「見よ、わたしはすぐに来る」                ヨハネの黙示録第22章12〜17、20〜21節

 
  今年も、今日で「終わり」です。「終わり」を迎えることは、ある意味でさびしいことです。幼い頃のことを思い出します。学校が休みの日曜日が、夕方になっ てもうすぐ終わってしまうというとき、また長い夏休みがもう終わってしまうというとき、なんとも言えないさびしさ、あるいは虚しさすら感じたことを思い出 すのです。「ああ、どんなに楽しい時間も、いつかは終わってしまうのだな」ということを、幼心にも感じていたのでしょう。
 そして、私たちすべて の者にとって、一年の終わりをこうして迎えるということは、極めて厳粛なことでもあります。私たちの一生は、ある限られた何十年とかいう期間です。ですか ら、私たちにとって、この地上で生きることを許される期間は、一年が終わるごとに、確実に一年間分減ってしまったということなのです。それは、ある意味で 「残念」と思われることであるかもしれません。また私たちは、こうして毎年一年の終わりを迎えることを通して、私たちの全生涯をいつか終えるための「練 習」をしているのかもしれません。
 いずれにしても、聖書が私たちに教えているのは、「すべての物事には、初めがあれば、また終わりもある」とい うことです。「この世界にも終わりがある。私たちが、その中に生まれ、生き、また同時に私たちが形作っている人間の歴史にも、終わりがある。」その「すべ てのものの終わり」を特に語っているのが、この「ヨハネの黙示録」なのです。この世界「天地」は、初めに神が創られたのだから、やはり最後に「神による終 わり」があると宣べ伝え、教えるのです。
 ただ聖書が伝え、教える「終わり」というのは、私たちが考え、経験するような「終わり」とは違います。 聖書が語る「終わり」は、たださびしく、悲しく、つらいということばかりではありません。むしろ聖書は、「終わり」に向けて、希望の言葉、約束の言葉を置 くのです。それは、世の救い主イエス・キリストの言葉です。「見よ、わたしはすぐに来る。」これが、「終わり」に向けて置かれた、約束の言葉、希望の言葉 なのです。聖書において、「すべてのものの終わり」とは、「イエス・キリストが来られる時」「主イエスが再び来られる時」なのです。今日は、この「わたし は来る、すぐに来る」というイエス・キリストの言葉・約束に焦点をあてて、メッセージを聴き取りたいと思います。

 「イエス・キリストが再び来る」ということは、どういうことなのでしょうか。
  それは、何より「すべてのものの終わり」ということの中身を、私たちに示し教えているのです。「終わり」とは、「イエス・キリストが来る」ということで す。私たちは、常識的に「終わりだから、なくなる、何もなくなってしまう、虚しく、無内容になってしまう」と考えます。そうではなくて、聖書の「終わり」 とは、「イエス・キリストが来られて、イエスの業・働きをしてくださる」ということなのです。そして「終わり」なのですから、主イエスは、そのお働きや御 業を完成してくださる、余すところなく実現してくださる、「イエスがすべてを満たしてくださる」ということなのです。
 それは、イエスがあの時、 あそこで語り、示されたことです。それは、「神は愛である」ということ、「その神が愛によって治めてくださる、神の国が来る」ということです。そして、そ の証として行われたことです。イエスは出会う人すべてを愛し、すべてを助けました。それらの人すべてと連帯し、共に生きられました。その究極の事柄とし て、イエスは人々の重荷と罪を自分が引き受け、担って行かれました。その果てに、十字架を負い、苦しめられ、辱められ、ついには殺される道をも選び、歩み 抜かれたのです。それは、神の愛の証しであり、神の国は必ず来るという信仰の道でした。このイエスが、神によって復活させられ、天に挙げられ、そして再び 来られるのです。その時、イエスが語り行われたことが、文字通り「すべての人」のために、「すべてのもの」にとって、「すべてのこと」において、到来し、 実現し、完成するのです。ある讃美歌は、飼葉桶に眠る幼子イエスにこのように語り、歌わせるのです。「愛する兄弟たちよ/あなた方を苦しめる思いを捨てな さい/あなた方に欠けているものを/すべて私がまた持ってきましょう」。(パウル・ゲルハルト、宮田光雄氏による)これが、聖書が語り約束する「イエス・ キリストによる終わり」なのです。

