喜びと祝いの伝道                  ゼカリヤ書第14〜23節

 
 今日の箇所には、「伝道」についての、私たちの「願望」がそのまま実現するような言葉が語られています。それは、イスラエルの都エルサレムとその住民に対する、主なる神の約束の言葉です。
  「万軍の主は、こう仰せられる、もろもろの民および多くの町の住民、すなわち、一つの町の住民は、他の町の人々のところに行き、『われわれは、ただちに 行って、主の恵みを請い、万軍の主に呼び求めよう』と言うと、『わたしも行こう』と言う。」(20〜21節)多くの民が「エルサレムに行こう、エルサレム に行って、主なる神様の恵みを求めよう」と口々に言いながら、エルサレムに来るというのです。この「エルサレム」の代わりに「教会」と入れてみれば、まさ に私たちの願望かもしれません。「多くの人々が、口々に『教会に行こう』と言って、次から次に来てくれる」。
 また、こうも語られています。「万 軍の主は、こう仰せられる。その日には、もろもろの国ことばの民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こ う。神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言う。」(23節)衣のすそに取りすがってまで、「あなたと一緒に神様を求めて礼拝に行きたい、連れ て行ってください」と言われたら、「どんなにいいか」と思うところがあるのではないでしょうか。

 でも、この言葉が神様によって語られた 時の、エルサレムとその住民たちは、最低・最悪の状況にあったのでした。「バビロン捕囚」ということが、イスラエルの民に起こったのです。外国の襲来によ り国が滅び、信仰の中心・拠り所であった神殿は破壊され、多くの人々が囚われの身となって異国の都バビロンへ連れ去られました。この苦しみと屈辱が五十年 も続きました。その「バビロン捕囚」がようやく終わって、一部の人たちはようやくの思いで、故郷の地エルサレムに帰って来ました。しかし、そこに待ってい たのは、「楽園」などではなく、荒れ果てた町と土地であり、そこから始まったのは、困難で惨めな生活であったのです。人的な損失が数え切れないほどありま した。多くの命が奪われ、多くの人々が離れ離れになりました。もちろん経済的損失は計り知れないほどです。そして何より、精神的損失はもうどうしようもな いほどでありました。どんなに困難で貧しくても、気持ちをしっかりと前向きに持つことができたら、それを耐えて、やがて乗り越えて行けます。エルサレムの 人々は、「自分たちは、神様に愛想をつかされた、神様に見放された、神に見捨てられた」と感じ、あらゆる望みを失っていたのです。

 しか し今、そんなかれらに、主なる神の言葉が預言者によって届けられるのです。「万軍の主は、こう仰せられる、『あなたがたの先祖が、わたしを怒らせた時に、 災いを下そうと思って、これをやめなかったように―――そのように、わたしはまた今日、エルサレムとユダの家に恵みを与えよう』。」
 かつて、神 様が人々の罪への罰として、この町に災いを下し、侵略と滅亡をもたらされた時、神様は決してそれをやめようとはされませんでした。どんなに祈られても頼ま れても懇願されても、決してその意志を撤回されることはありませんでした。しかし今、神様はその心を全く切り換えられて、エルサレムとその人々を恵もう、 愛そう、助けようと決意されたのです。その決意の堅さは、あの罰そうとされたのと同じくらい堅い、いやそれにもまさった堅く強いのだというのです。何が起 ころうと、どんなに言われようと、恵み愛することを決してやめない、絶対にやめない、そう今決心されたのだというのです。一方的な恵み、無条件の愛を、今 神はエルサレムとその人々に与えると約束し、宣言なさるのです。
 それは、もう少し具体的に言うならば、こうだと言われるのです。「万軍の主はこう仰せられる、四月の断食と、五月の断食と、七月の断食と、十月の断食とは、ユダの家の喜び楽しみの時となり、よき祝の時となる。」(19節)今や神様は、エルサレムの人々に、
「反省し、悔い改め、断食して、苦しめ、努力せよ」と言われるのではなく、「あなたがたは、ただ喜びなさい。あなたがたは、わたしの愛と恵みを楽しみなさい。あなたがたは皆で一緒に、この神から与えられる幸いを祝いなさい」と言ってくださるのです。

  私たちの救い主イエス・キリストが来られた時には、まさにそうであったのです。主イエスは人々から質問されました。「ほかの多くの宗教家とその弟子たち は、断食をし、苦労し、努力しているのに、どうしてあなたがたは宴会ばかりを開き、人々と共に食べたり飲んだりばかりをしているのですか。」するとイエス は答えられました。「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。」(マルコ2・19)今は、 「婚礼の時」のような喜びの時なのだ、祝いの時なのだと、主は言われるのです。
 なぜならば、神が共にいてくださるからです。神が民を愛し、祝福 してくださるからです。神が常に共にいて、助け、支え、満たし、備え、導いてくださり、やがて完成へと至らせてくださるからです。そのためにこそ、神が人 々を、一つの正しい生き方と道へと導き入れ、歩み出させてくださるからです。このことを、神の民はひたすら喜び、楽しみ、祝うべきなのです。

