追い求め、迎え入れるクリスマス                イヴ礼拝メッセージ

 
 皆様、クリスマスに、ようこそ教会においでくださいました。クリスマス、心よりおめでとうございます。
 さて、クリスマスとは何の日でしょうか。何を思い、何をする日なのでしょうか。キリスト教会は、はっきりとこのことをお伝えします。「クリスマスとは、世の救い主イエス・キリストの誕生を喜び祝う日です。」「救い主イエス・キリストの誕生」なのですね。
 「救い主」というからには、「何か」から「救う」「助け出す」のです。何から「救う」のでしょうか。聖書は語ります、「罪から救うのだ」と。
  では、「罪」とは何ですか。聖書は大変具体的に、その罪の姿を描き出して、クリスマスの物語を始めています。「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令 が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時から行われた最初の人口調査であった。人々はみな登録するために、それぞれ自分の 町に帰って行った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行っ た。それは、すでに身重になっていたいいなづけのマリヤと共に、登録をするためであった。」
 「聖書は、一切の人口調査について疑念を持っていま す。人口調査は、常に、高く権力者が君臨していることのしるしでありました。権力者は自分の力を評価してみたいのです。新しい税を課したいのです。徴兵を したいのです。私どももまたこの人口調査の世界を知っています!全世界において、勅令が出、独断的命令がくだされ、権力者、力づくで支配する者たちが、徴 税をし、兵力を増強しています。いかなる場合にせよ、そのように独断的命令、指令、勅令が発せられると、民族が、人間である民が、貧しい人たちが作る民 が、新しい重荷を負わされます。しかも、それによって民衆が助けを得るのだという偽りの事実をちらつかせられながら、そうされてしまうのです。」(トゥル ナイゼン、『光の降誕祭』所収)権力者・支配者だけが「罪人」なのではありません。聖書は、この世界全体が罪の世であり、すべての人が、神の前に罪人であ ると言っています。けれども、大きな力を持つ者、集団、場ほど、その罪もまた大きく、深刻に現れるのです。
 この命令によって、ヨセフは否応なく 旅立たねばなりませんでした。しかも、もうすぐ赤ん坊が生まれるという妻マリヤもまた、共に行かねばなりませんでした。そこには、弱者に対する配慮などと いうものはなく、ただ決定と強制とがあったばかりでした。そのようなことは、時代を問わず、現代においても起こっているのだというのです。「そのような権 力者の思惑で、移動を余儀なくされるということも、今日に通じます。為政者の命令で、『お前はここから出て行け』『お前はあちらに住め』と言われる。イン ド、パキスタンの国境が定められた時もそうでした。『ヒンドゥー教徒はこっち。イスラム教徒はあっち。』パレスチナの住民もそうです。そしてそこにイスラ エルによって壁が築かれていく。旧ユーゴスラビアにおいては、それまで一緒に住んでいたアルバニア系の住民とセルビア系の住民が分けられていった。本来、 分けられないものが分けられ、移動を余儀なくされるのです。紛争、戦争によって起きる難民もそうであります。」(松本敏之、経堂緑岡教会ホームページよ り)

 そうして長く辛い旅の末に、ようやくベツレヘムについたマリヤ・ヨセフ夫婦を待っていたのは、このような境遇でした。「ところが、 彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉桶の中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからであ る。」そのような権力者による命令と強制の中で起こることは、人々による別け隔てと排除です。誰もが追い立てられ、圧迫され、脅迫されているのです。そん な中で多くの人は、余裕を失い、思いやりを失って、自分のことだけ、自分が属するグループ・集団のことだけを考えるようになっていきます。そして、弱い 者・少ない者・能力や価値がないとみなされる者たちを別け隔て、排除するようになっていくのではないでしょうか。マリヤたちには、「彼らのいる余地」があ りませんでした。最も配慮され、最も深く迎えられるべき人たちが、結果的にははじき出され、不本意な場所で、出産を迎えねばならなかったのです。人々によ る別け隔てと排除、それは私たちの近くでも起こるのです。日本の大正時代、関東大震災が起こった後、各地で朝鮮人の人たちが、一般の人たちによって殺され たという事件が起こったといいます。そのようなことは、繰り返し起こってきたのではないでしょうか。

 そういう罪の世、この罪の世界に、 イエス・キリストは「救い主」として生まれ、入って来られました。それは、このような形、このような姿においてでありました。「きょうダビデの町に、あな たがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは幼子が布にくるまって飼葉桶の中に寝かしてあるのを見るであろう。 それが、あなたがたにあたえられるしるしである。」そのように別け隔てられ排除された者たちの中で、最も弱く小さい存在として、救い主イエスはおいでに なったのです。そのような境遇・立ち位置・歩む道をもって、その救い主としての生涯を始められたのでした。
 そのようにして始められたイエスの生 涯、その働きとは、どのようなものであったのでしょうか。「ナザレのイエスと共に神は人類史の中に入り、人間がしばしば希望もあてもなく彷徨う道に入り、 人間が生まれ、悩み、再び立ち上がり、働き、戦い、死にゆく場所に入る。―――イエスの本質は、神の支配を満たすことである。これは闇と虚偽に対する戦 い、出来事であり、中でも病や苦しみから、貧窮や絶望から、屈辱や孤独から、罪や呪いから人間を解放することである。―――イエスの生涯は、ベツレヘムの 家畜小屋とゴルゴタの十字架の間に収められている。―――イエスはユダヤの社会から追放された人々を、のけ者を、あらゆる状況下の罪人を追い求める。売春 婦も重い皮膚病の人も厭わない。―――イエスの出来事は全て、罪人、弱者、無力な者―――のけ者にされた人々との連帯を表している。イエスは庇護してくれ る者のない、面倒を見てくれる者のない人の後を負う。飼う者のない羊のように弱り果てている様を深く憐れむ。」(フロマートカ『人間への途上にある福音』 より)このようにしてイエスは、救い主としてこの世のすべての罪と悪を、自分自身が引き受け、背負って行かれ、ついに十字架で死に、私たちの罪と悪と死を 克服されたのでした。こうして十字架で殺されて死んだイエスは、その勝利の現れ、証しとして、神の力によって復活され、今も生きて、救い主としての働きを 続けておられるのです。

