苦難のしもべを待っている                イザヤ書第53章1〜8節

 
  クリスマスを待ち望むアドベントは、「待つ」季節です。旧約の時代、イスラエルの多くの人々は、神のもとから来たるべき救い主の到来を、ひたすら待ち望む ようになりました。預言者たちは、そのやがて来るであろう救い主の姿を、様々な言葉、仕方、そして様々なイメージで語りました。
 預言者という人 たちは、この世の人々の常識的な見方・考え方から離れて、神の御心の中へと深く入り、次第に入り込んで行くような生き方をするものです。ですからかれら は、この世の本当の姿と、それに対する神の心とを知り、語ることができるのです。そのようにして預言者たちが、メサイア(救い主)の姿を語っていく中で、 その姿は実に意外なもの、さらには受け入れがたいというほどのものとなっていきました。その極限・極北とも言うべきものが、このイザヤ書53章に記されて いる「苦難のしもべ」の姿です。

 それは、一言で言って、「弱い救い主」の姿です。
 これを聞いたその当時の人々は、「えっ―?  そんなばかな」と思ったに違いないのです。「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか」と言っています。なぜなら、常識的な考えに従えば、「救い主は人 を救い助ける、人を助けるためには力があり強くなくてはならない、だから救い主は強く力を持つ人であるはずだ」となるからです。しかし、ここでこの預言者 が指し示す「救い主」の姿は、まさに「弱い」というしかないものです。
 それはまず、「生まれたときからずっと苦しみと弱さを負い続ける人」の姿 です。「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。」「ここでは、僕は『乾いた地に埋もれた根からはえ出た若枝のように育った』と いわれています。十分な水分と栄養分を取らずに育つ若枝は、干からびて貧弱で弱々しい姿をしています。この人はその様な弱さを持って育ちました。」(鳥井 一夫氏)そのようにして成長した「しもべ」の姿と有様は、こうです。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもな い。」「主のしもべには、@『見とれるような姿がない』A『輝きがない』B『人が慕うような見ばえがない』とあります。面影、風格、容姿においてまさに落 第なのです。この世の価値観からすれば、評価すべきものが何一つ『ない』のです。」
 さらにはこのしもべは、人々から軽蔑され、呪われ、見捨てら れるのです。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ば なかった。」社会的に何一つ成功を収めることができず、人々の好意をも尊敬をも受けることができず、むしろ否定と悪意と排除を被っただけなのです。
  そしてついには、その生涯の最後、死においても、それは実に悲惨で不名誉な死でありました。「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかっ た。」「彼は暴虐な裁きによって取り去られた。」「彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪を なす者と共にあった。」彼を苦しめ傷つけ殺したのは、この世の不正と暴力でした。そして死後も、彼は「悪い者」として烙印を押され、おとしめられ続けるの です。

 これが、この一人の預言者が描き出す「しもべ」の姿、そしてあえてはっきり言うならば、これこそ神によって約束された方、来たる べきメサイア、救い主の姿と道なのだというのです。「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか」。本当に、当時の人々は「えっ―、そんなばかな」と言い続 けたことでしょう。
 けれども、何と言っても「神からの預言者」と言われる人の言葉ですから、皆もそれなりに受けとめ、考えるわけです。「そう か、そんな人が来るのか、それはいったい誰なのだろう。」色々に考えられました。イスラエルそのものの苦難の運命だとか、この預言者あるいはその師匠であ るとか。それぞれに、それなりにもっともで、理があります。けれども、「これだ」とぴったり来る人はなかなか現れませんでした。
 そういう中で、 あのナザレのイエスに出会い、イエスに従った人たちは、そのイエスの生涯、あのベツレヘムの飼葉桶から始まり、とりわけその最後に歩まれたあの十字架の道 を、復活の光の中で振り返ってみたときに、「これだ」と思ったのです。あの「苦難のしもべ」の姿が、イエスのお姿の中に次第に集中し、収斂していくのをま さに見て、信じたのです。「これだ、このお方こそ、あのイザヤと呼ばれる預言者が語り告げた『苦難のしもべ』そのものであり、神が約束し実現されたメサイ ア、救い主そのものなのだ。」

 ニコデモという人はイエス様に会った時に、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と言いましたが、私 たちもきっとそう言いたくなるだろうと思います。「どうしてそんなことがあり得ましょうか。」その答えを、預言者は神に導かれて解き明かすのです。「まこ とに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれ われのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだと。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、 われわれはいやされたのだ。」それらの苦しみと辱めは、神のしもべ自らが自分の果たすべき使命、受け入れるべき道として受け取り、引き受け、担ったものだ からだ。それは、これら預言者たちに当てはまりましたし、まさにナザレのイエスに間違いなくぴたりと当てはまりました。イエスは、この罪と不正と暴力の 世、この理不尽で不条理な世に自らやって来られて、自ら世の悪と人の罪とをその生涯に引き受け、負い、担って行かれたからです。
 「私たちはすで に、神ののろいの世界、罪に満ちた世界のただ中に置かれているという点です。私が証券会社で働いて身にしみてわかったのは、どのような仕事にも矛盾がつき 物だということでした。私たちは悪の支配するこの世の組織の歯車のひとつとして組み込まれているかのようです。そこで私たちは心を痛め、うめきながら、少 しでも自分の理想を実現できる仕事をしたいと思います。ただ、それでも、途方に暮れるほどにこの世界は病んでおり、不条理がまかり通っています。しかし、 イエスはその中にご自分から入ってこられました。私たちの主は問題を無くす代わりに、引き受ける者となってくださいました。」(高橋秀典『今、ここに生き る預言書』より)

