「きょう、わたしはおまえを生んだ」                詩篇第2篇1〜12節

 
  毎年クリスマスになると、きまって演奏される曲があります。それは、ヘンデル作曲の「メサイア」です。詳しくは知らないという方でも、「ハレルヤコーラ ス」はお聞きになったことがあるでしょう。「メサイア」とは、「救い主」という意味です。そして、その「メサイア」「救い主」とは誰なのかと問うならば、 その答えは「ナザレのイエス」、イエスという方こそ「救い主」「メサイア(あるいはメシア)」なのです。この「メサイア」というのを、ギリシャ語で言うと 「キリスト」になります。「イエスこそキリスト、救い主、メサイア」、それをつづめて言うと「イエス・キリスト」という宣言の言葉、信仰の言葉となるわけ なのです。
 ヘンデルは、その「メサイア」の中で、多く旧約聖書の言葉を取り入れています。旧約の時代から、メサイア(救い主)の到来が、神に よって告げ知らされてきたのですが、「その予告・約束が実現して、イエスが本当にこの世においでになったのだ、だからイエスこそメサイア、救い主なのだ」 と歌われていくのです。
 この「メサイア」の中で、かなり多く引用されているのが、この詩篇第2篇です。「きょう、わたしはおまえを生んだ」とい う神様の語りかけの言葉があります。「わたし」というのが「神様」で、「おまえ」と語りかけられているのが「メサイア」「救い主」「キリスト」です。神様 が、来たるべき救い主に向かって、「きょう、わたしはおまえを生んだ」と語りかけておられるわけです。この「きょう」というのは、いわゆる「今日」ではあ りません。その意味は、「神によって特別に定められた日」ということです。それを今まさに今日起こるかのように「きょう」と、聖書では表現するのです。そ の特別な「きょう」に、神様は救い主を生まれさせる、だから、この言葉はまず何より「クリスマス」に当てはめることができます。神様が、「おまえ」つまり メサイア(救い主)をこの世に生まれさせる日なのです。

 ところで、この詩篇第2篇は、もともとイスラエルの王国で、新しい王の即位式で 歌われていたと言われています。メサイア(救い主)とは、元々「王」を表わす言葉だったのです。新しい王が即位するとき、それは、ある意味で政治的に不安 定な時期です。まだ新王の支配権は確立していません。その時を狙って、この王の支配を揺るがそうと企む者たちがいるというのです。「地のもろもろの王は立 ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者に逆らって言う、『われわれは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろ う』と。」王を即位させる時には、その人の頭に油を注ぐという習慣がありましたので、王が「油そそがれた者」と言われているのです。
 ところが、 こういう企ては、実は愚かであり、「むなしい」ことなのだと言われています。「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくら むのか。」なぜならば、天におられる神様が、かれらの企てを見て、笑っておられるからです。「天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう。」そ れだけではありません。主なる神は、反抗しようとする彼らに対して怒りと厳しい審判とを下されるからです。「そして主は憤りをもって彼らに語り、激しい怒 りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる」。
 この時に出て来るのが、「メサイア」、新しい王なのです。この人を立てて宣言されます。「『わたしは わが王を聖なる山シオンに立てた』と。」「主はわたしに言われた、『おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ、わたしはも ろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを 打ち砕くであろう』と。」このように、いわば「神の代理」として敵対し反抗する者たちを裁き、罰するのが、王、メサイアの役割であるわけです。

  ところが、もしその他国の人々や王たちが、この歌を実際に聞いたとしますと、どんな感想を持ったでしょうか。きっと、「何をばかな、偉そうに」と思ったに 違いないのです。イスラエルとその王は、実はこんなことを言える立場、身分ではないのです。なぜなら、イスラエルは、古代のその世界の中で、基本的にずっ と小さな弱い国だったからです。
 それなのに、どうしてかれらはこんなに大胆なことを信じ、告白し、歌うことができたのでしょうか。それは、かれ らが神の力と支配とを堅く信じていたからです。どんなに周りの大国がおごり、脅かしてきても、主なる神は天において確かに支配しておられる。たとえ、イス ラエルの国そのものは分裂し、弱体化し、ついには国としては滅ぼされたとしても(そして事実滅ぼされてしまうわけですが)、神はこのようなまことの王、メ サイアを必ず「定められた特別なきょう」に生まれさせ、その支配と救いを成し遂げてくださる、そう信じたからです。だからこそ、この歌はイスラエルの実際 の悲惨な歩みにもかかわらず、保たれ、歌い続けられていきました。

 そして時は流れて、今から約二千年前の時代となりました。その頃、そ の世界を治め支配していたのは、ローマ帝国であり、「世界の救い主」と呼ばれていたアウグストス、ローマ皇帝でした。その時代に、あの小さな町ベツレヘム で、神は今まさにこう宣言なさったのです。「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。」
 それは、いったいどうしたことでしょう か。世の中は、圧倒的な、そして暴力的・強圧的と言っても良いようなローマの支配があふれています。そんな中に、帝国の周辺で、貧しい両親のもと、だれも 顧みないようにして飼葉桶の中に生まれた無力な赤ん坊、そんな者が本当にこの詩篇で歌われているような、「新しい、まことの王、メサイア、救い主」なので しょうか。
 そうなのだと聖書は語り、そうなのだと教会は信じて来たし、信じているのです。それは、新しい支配、新しい権力です。今まで誰も知ら なかったような支配、誰も考え願わなかったような力、それがこの「新しい王」イエス・キリストによって始められたのです。ローマの人々によって「世界の救 い主、良き知らせをもたらす人」と呼ばれ崇められていた皇帝アウグストスに対抗しつつ、天使はこのように羊飼いたちに告げたのでした。「すべての民に与え られる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの前に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ 2・10〜11)