 このようにして生まれ、生き、死に、そして今も生きておられるイエス・キリストは、救い主として、私たちのために道を開くのです。罪人である私たちのために、新しい道を開き、新しい命を与え、新しく私たちをその道へと導くのです。
  アメリカのある教会でのこと。「クリスマスの日に毎年行なわれる、イエスさまの降誕劇(ページェント)を、その年は子どもたちが担当することになっていま した。そこで、教会学校の先生たちは、子どもたちを全員集めて、その劇の相談をしました。そして、役割を決めました。―――こうして、子どもたち全員が、 それぞれ自分の役をもらいました。ところが、知的障碍(知恵おくれ)の子が役からもれていることに気がつきました。先生たちは、すぐに相談をして、その子 のために、一つ役を作りました。それは、馬小屋のある宿屋の子どもの役でした。セリフはーつ、『だめだ。部屋がない』。そして、うしろの馬小屋を指さす役 です。男の子はよろこびました。―――男の子はー日に何十回も、何百回もくりかえして練習をしました。くる日もくる日も練習しました。いよいよ待ちに待っ たクリスマスの日がやってきました。―――プログラムが進んで、いよいよ子どもたちのクリスマスの劇です。そして、その劇も、後半部を迎えました。長旅で 疲れ果てたヨセフとマリアが、とぼとぼと歩いて、ベツレヘムにやってきました。もう陽はとっぷりと暮れています。そして、あの男の子が立っている宿屋にた どりつきました。『すみません。私たちをー晩とめてください』。さあ、男の子の番です。おとうさんも、おかあさんも、教会学校の先生たちも、思わず手を組 んで、神さまにお祈りをしました。『神さま、うまくできますように…』。男の子は、大きな声でいいました。『だめだ。部屋がない』。それから、うしろをむ いて、馬小屋を指さしました。『よかった。じょうずにできた』。みんな胸をなでおろしまし。でも、その時です。 馬小屋にむかって、肩を落として歩いていくヨセフとマリアをじっと見送っていたその男の子が、突然、ワァッと声をあげて泣き出しました。その男の子は走っ て行って、泣きながらマリアさんにしがみついて言いました。『マリアさん、ヨセフさん。馬小屋に行かないで。馬小屋は、寒いから。イエスさまが風邪を引い ちゃうから、馬小屋に行かないで、馬小屋に行かないで』。教会学校の先生たちが舞台にとびあがりました。そして、マリアさんにしがみついて泣いている男の 子を引き離しました。劇は、だいじなところで、しばらくの間、中断してしまいました。でも、この村の長い歴史の中で、これほど感動的なクリスマスの劇は、 あとにも先きにもなかったといいます。」(渋川教会礼拝 小鮒 實牧師説教より)
 この罪の世に入って来て、飼葉桶に生まれ、十字架に死ぬその生 涯を通して、救い主として生きられ、生きておられるイエスは、「マリヤさん、ヨセフさん、馬小屋に行かないで」と語って生きる力を与え、そのような生き方 を始めさせてくださるのではないでしょうか。世の罪からもたらされる別け隔てと排除への誘惑・強制にあらがい、「馬小屋に行かないで」と語って共に生きる 道に向けて一歩を踏み出す自由と力を与えてくださるのではないでしょうか。

 先に申しました関東大震災の時に、そこに居合わせていた一人 のクリスチャンの弁護士で、布施辰治という方がいます。布施は、権力の誘導によって人々がそのように別け隔てと排除、さらには虐殺に手を染めて行ったその 時、殺された朝鮮人をはじめとする人々のために生きたいと願い、働こうとしました。「結局布施は、震災の混乱の中で、何をなしえたのだろうか。一人の命も 救うこともできなかった。できたことは、事実を究明し、当局に認めさせ、少しばかり借家人の権利を守り、また震災の虐殺への復讐としてなされたいくつかの 事件で法廷に立つこと、それだけだった。しかし、すべての局面で、弱者の立場に立ちきって、身を捨てて弱者とともに闘うという姿勢を貫いた。」(大石進 『弁護士布施辰治』より)私たちも非力、無力な者でしょう。しかしイエス・キリストの神は、その私たちにもできる小さな一つのことを与え、示し、それを果 たさせてくださるのです。
 クリスマス、神は、私たち罪人を追い求め、迎え入れてくださいます。飼葉桶に眠る小さな救い主は、まさにこのことを示 し、私たちに与え、成し遂げてくださいます。この神の恵み、クリスマスの恵みが、皆様お一人一人に豊かに与えられますように。この恵みによって、皆様お一 人一人の生涯と歩みもまた動かされ、幸いで実り豊かに導かれますようにと、切にお祈りいたします。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神様。
あ なたはクリスマスの幼子、救い主イエスによって、私たちを追い求め、迎え入れてくださいます。どうか、このクリスマスの恵みが、今晩ここに集われたお一人 一人に豊かに与えられ、あなたの恵み、あなたの力、あなたの愛によって、新しい命が与えられ、その生涯が動かされ変えられて、豊かに導かれますよう、切に お祈りいたします。
世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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