 だから、聖書が告げる「終わり」とは、「神の国、御国が来る」ということです。イエスはまさに「主の 祈り」で、「『御国を来たらせたまえ』と祈りなさい」と教えられました。ある方は、この聖書が語る「御国」、また黙示録が告げる「新しい天と新しい地」と は、「公正な世界の幻」であると言いました。なぜなら、このヨハネの時代も、私たちの時代も、そしてすべての時代も、決して「公正ではない世界」であるか らです。
 この黙示録の時代、時の世界を支配していた権力者ローマ帝国は、キリスト教会を迫害し、苦しめ、時にはイエスを信じる者たちを殺しまし た。また、ローマが苦しめたのは、ただクリスチャンや教会だけではありませんでした。「イエスは巨大なローマ帝国の植民地支配下で生まれました。ローマ帝 国では、ごく一握りのエリート男性たちが全住民を支配していました。住民の三分の一が奴隷で、圧倒的多数の人びとが搾取に苦しむ中央集権の政治・経済構造 によって、帝国の繁栄が維持されたのです。―――いわゆる『中産階級』はなく、人口の90%は貧困生活でした。―――その中でも底辺の10%の人びとは 『使い捨て人』でした。人びとの間では貧しさゆえの栄養不良と病と飢えが蔓延していました。」(山口里子「聖書研究H イエス誕生とその世界」より、『世 の光』2017年12月号所収)黙示録には、ローマで取引されていた商品のリストの最後に、「人身」あるいは「人間の命」というのが出て来ます。人の命、 人間そのものが、売り買いされ、利益の対象とされ、利用され、消費され、使い捨てられていたのです。
 そしてこのことは、私たちの現代においても 起こっているのだと、言われます。「桁違いに巨大、強力な世界帝国の軍隊、世界に並ぶものなく、その軍事力を背景に、好き勝手なことを世界中でやらかして いる軍隊。それが、いきなり自分たちの上に侵略してきて、頭の上から爆弾を雨あられと降らす。自分の子どもも、家族の誰かれも、みんな殺されてしまった。 ―――この悲しみを、この憤りを、どこにぶつけたらいいのだ。―――侵略する軍隊の方は、一人死んでも、その名前がれいれいしく飾られ、死んだ人間の数が 正確に数えられる。それに対し、その何千倍、何万倍も殺された人びとの側は、殺された人数さえも正確に把握されることはない。だが、死んだ者の人数はそれ につきない。直接上からの爆弾で殺された者だけが死んだのではない。その瞬間には何とか生きのびた者も、重い傷を負えば、以後生きていくのは大変である。 爆撃の、数ヶ月、数年後に、ついに死にいたる。あるいは、自分は幸いにして何の怪我も負わなかったとしても、生活を支えてくれた父親や近親者が死んで、生 活費もままならず、だんだんと病弱になって死んでいく者もいる。―――その時に直接殺された者だけではない。それよりもはるかに多い人々が、生命を失って いく。」(田川建三『キリスト教思想への招待』より)
 けれども、イエス・キリストは再び来られる時、このようになさると約束されます。「見よ、 わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初め であり、終りである。」再臨のキリストは、正しい、最後の裁きを行ってくださる。正しいことと悪いこと、偽り・隠蔽と真実、愛のない冷酷なことと愛と公正 に富んでいることとを、はっきりと区別し、悪は退け、善は認め評価し栄誉を与えてくださる。そのようにして、全く公正な、新しい世界を来たらせ、実現し、 完成してくださるのです。「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。」「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら 人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとってくださる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからであ る。」(黙示録21・1、3〜4)

 そして、イエス・キリストが再び来られる日、それはこの私たち一人一人にとっても、「完成され、全う される時」です。ある意味では、私たちは、先に述べたようなこの世の悪に染まり、悪に組み込まれ、悪に加担している者です。しかし、そんな私たち一人一人 も、このイエスによって赦しを得て、また新しい者へ創り変えられ、さらにはそのような神によって人と共に生きる者として完成にまで導かれ、至らされるので す。私たちは、この再び来られるイエス・キリストとその約束とによって、歩み目指すべき目標を与えられ、望み進んで行くべき約束と希望を示されるのです。 私たちも、このお方によって、希望に向けて引っ張られ、目標に向けて導かれるのです。

