行動する神のクリスマス                ヨハネによる福音書第1章1〜5、9〜14節

 
 皆さん、クリスマスおめでとうございます。
  クリスマスというのは、実に広く祝われているものだなと、改めて思います。クリスマスに関しては、数え切れないほど多くの分野、形式、表現方法で語られ、 表されています。音楽、絵画、文学、などなど。その文学の中でも色々です。一番ポピュラーなのは、物語の形式です。子どもクリスマスでもしましたし、多く の教会でも毎年のように行なわれる降誕劇の物語。マリヤが天使から神の子を生むことを告げられる場面、マリヤとヨセフ夫婦が長く辛い旅をして、ようやくベ ツレヘムの馬小屋で幼子イエスを生む場面、野宿をしていた羊飼いたちに天使が現れて救い主誕生の知らせを告げて歌う場面、そして羊飼いたちが町中を探し 回ってついに救い主となる幼子を見つけて礼拝する場面、などなど。私たちの頭に、もう「刷り込まれている」と言ってよいくらいに入っております。
  しかしながら、これが唯一のクリスマスの表現方法ではありません。文学には、物語もあれば、詩、ポエムもあるのです。そして今日ご一緒に読んでいる、この ヨハネ福音書の最初は、まさにポエム、詩なのです。ここを、何か「哲学的な表現」とイメージする方がいますが、そうではありません。むしろ、ポエム、詩な のです。

 詩の表現の特徴は、一つのイメージを伝えようとすることです。そのイメージを、磨きこまれた、凝縮された言葉と表現そしてリズ ムでもって伝えようとすることです。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。」まさに詩です ね。
 この詩が伝えようしているのは、神様のイメージです。どんな神様のイメージ、どんな神様の姿なのでしょう。ある方は、「静かな」とか「神秘 的な」ということを思うかもしれません。でも今回、私は随分違うイメージを持ちました。それは、「行動する神」です。非常に行動的で、「アクティブ」な神 様のお姿です。
 それは、まず「語りかける神」です。「初めに言があった。言は神であった」というくらいですから、神様は「無口」な方ではないわ けですね。むしろ、初めから「言を持ち、言葉を発し、語りかける」方として、ずっとおられたのだというのです。「人間関係の基本は挨拶だ」などと言われた りしますが、言葉を発し語りかけるというのは、まさに行動の始まりであり、基本なのですね。神様はまさにそういう方、能動的に自分から言葉を発して話しか けて行く方であったというのです。それは、どんな言葉だったのでしょうか。後で詳しく申しますが、私は、「愛する」という言葉であると思います。「私はあ なたを大切に思っていますよ、あなたのために何か良いことをしてあげたいと思いますよ」という言葉です。
 「行動する神」の次のことは、「出て 行って、働かれる神」ということです。「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」神様は自分 のところにじっとしていないで、出て行かれた。そして一つの大きな仕事をされた。それは、この世のすべてのものを創る、「天地創造」という仕事でした。神 様は、本当にすべてのものをお創りになったのです。それは、私たち人間もそうです。あなたも私も、その中に含まれています。「すべてのものは、これによっ てできた」というのですから。
 そして、当然に、神様の次の行動は、「命を与えて、生かす」ということでした。「この言に命があった。そしてこの 命は人の光であった。」なぜ「当然」かと言いますと、すでに申し上げたように、神様が最初から発しておられる言葉は「愛」だったからです。その「愛を語る 神様」が、「すべてのものを創って」くださったからには、その創った対象であるものたちに向かって、そのものたちのために、あなたや私のためにも、「よい ことをしてやろう」と思い、それを実行するのは当然だからです。「良いことをしてやろう、命を与え光を与えて、いきいきと喜んで生きられるようにしてやろ う。」神様は、初めからずっと願い、ずっとまさにその通りに行動して来られました。
 まさに、「とってもアクティブで、行動的な神様」のお姿で す。1〜4節 「この神はその家から出てこられます。通りに出て、他人に声をかけ、ご自分が住み、支配するそのことにあずからせようとされます。―――ご 自身に満足していてよかった神が、ご自身の中から出てこられます。この世の通りに出てこられます。この世界を造られます。この人間を造り、その間に住もう とされます。この人間たちの神となろうとされます。ご自身の支配、その国にあずからせようとされます。その栄光にあずからせてくださるのであります。」 (トゥルナイゼン、R.ランダウ編『光の降誕祭』より)

