寄り切られて、伝えよ                使徒行伝第9章10〜19節前半

 
  今日も、意外な人物にスポットが当たります。それは、アナニヤという人です。アナニヤは、伝道者・使徒パウロにとって、「命の恩人」です。パウロは、彼一 人ではパウロになれなかったのです。パウロにも、自分に福音を語り、伝道してくれる他者、アナニヤが必要であったのです。
 パウロは、ダマスコの 町に上って行く途中、町の入口で、重大な経験をしたのでした。パウロは、当時「教会の迫害者」として名を馳せていました。イエスを憎み、彼をキリストと信 じるクリスチャンたちを憎んで、捕らえ、苦しめ、迫害し、教会を荒らし回っていたのです。そのパウロが、隣国シリアの都ダマスコにまで迫害の手を伸ばそう としたその時、彼はいきなり「復活の主イエス・キリストに出会う」という、不思議な、そして衝撃的な経験をしたのでした。
 「さてサウロは、なお も主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次 第、男女の別なく縛り上げて、エルサレムにひっぱって来るためであった。ところが、道を急いでダマスコの近くに来たとき、突然、天から光がさして、彼をめ ぐり照らした。彼は地に倒れたが、その時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は『主よ、あなたは、どなたです か』と尋ねた。すると答えがあった、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ、立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたの なすべき事が告げられるであろう』。―――サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れ て行った。彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。」
 もうこれで十分なのではありませんか。これほど衝撃的な、そして 奇跡的な体験をしたのなら、これで十分なのではありませんか。もうすべてを悟り、すべてを理解して、新しい歩みと生き方を始めてもいいのではありません か。いいえ、決してそうではなかったのです。一人の他者が、どうしても一人の人が、彼パウロに伝道し、福音を証ししてくれることが必要だったのです。
  どんなにすばらしい体験も、他の人による伝道、証と解き明かしを必要とするのです。「助けは外から来なければならない。ーーー神は、このみ言葉を人間の口 に入れ、それがさらに人々の間に語り伝えられるようにされた。ひとりがみ言葉に打たれると、彼はそれをほかの人に語る。神は、われわれがその生けるみ言葉 を、兄弟の証しを通し、人間の口を通して、求めまた見出すことを望みたもう。だからキリスト者は、彼にみ言葉を語ってくれる〔ほかの〕キリスト者を必要と する。―――彼は、神の救いのみ言葉の担い手、宣教者としての〔ほかの〕兄弟を必要とする。彼は、ただイエス・キリストのために、兄弟を必要とする。自分 の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いのである。前者は不確かであり、後者は確かである。」(ボンヘッファー『共に生きる生活』よ り)

 そこで、パウロのために、主イエスから見込まれ、呼ばれたのが、アナニヤでした。「さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子が いた。この人に主が幻の中に現れて、『アナニヤよ』とお呼びになった。彼は『主よ、わたしでございます』と答えた。そこで主が彼に言われた、『立って、 「真すぐ」という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼は今祈っている。彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上に おいて再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである』。」主がアナニヤに対して命じられたことは、三つでした。まず、「パウロのところへ行け」とい うこと、そして「手を彼の頭に置いて祈ってやり、再び見えるようにしてやれ」ということ、さらに「パウロに、彼が果たすべき自分の使命を知らせてやれ」と いうことでした。
 けれどもそれは、アナニヤと彼が属していた教会にとって、理解と受容の限度をはるかに超えたことでした。神によって起こされ、 もたらされる伝道への呼びかけは、私たち人間の思い、願い、計画、イメージ、枠、理想などを、ことごとくひっくり返し、ついには完全に打ち壊してしまうほ どのものなのです。「迫害者パウロのところにわざわざ危険を犯して出かけて行ってやり、しかもせっかく駄目になってよかったと思っている目をいやしてや り、さらにはそのパウロを、事もあろうに、イエスの福音を伝える者として使命を与えて送り出してやるなんて。そんなことは、到底理解できないし、受け容れ ることもできない。どれだけ多くのクリスチャンやその家族が、パウロのために苦しみ、傷つき、時には命までも落としてきたと思っているんだ。」
 ですから、当然アナニヤはこの主の命令を拒否します。「アナニヤは答えた、『主よ、
あ の人がエルサレムで、どんなひどいことをあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。そして彼はここでも、御名をとなえる者たち をみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです』。」「主よ、そんな御業は困ります。そんなこと、決して望んでもいませんでしたし、受け入れるこ とはできません。お従いするわけにはまいりません!」

