はじめてでもわかるキリスト教―――神を信じて生きる       ヘブル人への手紙第11章1〜6節

 
 おはようございます。今日は、私たちの礼拝にようこそおいでくださいました。ありがとうございます。

 「はじめてでもわかるキリスト教」というテーマです。
 そこで、何よりまず「キリスト教を信じる」ということ、それはどういうことなのかということを、一言で申し上げます。
 「キリスト教を信じる」ということは、「神を信じて生きる」ということです。「神を信じて生きる」というのは、「神様がいる、神様がおられる」と信じて生きることです。
  「神様はおられる」、この世を創られた神様がおられる。この世を治めておられる神様がおられる。この世を導き、やがて完成してくださる神様がおられる、と 信じて生きるのです。先ほどご一緒に読みました聖書の言葉も、こう言っています。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、 したがって、見えるものは現われているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」「この世界は神の言葉によって造られた」、神様が創ったのです。 そしてこの世界の中にあるすべてのもの、またこの世界に生きるすべてのものを神様は創られたのです。それは、私たち人間一人一人もです。私もあなたも、神 様の意志と力に基づいてこの世に命を受け、生きるものとされました。
 この神様がおられるのです。そしてこの神様は、創ったままで、後は放って構わないということではないのです。この神様は、この世界を守り支え導いて、ついには完成へと導かれるのです。「この神様はおられる」と信じて生きること、それが「キリスト教」です。

  「神がおられると信じて生きる」、その反対は何でしょう。反対を考えてみると、元のものがよくわかると思います。その反対は、「神はいないと信じて生き る」ことです。そうだとすると、どうなるでしょう。「すべては偶然」です。すべてのこと、すべての良いこと悪いことは「運不運で決まる」のです。ですか ら、「すべては不確か」なのです。
 「神はいない」、このように信じて生きるのと、「神様はおられる」と信じて生きること、それは全く対照的な二 つの生き方です。「二つに一つ」です。そのうちの、「神を信じて生きる」ということ、これが「キリスト教信仰」です。どうです、わかりやすいのではないで しょうか。

 先ほど、「神はいない」という生き方では、「すべては偶然、運不運、そして不確か」と申しました。これに対して、「神はおら れる」と信じるということは、「神様の意志と計画と道がある」と信じて生きるということです。それは、この世にわからないことは多いとは言え、「確実なも のがある」と知って生きるということです。それは、私たちの人生と生き方に筋が一本通り、安定するということです。「どうなるかわからない」というのでは なく、私たちのすべての場面、すべての出来事においても、「神様はいてくださる、共にいてくださる、そして私を支え、導き、助けてくださる」と信じること ができる、ということです。私たちにとって最大の関門、難関である「死」ということにおいても、「どうなるかわからない」というのではない、「わかってい る」のです。「死においても、神は私たちと共にあり、私たちを支え、導き、完成してくださる」のです。
 作家の三浦綾子さんは、この「神を信じて 生きる」ということに関して、こんな言葉を残しておられます。「真の科学者ほど、謙遜に神の意志を自然の中にみるというが、『神は天と地とを創造された』 という言葉は、まさしく真実であり、真理であろう。もし、この途方もない、広大な大宇宙の中で、人間が一番偉いものだとしたら、それは何と頼りのないこと であろう。『人間は、その指を一分とロウソクの上に置くことのできない弱い存在である』と言った人があるというが、物理的だけでなく精神的にもまた極めて 弱いのが人間である。ちょっとした悪口を言われて、眠られなかったり、カッとなって取り返しのつかない事態を引き起こしたりするのが、わたしたちお互いの 姿ではなかろうか。わたしたちは、真実に一人の人間を愛し通すことさえ困難な、不誠実な心しか持ち得ない。どころか、人を押しのけてでも、自分の地位を高 くしようとしたり、利得を計ったりする狭い了見を持っているのがわたしたち一般の実態である。こんな卑しく弱い人間が、この宇宙の中で、一番力ある者、一 番優れた者だとしたら、わたしはなんとも不安でならない気がする。しかし、『神は天と地とを創造された』のである。わたしは、まずこの一言をくり返しくり 返し、くど過ぎるまでに考え、味わい、踏まえることが、聖書に対する姿勢として、また人間の生きる姿勢として不可欠なことであると思う。」(三浦綾子『旧 約聖書入門』より)

