これが、神の生きる道                イザヤ書第57章14〜19節

 
  「アドベント」は、神によるメサイア、救い主を待ち望む季節です。そのため、よく旧約聖書のいくつかの箇所が、イエス・キリストを待ち望む言葉として、こ の時期に礼拝で読まれます。有名な言葉がいくつかあるので、皆さんにもご存じの方もあるかもしれません。しかし今年は、そういう有名な箇所は、あえて外し ています。「たまには、珍しい言葉も面白い」ということもあります。しかし、旧約は、ある意味では、全編メサイアを待ち望んでいる書であるとも言えます。 ですから、よく引用される以外にも、メサイアの到来を告げ、イエスという方を待ち望んでいると言える箇所があるのです。今日のここも、その一つです。

 「待つ」というのは、別の言い方をすれば、何か足りないことや、困っている問題がある状況であると言えます。今日のこの言葉が語られのも、そういう状況でした。
  神の民イスラエルにとって最大の試練であった「バビロン捕囚」ということがありました。国が破れ、滅び、多くの人々が遠い異国バビロンに捕われ、連れられ て行ったという出来事です。しかしその長くつらかったバビロン捕囚も、ようやく終わりました。こうして、囚われていた人々の中でも故郷のユダヤへと帰る人 が出て来て、その人たちによって、希望に満ちて再建の働きが始まりました。
 しかし、それはじきに失望へと、よけいに深い失望へと変わりました。 帰って行ったかれらを待っていたのは、荒れ果て、崩れ果ててしまった故郷の地でした。そこで、町を再建し、神殿を建て直し、家を建て直し、そうして生活を 再建していくというのは、極めて厳しい、いやになるような難事業でした。かれらは大きな挫折感と無力感を味わったのです。
 ここから、色々な面に わたる生活の乱れが起こって来ました。何より信仰生活の乱れです。「主なる神様に頼っていても無駄なんだ、別のご利益の大きい神様を求めよう」と、人々は 偽りの神々を拝む偶像崇拝に陥って行きました。「あなたはにおい油を携えてモレクに行き、多くのかおり物をささげた。またあなたの使者を遠くにつかわし、 陰府の深い所までつかわした。」(57・9)あるいは、もう自分で考えて自分で自分を助けるしかないと、自己救済の道に踏み出して行きました。「彼はなお そむいて、おのが心の道に行った。」(57・17)そこから、虚無的で享楽的な生活が始まっていきます。「彼らは互いに言う、『さあ、われわれは酒を手に 入れ、濃い酒をあびるほど飲もう。あすも、きょうのようであるだろう。すばらしい日だ』と。」(56・12)そこから、社会生活の乱れ、社会倫理の退廃が 起こってきます。「正しい者が滅びても、心にとめる人がなく、神を敬う人が取り去られても、悟る者はない。」(57・1)

 そんな中で、主なる神は黙ってはいません。主は一人の預言者を任命し、彼に神の言葉を語らせるのです。この「イザヤ」と呼ばれる、もう一人の預言者が今立って、語り始めるのです。それが、今日のこの言葉です。
  それは、いわば「神様の自己紹介」の言葉なのです。主なるまことの神を忘れ、別の神々を求めて行っているイスラエルの人々に向かって、「わたしは、こうい う者だったではないか、わたしはそもそもこういう者なのだ、だからもう一度よく考えて、わたしに帰って来てほしい」、そういう熱い思いを込めて、切々と訴 えかける言葉なのです。だから、その自己紹介は、単に仕事は何で趣味は何ですという次元に留まるのではなく、生き方そのものを示すようなものなのです。 「これが私の生き方です。これが、私の生きる道なのです。この私を知り、この私を信頼してください。」皆さん、これが神の自己紹介であり、これが神が生き ようとされる道なのです。