 しかし、復活の主イエスは、アナニヤと教会に押し迫るのです。主は教会と共にいま す!教会に問いかけ、立ち向かい、押し迫り、詰め寄り、ついには「寄り切って」しまうかのように!「しかし、主は仰せになった、『さあ、行きなさい。あの 人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなけ ればならないかを、彼に知らせよう』。」それが、神の御心であるのだ。それが、敵をも愛し、赦し、救い取る神の愛、イエス・キリストにおいて現れた神の愛 に、最もふさわしい道であるのだ。だから、行け!
 アナニアは、主の教会の「代表」として、この愛によって生かされ、それを喜んでいる者の代表として、この命令に従い出て行きます。主に「寄り切られ」、負けることを良しとして、伝道のために立ち上がり出かけて行くのです。それが恵み、伝道の恵みなのです。
  「そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上に置いて言った、『兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び 見えるようになるため、そして聖霊に満たされるようになるために、わたしをここにおつかわしになったのです』。するとたちどころに、サウロの目から、うろ このようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。」
 「奇跡物語 の本質は、神の助けによって過去(とそれに基づく考え方)から解放されて新しい現実を見る目が開かれることである」(橋本滋男)と言われます。「伝道」と は、主によって、私たちが今までの自分たちの考え方・捉え方の枠組みと生き方から自由にされて、新しく主からの見方によって人を見、事柄を見て行くこと、 それによって私たちの言葉と行動と行き方が変えられるところから始まるのです。まさにこのことが、パウロにも、そしてアナニヤと教会にも起こっているので す。

 「それは、1990年4月5日のことだった。冷たい風がエルサレムとベツレヘムに吹いている夜だった。アリエルとハリエルという二 人のユダヤ人の子どもたちが、あるエルサレムのバス停に立っていた。その十歳の子どもたちは、家に帰る途中だった。バスが止まり、お喋りに夢中になってい た子どもたちはそれに乗り込んだ。彼らは終点に到着し、自分たちがまったく違う場所についたことがわかるまで、バスを乗り違えたことに気づかなかった。怖 くなった子どもたちは、ユダヤ人のバスの運転手に助けを求めたが、運転手は彼らのために時間を割かなかった。もう終業時間だったのである。急いでいた運転 手は、子どもたちにバスから降りて、だれか通りにいる人に助けを求めるようにと言った。子どもたちは仕方なく、それでもお休みなさいの挨拶をしてからバス から降りた。バスは、途方に暮れた彼らを、エルサレムのはるか南の、人気のない通りの暗闇に残して去った。―――その夜の九時半ごろ、子どもたちはまだ明 かりの灯っているガソリンスタンドにさしかかった。スタンドの外には、二十五歳くらいの男が立っていた。『ついに人間が、ついに助けてくれる人がいる!』 と子どもたちは思った。そのガソリンスタンドとその周辺は、どうやらアラブのものに見えた。二人のユダヤ人の子どもたちは怖くなった。―――彼らは用心し ながらその若いアラブ人に近づき―――両親に電話をかけさせてほしいと頼み、アラブ人は彼らをスタンドの中に招き入れた。アラブ人はオフィスの電話の場所 を教えて、子どもたちに使わせた。―――イサにとって、この二人の子どもたちはイスラエルに復讐するチャンスだった。これは長年にわたるイスラエルの圧迫 を罰し、イスラエルが苦しめた者の生のためにイスラエルを苦しめるまたとない機会だったろう。しかしイサは、そうしなかった。彼は子どもたちを憐れんだ。 彼は子どもたちに電話を使わせた。彼は、子どもたちが凍えているのを見て、彼らのために電気ストーブを点けた。彼は子どもたちがおなかをすかせているのに 気づき、家に走って行って飲食物をもってきた。―――そのパレスチナ人は、この状況においては、この子どもたちはもはや敵ではないことに気づいた。彼ら は、助けを必要とする隣人であった。そのパレスチナ人は、その日、二人のユダヤ人の子どもたちの隣人となった。―――この物語は、福音である。敵に対する 愛の使信である。」(ミトリ・ラヘブ『私はパレスチナ人クリスチャン』より)この愛の福音を、この人は子どもたちに、その行いをもって、その生き方をもっ て伝えたのです。それは、けっしてこの世の不正や悪を見過ごしにし、口をつぐむことではなく、神から来る全く新しい見方によって、一人一人の人とこの世界 の有様を見始め、そこから新しく語り生き始めるということなのです。

 アナニヤと共に、彼の後から、私たちも、主の愛によって押し切られ て、寄り切られて、変えられ、伝えるようにと呼びかけられ、招かれています。それは、あえて出かけて行くことであり、手をその人の上に置いて具体的な奉仕 と助けの業を行うことであり、神の愛と働きかけによって新しく始められるその人の道を語り証しすることです。
 私たち教会とその一人一人は、日々の歩みと出会いの中で、復活の主のこの呼びかけと招きを聞き取り、それに答えて歩み出す者たちとされていきたいと、切に願います。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
 イエス・キリストは、神の敵を愛し、救う福音を語り、それをまさに行い、成し遂げられました。この福音を、敵対者・迫害者パウロに語り、彼の人生を変え、新しく導くために、主はアナニヤと教会を招き、かれらに押し迫られました。
  私たちは、このことに驚き、恐れます。けれども、どうかあなたのすべてを新しくする御言葉によって、私たちをも新しくしてください。私たちの見方・考え 方・生き方を完全に覆し、打ち壊し、全く新しいものとしてください。それによって、私たちが、あなたによって送り出され、導かれ、用いられる伝道の働きと 道へと、その恵みと幸いへと至らされますように、切にお願いいたします。
私たち教会の伝道の導き手にして完成者なる主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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