  その喜び、楽しみ、祝いの中身、結果として、エルサレムの人々は、このように生きるようにと促され、招かれるのです。「あなたがたのなすべき事はこれであ る。あなたがたは互いに真実を語り、またあなたがたの門で、真実と平和のさばきとを、行なわなければならない。あなたがたは、互いに人を害することを、心 に図ってはならない。偽りの誓いを好んではならない。わたしはこれらの事を憎むからであると、主は言われる。」(16〜17節)要するに、「あなたがたは 真実と平和とを愛せよ」。(19節)あなたがたのお互いの中で、またあなたがたが生きる町や、あなたがたが形作る社会の中で、そのような神の恵みにふさわ い、すべての人が喜びと誇りと希望をもって生きられるような世界をつくろうとして生きなさいというのです。このように神の愛と恵みを喜び祝い、それに応答 して生きる、その生き方が人々を引きつけ、人々を神のもとへ導くのだというのです。
 名古屋でずっと「新規伝道」に取り組んで来られたある先生 が、このように語っておられます。「神の国とは、キリストのご支配が確立されているところであり、それは、端的に言えば、正義と愛と平和の国であると言い ます。今、教会の存在理由は、神の国の福音伝道だと学んだわけです。しかし、それを伝える教会自身が、神の国とその秩序を映し出すことができなければ、 まったく説得力がありません。正義と愛と平和に満ちた交わり、神の国が教会で力をもって始まっている現実を抜きにして、伝道することは、基本的にはできな いことだ思います。―――自分が見たことも聞いたこともない内容を宣伝しても、人々の心に、まして魂に届くことは本来、できないと思います。―――教会と は、神からこの世界のただ中に派遣された使節であり、天国の公開状です。」(相馬伸郎「愛と平和の手紙ととしての教会形成」、『世の光となる教会をめざし て』より)
 そして、これは、イエス・キリストが、喜びと希望を伴って、私たちにはるかに先だって始めてくださったことなのです。「唯一のまこと の奉仕者でいらっしゃる主イエスは―――弱く小さく苦しむ人々をご覧になって深く憐れんでくださいました。―――はらわたを痛ませる激しい感情、愛の激情 ―――主イエスご自身が、そのような愛に突き動かされて、手を差し伸べられ、救いの言葉を宣言されました。そして、私どもキリスト者のいわば原体験とは、 福音書の昔のイエスさまだけでなく、今ここにうずくまる、この私にも、キリストが手をさし出してくださり、御声をかけてくださったということにあると思い ます。―――主イエスの憐れみを受けた者は、主イエスがさらに憐れみの業を広げて行くために、外へと出かけて行かれるゆえに、その後を追いかけるしかしな くなってしまったのだと思います。そして、そこに奉仕の力―――源泉もあるのです。」(同上)

 「大変なことを言われ、任せられた」と思 わなくてもよいのです。私たちに主が求めておられることは、エルサレムの人々に求められたのと同じこと、主の愛と恵みを喜び、楽しみ、祝うことです。ただ 一人こっそりとではなく、共に生きる教会の仲間と共に、また神が愛し、心にかけておられるすべての人々と共に、とりわけイエスが向かわれたこの世で弱く小 さくされ、苦しめられている人々と共に、その喜びと祝いを分かち合おうとして生きることです。そしてそのためには、勇気をもって、また主に対する期待・希 望をもって、この世において一言でも語り、一歩でも踏み出し、一つでも行動することです。それが、伝道であり、主の証しとなるのです。私たちは、神様から 与えられた愛と恵み、それを喜び、この喜びをどんなふうに形にしようかと、共に考えながら生きて行けばよいのではないでしょうか。
 以前にもご紹 介しました「東北ヘルプ」というキリスト教の奉仕団体があります。それは、東日本大震災の後、仙台地区を中心に始まった活動です。その代表の方がこう語っ ておられます。「私たちは、『神様のなさることを邪魔しない』と言い交わし合いました。たくさんの方々が私たちに助力を求めてくださいました。助力を必要 としていた私たちに!です。弱さが、力となりました。強さはほとんど役に立たなかった。強さは、ただ弱さの中でだけ、役に立った。そんな不思議なことがた くさんありました。そうした中で、在日大韓基督教会の方々がお越しになり、『外国人被災支援プロジェクト』を行いたいと申し出てくださいました。―――プ ロジェクトは2年間の活動を進めました。仮設住宅を一軒一軒回り、外国人の状況調査をして、そのプロジェクトは進んだのでした。その際、行く先々で『キリ ストさん』と呼ばれ歓迎されたこと、そして『キリストはすごい』と被災者のお一人お一人が言ってくださったことは、大きな驚きでした。なぜなら、その人々 はこれまでに一度も教会に行ったことのない人々ばかりであり、その地域にはこれまで一度も教会が建ったこともなかったからです。キリスト者は、確かに、津 波被災地で愛のあかしを立て、そしてキリストの名前が高い評価を獲得していた。それは驚くべき出来事でした。」(川上直哉「『障害者』と災害」より、東北 ヘルプニュースレター特別号「障がいで町おこし特集」所収)

 「わたしはまた今日、エルサレムとユダの家に恵みを与えよう。恐れてならな い。」「四月の断食と、五月の断食と、七月の断食と、十月の断食とは、ユダの家の喜び楽しみの時となり、よき祝の時となる。ゆえにあなたがたは、真実と平 和とを愛せよ。」神の愛と恵みを喜び楽しむこと、イエス・キリストの交わりとと招きとを喜び祝うこと、それが私たちの証であり、私たちの伝道なのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
 あなたはどん底にいたエルサレムの人々に、堅い決意をもって愛と恵みを約束してくださいました。そしてあなたは、私たちすべての者に対して、イエス・キリストにおいて
決定的・究極的に、愛と恵み、赦しと救いを実現し、与えてくださいました。
  このことを、ひたすらに、力の限り喜び楽しみ、共に互いに、またできる限り多くの人々と共に祝うこと、それが私たちに与えられた証しであり、伝道の使命で あると信じます。どうか私たちの教会の中に、お互いの間に、あなたによって愛され、赦され、招かれ、集められた喜びを満たしてください。そしてそれを楽し み祝うことを、少しでも形にすることができるよう、与えられ委ねられたすべてのものを用いることができよう励まし、助け、お導きください。
まことの道、真理、命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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