 このことは、黙示録によれば、非常に具体的・現実 的な場と形ににおいて現れ、実践されるのだと言うのです。それは、教会における礼拝の場です。それは、こんなふうに行われるのです。「御霊も花嫁も共に 言った、『来たりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。」「これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』。 アァメン、主イエスよ、きたりませ』。」礼拝において司会者がイエス・キリストの言葉を代弁して約束する、「見よ、わたしはすぐに来る」。すると、会衆一 同が答えるのです、「アーメン、主イエスよ、来たりませ」。そしてそれは、本当に私たちにとって起こっていることであります。世の救い主イエス・キリスト ご自身が、今も私たちに向かって語りかけ、約束してくださる。「見よ、わたしはすぐに来る。しかり、わたしはすぐに来る。」それに対して私たちは答えるの です。「マラナ・タ、主よ、来たりませ。」そしてこのように答えながら、それにふさわしい生き方をし、道を歩もうと、礼拝からこの世界へと送り出されて行 くのです。「アーメン、主イエスよ、来たりませ。」
 それは、なかなか折れない、粘り強い、希望に生きることです。「神はイエス・キリストにおい て神の国の到来を現わし、十字架と復活において罪人の救いを打ち立てられました。しかしなお、私たちはその救いの途上にあり、完成を将来に約束されてい る、と言うのが聖書の語る『福音』です。この様な苦難と困窮の中でもだえ苦しむキリスト者をニヒリズム(虚無主義)に陥らせることなく、最後の最後まで、 『大丈夫、必ず救いはある』」と言い続けるのが黙示録なのです。歴史の始まりがそうであったように、歴史の終わりも神の御手の中にあります。―――厳しい 時代状況の中にあっても、『主よ、来てください(マナラ・タ)』と呼びかける時、『然り、わたしはすぐに来る。』(同22:20)と呼応して下さる方があ るのです。実に、救いの完成はすぐそこまで来ているのです。」(金子敬氏、古賀バプテスト教会ホームページより)
 そしてそれは、なお私たちに残され許されている、この地上の生活、私たちが生きているこの世界、この社会においても、神の御心の実現を求めて祈り叫び、またそこから始められる小さな一つの働きに自分を献げて生きて行くということではないでしょうか。
「サッ カーのワールドカップが南アフリカで行われました。長く白人と黒人を隔てるアパルトヘイト(人種隔離政策)が支配していた国です。 ―――そういう中で、ある人が黙示録の注解書を書きました。すべての動きが監視され、すべての言葉に聞き耳が立てられ、すべての人が密告者になり得るよう な抑圧された社会でこそ、黙示録の御言葉は真に励ましとなると彼は書いていました。その意味では、黙示録は、地下教会の霊的な抵抗文書なのです。その本は マラナタの祈りで閉じられています。
 痛みも涙も苦しみも終らねばならない__主イエスよ、来てください。
 この世の慰めは少しも慰めにはならない__主イエスよ、来てください。
 抗争は終わり、意味のない殺戮は止まなければならない__主イエスよ、来てください。
 この世の有様は過ぎ去らねばならない__主イエスよ、来てください。
 憎しみは愛に変わり、恐れは喜びに変わらねばならない__アーメン。主イエスよ、来てください。」(キリスト教朝顔教会主日礼拝より)
  私たちも、あの天上での礼拝での天使たちの声に合わせて、またあらゆる時代のあらゆる場所のあらゆる試練・迫害の中での教会の祈りと賛美に合わせて、この ように聞き、このように答えてまいりましょう。「見よ、わたしはすぐに来る。」「アーメン、主イエスよ、来たりませ。」「しかり、わたしはすぐに来る。」 「マラナ・タ、イエスよ、来てください。」

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  今日私たちは、この一年の終わりの日を迎え、礼拝をささげる恵みをいただきました。あなたは、すべてのものの終わりを宣言し、それがイエス・キリストの再 臨の時、神の国の到来の日、新天新地の実現の時であると約束しておられれます。どうか、教会とその一人一人が、あなたから来る朽ちず尽きない希望に生きる ことができ、またそれによって折れず崩れない信仰と愛に生きることができますように。
世の真の救い主、導き手また完成者なるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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