 「クリスマス」とは、その「行動的な神」が、極限まで、とことん行動的になられ た出来事です。では神は、どこまで行動的になられたのか。どれほど積極的に、そして大胆に行動されたのか。それは、これほどまでであったと言うのです。 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。私たちはその栄光を見た。」「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。」回りくどく、わか りにくい表現だと思われるでしょうか。でも、これが「詩なんだ」と思うと、ああそうかとわかります。これは、イエス・キリストのことを言っているのです。 イエス様がこの世に来られたことを言っているのです。
 あの「行動的な神様」は、とうとうこの世に来てしまわれた。私たちの世の中にまで来るほど に、積極的に、大胆に行動された。そしてとうとう、神様だったはずなのに、人間にまでなってしまわれた。それほどまでに、この世に向かって、そこに生きる ものたちに向かって乗り出し、愛し、連帯し、共に生きようとされた。それが、あのイエス様という方だったのだ。「神さまの思いが こうして人の体をまとっ て、われらが間に住まいしなさった。われらはこの方の 輝くようなお姿を見た。父(とと)さまからよこされた 一人息子のこの方の 優しくて、親切で、嘘 偽りの影もない、輝くようなお姿を見た。」(山浦玄嗣『ガリラヤのイェシュー』より)

 そしてこの神様の大胆な行動は、その相手である 「この世」の有様によって、よけいに際立ちます。なぜなら、それは「闇であった」と語られるからです。「光はやみの中に輝いている。」「やみ」というの も、詩的な表現です。「この世」、私たちが住むこの世界、それは「闇」なのだというのです。そしてそのような世界を形作り、そこに関わっている私たち、と りわけ人間の有様も、また「闇」なのだというのです。それが「闇」であるということは、私たちでも、少しでもこの世界の、この社会の色々な面や出来事に触 れるときに、感じさせられることかもしれません。それと共に、そしてそれ以上に、「この世が闇であり、人間が闇である」ということは、このお方イエスをこ の世の人間たちがどのように受けとめ迎えたかということに現れているのだと、この人は言うのです。「すべての人を照らすまことの光があって世に来た。彼は 自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。」「これらの言葉は、イエスがこの世に来たとき、いかに多くの無知、敵意、反発を見出さねばな らなかったかを示しています。―――彼らは、イエスの呼びかけに心を開こうとはしなかったのです。増悪と憤激にかられて、イエスを自分たちのあいだから疎 外し、十字架にかけ、力ずくでその聖なる唇を閉ざしてしまったのでした。」(宮田光雄『嵐を静めるキリスト』より)

 けれども、イエスは そんな「闇の世」に来られました。神はイエスを通して、そのような私たちのところに来られ、私たちに向かって語りかけ、働きかけられました。それほどまで に、神はこの世を愛されました、神は私たちを愛されたのです。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛して下さった。」
 イエス はまさにそのように生き、また死なれました。このイエスの生き方、死に方、その生涯のすべての中で、神がご自分を表しておられます。このイエスによって、 神が語りかけ、働き、行動しておられます。イエスは、神がこの世を愛されるその通りに、私たち一人一人を愛され、私たちすべての者を愛されました。
  それは、本当に「行動的な生き方」であり、「行動的な愛」でした。そしてイエスは、具体的に、能動的に、現実的に愛されました。それは愛に伴う社会的生き 方、政治的生き方、そして宗教的生き方でした。それは、神がこの世に対して、そこに住むすべてのものたち、私たち一人ひとりに対して、語りかけ、行動さ れ、働きかけられた生き方そのものだったのです。この生き方、この愛は、ついに勝利しました。この世のすべての罪と悪に打ち勝ったのです。それが、イエ ス・キリストの復活であったのです。イエスは今も生きておられます。今も生きて、神の語りかけ、神の働きかけ、神の行動を行い続け、私たちに語り、示し続 けておられるのです。

