見て、呼びかける伝道                使徒行伝第3章1〜10節

 
  「さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると」、この一人の人の著しいいやしと救いの出来事は、かれらが「宮に上ろうとして いる」ところで起こりました。それは、礼拝への途上だったのです。礼拝の真っ只中で、神の業は起こるのです。礼拝から始まって行く私たちの生活の中で、そ して礼拝へと帰って行くことを目指している生活のただ中で、イエス・キリストの業は起こって行くのです。私たちも、「ああ、またいつもの礼拝だ」とは決し て思わないで、「ああ、今日も礼拝で神の新しい業が起こる」と熱く期待して、そこへ向かいたいと思います。
 神は、その礼拝へと向かう途上で、私 たちに「出会い」をお与えになります。それは、実に様々な「出会い」です。時には、決して「愉快」ではない出会いもあります。私たちに問いを投げかけ、私 たちを問い詰め、私たちを訴えるような出会いもあり得るのです。この時のペテロとヨハネもまた、そうでした。
 「ペテロとヨハネとが、午後三時の 祈のときに宮に上ろうとしていると、生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、『美しの門』 と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。」生まれつきの障碍を負った人が、毎日「物」のように道端に置かれて、人々の好意にすがって生きてい かなければならないという現実。それを許し、むしろ「当然」のことにようにして、動き回っていく社会の不条理、不作為、そして非情。それは、この世の苦し みや悪、矛盾や不条理と対面させられるような出会いでした。私たちが礼拝に集う時、お互いの間に、この世の苦しみや悪を見出します。私たちの間に病があ り、様々な試練や苦しみがあり、それらに苦しむお互いがあります。そしてまた、そのような私たちの群れの中に神様は、この世の重荷に苦しむ様々な方々を 送って来られます。さらに、礼拝から出て行き礼拝へと帰って来る、私たちのこの世の歩みと働きの中で、私たちはまさにそのような出会いをも経験させられま す。

 「出会い」から、私たちの「関わり」「関係性」が問われます。それは、開かれ深まるのか、それとも、隔てられ断絶するのか。「出会 い」から関係が開かれ深まるとき、そこに「伝道」という働きが起こるのです。今日のこのペテロとヨハネとが経験した出会いでは、「見る」ということをめ ぐって、関係が深まって行く過程が描かれます。ここには、四回「見る」ということが言われますが、元の言葉では、なんとその四回それぞれに全く違う言葉が 使われて、それぞれが区別されているのです。「見る」その見方が変わり、深まって行きます。それによって、この「物乞いをさせられていた人」と「二人の弟 子」との間の関係の深まりと変化がわかるのです。
 最初のかれらの間の関係はこうでした。「彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとして いるのを見て、施しをこうた。」この「見る」は、ふつうの「見る」です。と言うより、「なんとなく目に入る」感じ。その場を何十人、何百人もの人が通り過 ぎて行ったでしょう。そんなにたくさんの人をいちいちちゃんと見ているわけにいきません。多くの人たちは、彼に注目することもなく、期待にも答えず、通り 過ぎて行く。彼もこの二人にそんなに期待していなかったでしょう。そんな大群衆の中の二人に、何気なくちらっと目をやりながら、いつもどおりの決まり文句 「どうぞお恵みを」と言ったのではなかったでしょうか。
 「私だったら」と考えてみました。あまりうれしくないだろうなと思いました。教会に来る 方は、だれもが「信仰を求めて」来るわけではありません。「お金を貸してください」という方に、何人も出会いました。もし私だったら、きっと彼の求めに、 他の多くの人々同じく、目をそらしながらその場を通り過ぎたかもしれないと思います。でも、ペテロとヨハネは、この人を見て、彼に向かって呼びかけたので す。。「ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った」。
 「じっと見た」のです。「じっと見つめる、目と共に心を注 ぐ」という見方です。二人は、彼がいままで生まれてからずっと負ってきた「苦しみ」を見たでしょう。またその「苦しみ」をよけいに増すような社会の矛盾や 不条理を見たでしょう。その中で苦しみ、悩んで、その末にあきらめてしまってきたような彼の魂と生き方を見たでしょう。その中で、彼が陥ってしまってきた 不信と絶望の罪とその道をも見たでしょう。二人は、彼の人生と苦しみ、彼の魂と罪のただ中へと「目と心を向けて見」、入り込んだのでした。