 それにしてもわからないのは、弱さと苦しみをあえて自分が引き受け担うということが、どうして救いの働きと力を持つの か、ということです。私は思い、また信じるのです。それは、「そこに共感と連帯があるからだ」ということです。どんなに力を持っていてそれで人を助けたと しても、それが「上から下へ」という差別的な関係の中でなされるならば、それはまた新しい上下関係、支配関係を生み出すだけではないでしょうか。けれども 主イエスは、「他者のために自分のはらわたが傷つき、ちぎれる」というほどの「憐れみ」、共感、連帯の思いと生き方と道をもって、その生涯を人々と共に歩 み、生き、そしてついにあの十字架の苦難を引き受け、その道を歩み通されました。それは、神の御子が自ら進んで、愛のゆえに引き受けられた苦しみであり、 私たちのために担い取られた人の罪とこの世の悪であったのです。それは、神の愛と、愛に基づく力とによって引き受けられたものだったのです。だからこそ、 それは救いの力を持つのです。私たちが、すべての苦しみと罪にもかかわらず神を求め、それらを乗り越えて神を信じ、神と共に喜びと希望をもって生きること のできる救いと恵みとへ、私たちの命と歩みを転換させる力を持つのです。
 「私たちは、弱さも苦しみも死も、嫌がります。何とかしてそれを避けよ うとします。―――けれども、神はそうではない。神はご自分から、完全な弱さの中に立ち続けることができるんですね。 けれどもそれは、なんという力強さでしょうか。―――私たちにはそうすることはできません。私たちは、弱さを嫌がる。それは、私たちが弱いからです。弱い から、自分の弱さを認めることができず、弱さを何とかして避けようとする。弱さに意味を見出すことができない。―――しかし、神はそうではない。自分の命 を捨てることができるほど、弱さに徹することができるんですね。―――この、弱さに徹する姿に、神の強さが極まっているんですね。―――神は、私たちの考 える神とは違っていたということです。神は、強さによって人を救う神ではありませんでした。人になられて、私たちの罪を、病を、痛みを負ってくださる方 だったのです。天の上におられたままで、私たちをしっかり立たせようと、高いところから引っ張り上げるような方ではなかったのです。―――だから私たちは 信じることができます。私たちが弱さの内にある時、それは、神が私たちを見放した時ではない。神はその時、私たちのそばにおられる。神はその時、私たちを 背負ってくださっている。―――神は私たちが弱さを乗り越えたところで私たちを待っておられるような方ではないのです。私たちが弱さを乗り越えた時にだ け、良くやった、と私たちをほめてくださるような方ではないのです。―――これは発見です。神の真のお姿の発見です。―――だからこそ、救いがある。神 は、私たちの強さをほめる方ではありません。私たちに強くなるようにと励ます方でもありません。弱さを担ってくださる方なんです。そのために、居ても立っ てもいられずに、私たちのところにまで降りてきてくださる方なんです。だから私たちは信じることができます。私たちが弱い時、神は私たちの隣にいる。その ようにして、神は私たちをご自分のものとしてくださるんですね。」(光ケ丘教会 尾崎純牧師)

 私たちも、この「苦難のしもべ」ナザレの イエスに出会うとき、その飼葉桶から始まり十字架に至る生涯から発せられる光に照らされるとき、神が創り、導き、完成しようとされているこの世界の本質と 目標を知らされるのです。それは、パウロが自分の重い病を通して悟らされた言葉でした。「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」(Uコリント 12・9)
 イギリスにある、死を間近にした子どもたちのホスピス、マーティン・ハウスを巡っての対話です。「死んでいく子どもっていうのは最弱 の存在でありながら、周りを変える力があるんです。真ん中にいる子どもたちに、みんなはやさしい視線を注いでいる。そして、みんな物静かで、多分ずっと考 えているんです、いろんなことを。そして、不思議なことに微笑みを絶やさない。やはり、これも院長がおっしゃった言葉ですが、子どもはみんなブライト(聡 明)なんだ、と。そしてそのブライトネス(聡明さ)を周囲が受け継いでいく。つまり、そこにいる人たちもブライトになっていく。たとえば、ユーモラスに なったり、人の気持をいっそう思いやるようになったり。」「一番弱い存在の子どもが、周囲をそういうふうに変えていくわけですね。」「死んでいく子どもの 前では、大声でどなったり、自己中心的なことを言ったり、聞きかじりのことをしゃべったり、くだらないうわさ話なんて、恥ずかしくてできないでしょう。 ―――そういう力がそこかしこにあり、元をたどればそれは、子どもたちが発しているものだとわかる。そこに存在しているだけで強い影響力を発することがで きるんですね。だって寝たきりでしゃべれない子どもも多いんですよ。にもかかわらず、ポジティブな力を親だけじゃなく、周りに及ぼしていく。すごいことで すよね。」(高橋源一郎・辻信一『弱さの思想』より)

 私たちも、この「苦難のしもべ」ナザレのイエスに出会うとき、その見方、考え方、 そして生き方、歩む道が変えられていくのではないでしょうか。「彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすること ができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。」(53・10)そのような小さな、しかし確かな一歩が、喜びと希望の歩みが踏み出される、そんなアドベ ントからクリスマスに至る時となりますよう、切にお祈りいたします。

(祈り)
天において私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  あなたは救い主の到来を告げられ、その姿を語ってこられました。「苦難を受ける、弱い救い主」、この「しもべ」の姿に、私たちは驚き、つまずきます。けれ ども、主イエスはそのご生涯を通して、このことこそ真理であり、命であり、救いであることを実証し、実現されました。それによって私たちも生かされ、救わ れています。どうかこの恵みとその力とを証しし、行い、分かち合っていく一人ひとりまたその教会としてください。
世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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