 さらに、この「あなたはわたしの子だ」という神の呼びかけは、イエスの生涯の極めて大切な場面場面で繰り返し語られ、確認されます。
  「さあ、これからエルサレムに上り、十字架の苦難の道へ歩み出す」というその時、山の上でイエスの姿が栄光に輝き、天からこの声が聞こえるのです。「これ はわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け。」十字架の苦しみと恥辱にまで身を沈め、この世のすべての悪と、人間のすべての罪とを引き受け担うこ とによって、イエスはこの新しい神の支配を実現し、完成なさるのです。
 そして、そのように十字架に殺されて死んだイエスを、神が三日目によみが えらせるとき、それはまさにこの詩篇の言葉が実現されたことだったのだと語られるのです。「しかし、神はイエスを死人の中から、よみがえらせたのである。 ―――神は、イエスをよみがえらせて、わたしたち子孫にこの約束を、お果しになった。それは詩篇の第二編にも、『あなたこそは、わたしの子。きょう、わた しはあなたを生んだ』と書いてあるとおりである。」(使徒13・30、33)

 神が約束され、イエスが「まことのメサイア、救い主」とし て実現された、その「新しい支配」とは、どのようなものなのでしょうか。それは、イエスがその全生涯を通して、とりわけその十字架の道において、御自身の 体と血とをもって表し、生き、成し遂げられた方法と道による支配です。「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治 め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたい と思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではな く、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(マルコ10・42〜45)
 このメサイア・イエス、イエ ス・キリストの支配と導き、その完成を信じる人々がいます。「アメリカの平和運動を続けている9・11犠牲者遺族の会『ピースフル・トモロウズ』のディ ビット・ポトーティさんという方、彼もまたあのビルで肉親を失ったのですが、来日し、各地で講演されました。そのポトーティさんはこういうことを語ってい るのです。『9・11で死んだ私たちの愛する人々の死は世界で毎日殺されているたくさんの人々の一部に過ぎないと思います。軍隊は私たちを守ってくれな い。そうであるなら、私たちはともに生きるしかありません。私たちは「米国は善良で強大な国家だ」という妄想を捨てなければならない。米国人の多くは恐怖 に支配されているために、こうした考えに立てませんでした。そしてアフガンへの爆撃を支持し、「愛国法」を支持し、不法なイラク爆撃を支持しました。恐怖 と不安による暴力で報復することで、更なる恐怖と不安、暴力を生み出しました。 しかし、この間、私たちの言葉と思想には力があることも学びました。人間 的になることで、弱さをさらけ出し、手を取り合うことで、大きな力が生まれることも知りました。私の母は事件の直後に「息子の死で、私がいま味わっている 悲しみを世界の他の人々に決して味あわせたくない」といいました。彼女は世界の人びとの悲しみに目を向けることで、自分の悲しみを癒したのです。この訴え を広げる中で、同じように考えるピースフル・トモロウズの他のメンバーと知り合いました。私たちは、どんなときでも、どんな理由があっても、殺戮はいけな いということを学びました・・・テロは本当の問題の現象にすぎません。私たちが本当に闘うべきものはテロではなくて、帝国主義だとか、物質主義だとか、軍 事主義、愛国主義、そして自分の命は他のものよりずっと価値があると考えるような思い込み、それらと闘わなくてはなりません。』」(六本木ルーテル教会 ホームページより)

 このイエス・キリストの支配を信じて生きること、この支配を指し示し告げ知らせること、それはそうしようとする私た ちにも、この世の王たち、人々の反発と圧迫をももたらすかもしれません。しかし、そのこともまた、この詩篇があらかじめ告げていることなのだと言われてい るのです。ペテロとヨハネが捕らえられ、一時釈放されて帰って来たとき、教会の一同は声を合わせてこう祈りました。「『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、もろ もろの民は、むなしいことを図り、地上の王たちは、立ちかまえ、支配者たちは、党を組んで、主とそのキリストとに逆らったのか』。―――主よ、いま、彼ら の脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせてください。」(使徒4・25〜26、29)
 それは、賛美の祈りです。「この賛美 が、私たちを形づくるのです。―――私たちは、それまでよりもずっと大きな枠組みの中に自分の価値を置き、まったく個人的で、自分のためのものでしかな かったそれまでの生き方よりもはるかに大きな冒険へと自分が捉えられていくことを喜びながら、私たちのために身をかがめてくださる方、私たちの賛美を喜 び、私たちの歌声さえも楽しんでくださる方、聖なる神を、あらゆる被造物と共にほめたたえます。」(ウィリモン、ハワーワス『主の祈り』より)私たちも、 神の御名とそのメサイア・イエスの御名をほめたたえ、賛美しながら、この働き、この歩みへと踏み出して行くのです。「すべて主に寄り頼む者はさいわいであ る。」

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
 あな たはまことの王、まことのメサイア、イエスをこの世に生まれさせ、新しい支配と目標を始められ、それを今も導き、やがて完成へと至らされます。このあなた の支配を私たちも信じ受け入れ、あなたとキリストの御名を賛美しつつ、それにふさわしい生き方と歩みを、教会として共に行っていくことができますように力 づけ、お導きください。
 主の御降誕を待ち望むアドベントの歩みが恵み豊かに導かれ、来たるクリスマスが多くの人々にとってあなたの語りかけを聞くチャンスとなり、大きな喜びとなりますよう、切にお願いいたします。
世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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