  そして二人は彼にもこう呼びかけ求めます。「わたしたちを見なさい」。これも、はじめの「なんとなく見る」とは、違います。「じっと見なさい。私たちに心 を向けて見なさい。心で感じて見なさい。私たちにしっかり向かい合って見なさい。あなたも、そのような関わりを私たちと持ってください。」そのようなお互 いのまなざしと関係を、弟子たちは彼に求めたのでした。
 しかしまた、ずいぶん大胆な言葉であるとは思いませんか。「わたしたちを見なさい。」本 来的な私たちなら言えるでしょうか。「わたしたちを見なさい」、見たはいいけど、欠点だらけ、問題だらけ、こんなものを見たらつまずいて去ってしまうので はないか。でも、もしそうだとしたら、私たちはいつまでたっても「お互いがしっかりと向かい合って見る」という関係には至ることができないでしょう。
 ペテロたちは、決して私たちとかけ離れたようなすぐれた立派な人間ではありませんでした。聖書はそのことを隠れなく記しています。その二人が「わたしたちを見なさい」と呼びかけ、声をかけたのです。それは、どのようにして出来事となったのでしょうか。
  それは、かれらがすでにそのように「見られ、見る」という関わりを受け、経験していたからでした。ルカによる福音書は、ペテロをごらんになる「主イエスの まなざし」を記しています。「『たしかにこの人もイエスと一緒だった』。ペテロは言った、『あなたの言っていることは、わたしにわからない』。すると、彼 がまだ言い終わらぬうちに、たちまち鶏が鳴いた。主は振りむいてペテロを見つめられた。」ペテロが、愛する師イエスを否定し、三度も否定し去ったその時、 主は彼を見つめられたのでした。彼が罪のどん底に沈み、人生のすべての意味と希望を投げ捨ててしまったとき、主は彼をじっと、どこまでも深く、しっかりと 見つめられたのでした。それは、決して怒りや裁き、非難のまなざしではなく、彼の罪をしっかりと引き受けつつ、赦し、なおも彼を支え、彼のために祈りとり なし続け、そのようにして彼をどこまでも受け入れ、受け止め、共に生きようとするまなざしでした。
 「このまなざしによって、私は愛され、赦さ れ、生かされている」、この信仰によって生きるペテロとヨハネは、彼の苦しみと困難にしっかりと目をそらさずに留めることができました。そして、こう呼び かけることができたのです。「わたしたちを見なさい、こうしてイエスによって赦され、受け入れられ、生かされている、この私たちを見なさい。ただ神の愛と 真実によって支えられ、導かれ、歩んでいるこの私たちを見なさい。」
 この呼びかけによって、物乞いに生きるほかなかった人の目が、そのまなざし が変わり始めました。「彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると」。彼はもう信仰のすべてがわかったとは言いますまい。まだまだ、こ の人たちは思わぬ大金をくれるかもという期待はあったことでしょう。しかし、彼の目は「期待」をもって二人に「注目し」、かれらの姿をとらえ続けたので す。「ここには何かがある。ここには、私の求めているものがあるのではないか。」

 そのまなざしに答えて、ペテロは語ります。「金銀はわ たしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」礼拝に共に集う時、私たちはお互いを見て、呼び かけ合う。それが私たちの礼拝であり、伝道です。何と言って声を掛け合い、呼びかけ合うのか。それは、これです。「金銀はわたしには無い。しかし、わたし にあるものをあけよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」
 「金銀はわたしには無い」、これは私たちの現実、私たちの出発点の 確認です。「金銀」、それは昔も今も人間的力の源であり、シンボルです。ひそかに、すべてのものが「金銀」に換算されています。「すばらしく、美しい設 備」、「快適な人間関係と環境」、またそれらをもたらす私たちの経済的・心理的・政治的・社会的な力、ありとあらゆる人間的力の数々。しかし「金銀はわた しには無い。」そもそもありませんし、もし仮にあったとしても、それによってお互いを助け、導こうとしているなら、それはきっと行き詰まりに達するか、別 のものに変質してしまうことでしょう。
 でも、そうではなく、私たちは互いを見て、こう呼びかけ合う。「しかし、わたしたちにあるものをあげよ う。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」「名は体を表す」と申します。「その名のあるところに、その実体もある」と、特に昔は考えられて いました。イエス・キリストの名のあるところに、イエス様ご自身がおられる。イエス様がおられる。イエス様が今も生きて、私たちのただ中におられ、私たち の間を歩いて行かれる。「そのイエス様は、私たちを愛していてくださる、そしてあなたを愛していてくださいます。そのイエス様があなたを慰めてくださいま すように、このイエス様があなたをいやしてくださいますように、このイエス様があなたを立ち上がらせてくださいますように、このイエス様があなたを歩ませ てくださいますように。」そう、私たちは声を掛け合い、呼びかけ合うのです。

 小塩力という牧師は、このように言っておられます。「わた くしは、自分の存在が、この顔つきや、性質が、多くの人に好感を与えるとは思っていない。だから、直接会ったり、悩んでいる人の傍らに座していたりするこ とを、憚る。――ただもし、私のような醜い存在でも、いつも彼らと共にあってキリストの臨在を指し、死神のよび声にさからうかげとなりえたのだったら、と 思う。その人の運命のために、その程度のはかなさしかないことだけれども、時とところとを『共に』できるのだったら。」
 「金銀はわたしには無 い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」そう言って、ペテロは「彼の右手を取って起こして」あげま した。ここに、教会の「小さな奉仕」の業があるのです。彼が後に語っているように、この人のいやしは、百パーセント、どこまでいってもイエス・キリストの 業であり、力です。その人の「右手を取って起こす」、それは何ほどのことでもありません。しかし、ペテロがその「何ほどでもないこと」をしなかったなら ば、このいやしは起こらなかったでしょう。では、そうすればいつでも奇跡が起こるのか。そんなことは言えません。けれども、「イエス・キリストの御名のも とで、イエスを信じて、相手の手を取り、助け起こそうとするなら、何かが起こる、イエスの働き、神の業が起こる」、そう信じ、期待し、手を伸ばし、差し出 すとき、主は善き御業をしてくださるに違いありません。
 まさにその時、イエス・キリストの業が起こりました。神の業が起こったのです。「彼の右 手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、たちどころに強くなって、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしな がら、彼らと共に宮にはいって行った。」こうして、また一人の礼拝者が加えられたのです。伝道の業が起こされたのです。そのようにして、私たちも礼拝へと 共に集まり、互いに見て、呼びかけ合う教会として導かれてまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  あなたを礼拝しようと、私たちが共に集まり、互いを見、呼びかけ合うとき、そこに復活の主イエスが共にいてくださいます。そして、御自身の働き、神の善き 業を起こしてくださいます。どうか、私たちがあなたを信じ、イエスの御名によって共に生き、仕え合い、助け合って働くことができますように。「右手を取っ て起こしてあげる」という小さな奉仕の業を、勇気と希望をもって行うことができますように。私たちの思いと願いをはるかに越えて、主よ、あなたが善き出会 いと伝道の業を起こしてくださいますように。
まことの道、真理、そして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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