 ですからこれは、当然、競合相手になってしまっている、偶像の神々、偽りの神々のことを意識しています。それらの神々との比較対照が含まれているのです。
  偶像の神々は、一言で言えば「上昇志向」なのです。こんな言葉が少し前にあります。「あなたは高くそびえた山の上に自分の床を設け、またそこに登って行っ て犠牲をささげた。」(57・7)異なる神々の神殿・祭壇は、多く、高くそびえた山の上にあるのです。それは、人々の願望・欲望の象徴であり、隠れた現れ なのです。人よりも高く、尊くなりたい、価値ある者とされたい、そのためには他者を蹴落としてもいい、踏みにじってもいい、奪い取ってもいい、そういう上 昇志向・自己中心の人間の思いが結晶するようにして形作られたのが、偶像の神々なのだからです。
 これに対して、主なるまことの神は、その生きる 方向性がまるっきり逆なのだと言うのです。「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖と唱えられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖な る所に住み」。まず神様は、ご自身が、異なる神々に対して、比べ物にならないほど高く、聖なる方であることを宣言されます。では、他の神々と同じなのかと 言えば、全くそうではありません。その生きる方向性、その生き方がまるっきり違い、まるっきり逆なのです。「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす。」一言で言えば、主なる神は「下降志向」なのです。いと高き神は、こういう 行動に出られるのです。「心砕けたる者と共に住む」。「心砕けたる」というのは、並大抵の砕け方でありません。ばらばらに砕ける、木っ端微塵に砕け、壊れ てしまうということなのです。心がそれほどに砕ける、その生活と生き方がそれほどに崩れ、壊れてしまう。だから、この「へりくだる」という言葉も、「謙遜 だ」というような美徳的な意味ではなく、むしろ「抑えつけられ、苦しめられている、低く卑しく扱われている、また自らも卑屈になってしまう」という意味合 いが強いと思います。そういう人たち、そういう弱さと挫折を負わされている人たち、肉体的・精神的に、個人的にまた社会的に、そして経済的また政治的に、 弱さと不利と不遇を引き受けさせられている人たち、そういう人たちのいる場所、かれらが生きている場へと、この神様はあえて下って行って、しかもそこでそ のような人たちと一緒に住むのだ、というのです。
 そうして下って行って何をするのかと言えば、「へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者心をいか す」のだと言うのです。「エンパワーメント」という言葉があります。ウィキペディアによれば、「エンパワメント(湧活)とは、人びとに夢や希望を与え、勇 気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させることと定義される」、「エンパワメントには、人は誰もがすばらしい力を持って生まれ、生涯 にわたりそのすばらしい力を発揮し続けることができるという前提がある。そのすばらしい力を引きだすことがエンパワメント、ちょうど清水が泉からこんこん と湧き出るように、一人ひとりに潜んでいる活力や可能性を湧き出させることがエンパワメント(湧活)である」ということです。主なる神様が、まさにそうい うことをしてくださる方であるというのです。弱り苦しんでいる人たちに神の赦しと然りと励ましそして希望を与えて、本来神から与えられているその良き力を もって良き生涯を送れるように「霊と心をいかす」、「これが、神の生きる道」なのです。