 「キリスト教って何」、「それは神を信じていることです」、わかりました。でも疑問が、「神様にも色々あるんじゃない、どんな神様なの」?
  それを説明するが、初めについている「キリスト」という言葉です。この「キリスト」というのは、特定の一人の人を指しています。それは、「イエス・キリス ト」、二千年前に、今のパレスチナで生きられた「ナザレのイエス」という人、この人を、キリスト教は「キリスト」「世の救い主」と信じるのです。「イエス がキリスト」、「イエス・キリスト」、だから「キリスト教」「キリスト教」は、この「ナザレのイエス」、「イエス」という人を通して神を知り、信じるので す。イエスが表わされた神、それが私たちの神様なんだと信じるのです。イエスは言われました。「わたしを見た者は、父つまり神を見たのである。」イエスと いう方は、いわば神の代理、名代、神様の言葉や行動や生き方を、子自分が神に成り代わって私たちに見せてくださる方なのです。
 では、イエスがそ の全生涯を通して表した神とは、いったいどんな神様だったのでしょうか。それは、徹底的に私たちを愛する神です。無条件で、最後まで私たちを愛してくださ る神です。たとえ損をしても、大損をしても、それでも構わずに、なりふり構わずに、私たちを愛してくださる神です。
 それは、神の「代理」である イエスが、「十字架」にかかって死なれたことでわかります。十字架にはりつけられて死ぬということ、それはイエスにとって大損でした、何もいいことがな い、そんな死に方であったのです。しかし、その十字架の死は、「愛」のゆえでした。人々を愛した、人々を助けた、人々に徹底的に仕えて生きた、神の愛を表 し、神の愛をもって愛するために、そのように人を愛して生きた、その結果、その必然があの十字架の死であったのです。そんな「大損の死」、それをイエスは 避けなかった。なぜならば、神様がそんな「大損」を避けない方だからです。「大損」を避けず、どんな犠牲を払っても、無条件で、最後まで、徹底的に私たち を愛し、私たちと共にいようとされる方だからです。この神の心のゆえに、十字架で死んだイエスは復活されました。「いつまでもあなたと共にいるよ」という ことを表わすために、神はこの奇跡をなさったのです。

 私たちクリスチャンは、「神がおられる」と信じて生きています。しかも私たちは、一般的に「神がおられる」というのではなく、「私たちを愛して、常に共におられる神」を信じているのです。これがクリスチャンであり、キリスト教信仰なのです。
  「神を信じている者は、近視眼的に物事を見はしない。ああ、ばかをみた、損をしたと、そう簡単にわめきはしない、なぜなら、正しいことをしたという、その こと以上に、得なことはないのだし、神にあっては『すべてのこと相働きて益となる』ことを知っているからである。神を信じている者は、そう性急に結論を出 さない。わたしたちが事の結末だと思っていることが、実は事のはじまりであることあるのだ。」(三浦綾子、前掲書より)
 「神を信じて生きる」、 それは「確実なものがある」と知ることであり、筋が一本通って安定した生き方です。「この神がおられる」と信じることは、「いつも私と共にあり、私を愛し 導く方がおられる」と知り、安心と希望をもって生きることです。あなたも、この道について、もっと知ろうとされませんか。そしてできることなら、この道に 一歩を踏み出してみませんか。

(祈り)
神様、今日このところに、お一人一人を招き、導いてくださり、心から感謝いたします。どう か、あなたの存在と、あなたの愛、そしてあなたの真実と導きとを、お一人一人が知り、信じて生きることができますように、あなたが助け、お導きください。 そして、あなたによって導かれるその人生が、祝福に満ちたものとなり、実り豊かなものとして完成にまで至りますように、心からお願いいたします。
まことの道、真理そして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る