで」と同じ考え 方・生き方の中に留まってしまっている、だからこそこうして道を誤ってしまったのだ。

 その時、もう一度、あの「星」が彼らの上に上るのです。それは、神による「星」です。
それだけではありません。彼らには、いまはっきりと聖書を通して語られる神御自身の御言葉と約束が与えられたのです。「新しい王、全世界の救い主は、ベツレヘムにおられる。」
「星」ではなく、神様御自身が彼らを導いて行くのです。
  彼らは喜び勇んで出かけて行きました。すると、「見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らは その星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没 薬などの贈物をささげた。」
 「非常な喜び」、大いなる喜び、私は、それは「最も大切なもの、すべてをささげて生きるに足る道を見つけた」という 喜びであったと思います。私たちの一生は、ただ一つのものです。そして、一度限りのものです。そうであるなら、私たちはその一生を、悔いのない、いやそれ 以上にわたしのすべてを注いで、ささげて、懸けて生き抜くにふさわしいそんな道を、人生を求めているのだと思います。博士たちは、自分たちの「宝」を、今 まで自分たちを支えてきたと思っていたものを、ベツレヘムの幼子の前に投げ出しました。それは、彼らがそのような「新しい道」をこのお方のところで見出し たことを表しているに違いありません。
  それは、あのイエスが選び取られた道の後に続く道でした。「クリスマスの御子」イエスは、彼らの今までの道とは全く反対の生き方とあり方と道をお選びに なったのです。イエスは、「上る」のではなく、「下る」こと、すべての力と栄えを捨ててこの世界に「下る」ことを選ばれました。また、その生まれた場所 は、中心的都エルサレムではなく、「小さいもの」と言われたベツレヘムの村であり、また光り輝く宮殿ではなく、みすぼらしく、寒くて、臭く、汚い「馬小 屋」でした。
 今彼らは、なんという「遠く」までやって来たことでしょうか。都の宮殿で、力と輝きを身にまとい、「強さ」と「高さ」を「売り物」 にする王たちに仕えていた彼らは、今「小さい者」である村ベツレヘムの、貧しく、みすぼらしい「馬小屋」で、最も低く、弱くあられる幼子に、大いなる喜び をもって出会っているのです。おまけに、この方こそ人を救い、この世界を回復してくださる方であると信じて、自分の大切な「宝」をその前に投げ出して、ひ れ伏し、礼拝しているのです。

 その後の博士たちの歩みについては、何も伝わってはおりません。しかし、そのことを示唆してくれる一つの お話をご紹介します。「本の題名は『もう一人の博士』。19世紀のアメリカの牧師さんだったヘンリ・ヴァン・ダイクという人が書きました。実は、もう一人 博士がいて、4人で来るつもりだったのに、ひとりは遅れて、イエスさまがベツレヘムにいらっしゃるうちに、間に合ってイエスさまにお会いすることが出来な かった、という物語です。その『もうひとりの博士』の名前はアルタバン。―――仲間の3人の博士たちとともに、生まれたばかりのイエスさまを礼拝するため に旅立ちます。けれども、アルタバンは、他の3人との待ち合わせ場所に向かっていたとき、死にかけているユダヤ人に出会ってしまいます。ーーーアルタバン はこの人をほうっておくことが出来ませんでした。このユダヤ人を助けてから旅を再開したのですが、案の定、3人は先に出かけてしまい、アルタバンは3人に 追いつくために、一人で砂漠を旅しなければならなくなりました。旅路は守られて、仲間たちより3日遅れでベツレヘムに到着しました。でも、アルタバンが到 着したその晩、ヘロデ王によってベツレヘムの赤ちゃんが皆殺しにされる事件が起きました。イエスさまと両親は、既にエジプトに逃れたあとでした。アルタバ ンは、イエスさまに会うことが出来なかったのです。そのあともアルタバンはイエスさまに会おうとしました。イエスさまに会うには、『貧しい者、身分の低い 者、悲しんでいる者、しいたげられている者の中を注意してみていなさい』と助言されたので、そういった人々のところに行ってイエスさまを探しました。でも イエスさまに会えそうで会えない。その代わり、行く先々で出会った貧しい者、悲しんでいる者を助けて回りました。そうして33年も経ってしまいました。ア ルタバンはもう一度エルサレムに来ました。イエスさまが十字架につけられようとするところでした。ペルシャの国から、生まれたばかりのイエスさまにささげ るつもりで持ってきていた宝石のうち、最後の一つが残っていたのですが、それをささげて、身代金とし、イエス様を助けようと思った矢先、目の前で別の女性 が奴隷として売られようとしていたので、その女性を助けるために最後の宝石を使ってしまいます。アルタバンはこれで、イエスさまにお会いする最後のチャン スも失ってしまいました。イエス様が十字架上で亡くなられたとき、大きな地震が起きて、その地震でアルタバンも命を落とします。アルタバンは死ぬ間際にイ エスさまの声を聞いたようです。―――『あなたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらのもっとも小さいもののひとりにしたのは、すなわち、わたしに したのである。』この声を聞いてアルタバンは息を引き取りました。」(赤石めぐみ氏による)
 星が導く? いいえ、神が導くのです。この新しい年、あなたを、教会を、この世界を、神御自身が導かれます。その導きに従い、ベツレヘムの飼い葉桶に生まれたイエスに従いつつ、神による「別の道」、新しい道を導かれて、共に歩んでまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  博士たちは、自分たちの生活と働きの中で「星」を見つけ、その星によって、いや主なるあなたによって導かれて、幼子イエスに出会い、まことの礼拝と、新し い道とに至らされました。この新しい年も、他ならぬあなた御自身が私たちを導いてください。そしてどうか、「別の道」、新しい生き方へと、私たちをも踏み 入らせてください。
まことの道、真理、また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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