 この「神様の自己紹介」を聞くときに、私がどうしても思いますのは、ここにまさにイエス・キリストの誕生とその生涯とが先取りされているということです。
  私たちは聖書に基づいて、イエスこそ神の御子、父なる神と共にいと高く住むお方であったと信じています。しかしそのお方が、その立場に固執しないで、その 場をあえて投げ捨てて、「心砕け、へりくだる者と共に住む」ために、この世のただ中へと「下り」、しかも最も低い「飼葉桶」と「十字架」へと下って来てく ださったのです。
 そのようにして始まったイエスの生涯は、まさにこの「神の自己紹介」が告げる生き方そのものでした。「わたしはかぎりなく争わ ない、また絶えず怒らない」、むしろ罪人である私たち人間に対して同情し、いやむしろ共感と連帯をもって支援しようとするのです。「彼はなおそむいて、お のが心の道へ行った」、そんな人間の道を、イエスはご覧になるのです。「わたしは彼の道を見た。」しかもそれは、怒りと裁きをもって見たのではなく、深い 憐れみと嘆きをもって見られたのです。だから彼はこう行動し、生きるのです。「わたしは彼をいやし、また彼を導き、慰めをもって彼に報い、悲しめる者のた めに、くちびるの実を造ろう。」「くちびるの実」とは、賛美のことです。神を喜びたたえて生きられるような道を開こうと言われるのです。さらにその助けと 導きは、広大な広がりを持ちます。「『遠い者にも近い者にも平安あれ、平安あれ、わたしは彼をいやそう』と主は言われる。」これは、「誰にも平等に」とい うことではありません。ここでの強調は、「遠い者」にあると思います。あえて「遠い者」に、あえて「弱い者」に、あえて「悪い者」に先に向かい、優先的に 近づいて行こうとする、イエスの道です。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」皆さん、「こ れが、神の生きる道」なのです。

 この「神の自己紹介」は、イスラエルの人々に語りかけ、訴えかけるためでした。「あなたがたは、この神 の道を知って、この神にこそ信頼せよ。あなたがたは、この神の道によって、自分自身の道をも方向転換し、思いと生き方を変えられ、この神の後に付き従う者 とされよ。」そして、この神が生きられた道、あのナザレのイエスの道とその光によって私たちも照らされ、導かれて、私たちもまた生き方と道が変えられて行 くのです。
 「イエスはナザレの教会において預言者イザヤを引用し―――自分は『貧しい人に福音を告げ知らせるために(中略)捕らわれている人に 解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に』するために遣わされたと言った。(ルカ4・18)その結果、あらゆる宗教的貢献 は、貧しい者、弱い者、虐げられた者への深い共感を含むのである。すでに早い段階から、中東の教会が病院、リハビリセンター、孤児院、老人ホームその他の 社会施設を設立したのはこのためである。中東において、社会的使命は教会の最も重要な貢献の一つである。しかし福祉サービスだけでは十分ではない。クリス チャンは、貧困と圧迫は『偶然の産物ではなく、他者の富と力を増大させるための意図的な政策の結果』だと理解している。積極的なクリスチャンの寄与は ―――新たな、正当な経済的および民主的制度が打ち立てられるまで継続されなければならない。ゆえに―――教会もまた政治的に圧迫されている側に立ち始め たのである。」(ミトリ・ラヘブ『私はパレスチナ人クリスチャン』より)
 それは、もっと日常的に言えば、こんな生き方かもしれません。「五世紀 のエジプトでのある修道院でのことです。そこの指導者のポイメン神父のところに、長老の幾人かが行って、『兄弟たちが時課祈祷や徹夜祈祷のとき居眠りして いるのを見たら、目を覚ますよう揺り起こすべきだとお考えですか』と尋ねました。それに対し、彼は、『私ならば、兄弟が居眠りしてるのを見たら、彼の頭を 膝の上に置いて休ませる』と答えたとのことです。」(高橋秀典『今、ここに生きる預言書』より)
 「これが、神の生きる道」、このクリスマスに至る時期が、その「神の道」をさらに深く知らされ、味わわされる機会となり、それによって私たちの道もまた変えられ、恵みと希望に満ちて導かれるよう、切にお祈りいたします。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  いと高き天におられた御子イエスは、「心砕けた者」と共にあり、共に生きるために、あえてこの世に下り、「飼葉桶と十字架」に至るまで下られました。それ は主よ、あなたの生き方、あなたが歩まれた道そのものです。どうかあなたの道によって、私たちの曲がった悪しき道もまた変えられ、良き道、共に生きる道と され、互いに力を与えられ生かされますように。また私たちもまたあなたにならい従って、このような方向と道を選び歩む者とされて、それぞれの場へと送り出 され、用いられますよう、切にお願いいたします。
世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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