 「救い主誕生の知らせは、ローマ帝国内すべての人に対してではなく、むしろそこから排除され、社会の周縁に生きる ことを余儀なくされた人々に告げられた。―――満天の星のこどく無数の大軍が現れ、神の栄光を讃美し、地の平和を祈った。―――天上には平和がある。しか し地上はそうではない。そこには憎しみや争い、差別があり、強者が弱者を支配する。富裕層が貧困層をさらに収奪する世界である。これが地上の現実であり、 今もそれは変わりない。私たちの周りには、今も憎しみや争いが繰り広げられ、大量殺戮が続いている。また神の造られたこの美しい大地、海洋、大気が人間の 手によって破壊されつつある。―――直接水銀の魚を摂取して病気になり、亡くなった人もいれば、母親の食べた魚の毒が子宮内の胎児にまでおよび、水俣病に なって生まれ出た胎児性水俣病患者もいる。―――公害にせよ戦争にせよ、その根にあるのは命への軽視であり、貧しく小さくされている者への差別、神を神と もしない人間の驕りではないか。そのような過酷な現実の只中に神のイエスが誕生され、神自らが私たちの世界、人間の歴史に介入された。受肉(神が人間とな られたこと)は、元来この世界の構造を変える世俗の出来事である。福音は強力な変革と運動をもたらす大きな力であり、すべての人、最後の一人が救われて生 きることを可能にする大きな喜びである。」(岡田仁「苦界に座す神―――水俣」より、『低きに立つ神』所収)

 このような「闇の世」で あっても、そのような「闇」のような私たちであっても、この神の行動によって、このイエスの語りかけと働きかけによって、私たちにも、このような反応、こ のような応答が可能とされたのだと、この人は語ります。「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたので ある。それらの人々は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。」このイエスというお方を信じるなら ば、その語りかけを聞き、その言葉にうなずき、その導きに従って生きようと思うならば、「神の子とされる」「神によって生まれる」のだと言うのです。それ は言い換えるならば、「神によって生まれ変わる、「全く新しい生き方と道を与えられる」ということです。
 この神による「新しい命」「新しい生き 方と道」、それはどんな現れ方をするのでしょうか。その大きな特徴は、「積極的・能動的・行動的」ということだと思います。このヨハネの福音書のはじめの 詩が語り歌ったように、まさに「神は行動的な方であり、イエスこそその神の活動そのもの」だからです。この神に突き動かされて、私たちも新しい命を与えら れ、ほんの少しばかり「積極的・能動的・行動的」になる・されるのです。
 それは、イエスがお話をされた、あの「良きサマリヤ人のたとえ」に見る ことができるのではないでしょうか。「そのサマリヤ人は傷ついて横たわっている男の方に身を屈めて起こそうとする。必要な処置を施してから、彼は再び旅を 続けるのである。―――そのサマリヤ人は、神が命をお与えになったからこそ、その傷ついた男も尊いのだという信仰を行動に移したのだ。彼はただその男を癒 すために、自分でもう一度立つ力を与えるために、援助したのだ。」(リア・アブ・エル=アサール『アラブ人でもなくイスラエル人でもなく』より)
 「行動する神のクリスマス」が、皆様一人一人に豊かに訪れ、皆様の命がいきいきと輝きますようにと、切にお祈りいたします。

(祈り)
天 におられる私たちすべての者の神よ。あなたは世の初めから行動し、語りかけ、働きかけて来られました。そしてついに御子イエス・キリストによって、この世 に来られ、私たちと共に生きられました。あなたこそが私たちの光であり、命です。どうかお一人一人に、豊かなクリスマスの祝福と導きがありますよう、切に お祈りいたします。
世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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