食べて、語る伝道              エゼキエル書第2章3節〜第3章3節

 
 今日の所には、預言者エゼキエルに与えられた神からの使命が語られています。それは、神の言葉を神から受け、預かって語り、伝えるということです。それは、私たちの伝道の使命、働きと共通性を持っています。
  エゼキエルは、バビロン捕囚という、自分の民の試練と危機の中で、神から呼ばれ、立てられたのです。「わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに 『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」その時最初に神様から彼が告げられ、示されたことは、この働きの困難さでした。
 いったい、何が、どのように困難であったのでしょうか。
  まず何よりも、遣わされて語る相手、対象となる人々が問題であったということです。「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむい た反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしあなたを彼らつかわす。」それは、 大変だろうなと思います。「でも、私たちの伝道は、そこまでのことはない」と思われるでしょうか。私はそうは思いません。この世的、社会的に「いい人」で あっても、神様の前には「反逆の民」であるということが十分にあり得るのです。「私は、真面目に、善良に社会生活、家庭生活を送っています。しかし、神様 などには頼りません。私は自分の力で精一杯生きていきます。」それは、聖書から言うならば、「神への反逆」ではないでしょうか。そして、そういう人々のと ころへ遣わされて行き、神の言葉を伝え、語るということは、実に大変なことではありませんか。
 預言者の困難、それは次に、その相手からの反応 が、反対や拒絶であるということです。神様はエゼキエルに、「彼らが聞いても、拒んでも、語れ」と言っておられますが、この言葉の重点は後の方の「拒んで も」にあります。「確率は半々だ」というのではなく、ほぼ間違いなく「拒む」のです。それは、ある意味で当然です。なにしろ、相手は「反逆の民」なのです から。反対されて、拒絶されて、なおも語り行動するというのは、ものすごく大変なことです、しんどいこと、ストレスのかかることです。それをやれ、と言わ れるのです。これも、私たちには考えさせられます。私たちは「伝道」というと、「あまり人から悪く言われないように」、「拒む人、嫌な人には別に語らなく てもいい、喜んで受け入れてくれる人に専ら語ればよい」と思う傾向があります。でも聖書は、そんなにすっきりと割り切っているわけではないように思えま す。「時には拒まれても語られなければならないことがあり、時がある」ということではないでしょうか。
 さらに、預言者の困難、それは、そういう 相手に語ったがために、語る人は傷を受け、苦しみを負わなければならないということです。神は言っておられます。「人の子よ、彼らを恐れてはならない。た といあざみといばらがあなたと一緒にあっても、また、あなたがさそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてならない。彼らの顔をはばかってはならない。」ま さに「あざみといばらがと共にあり、さそりの中に住む」ような苦しみを受けることが予想されているのです。

 いったい、こんな働きに何かの意味があるのでしょうか。
 神様は、「あるのだ」と言われます。なぜならば、この働きが目指す目標があり、その目的はこうだからです。「あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。彼らは聞いても、拒んでも、彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。」
  その相手の人々が聞いても拒んでも、彼らが「彼らの中に預言者がいたこと」を知るならば、その目的は達せられるのです。たといどんな反応であっても、少な くともこのことは実現されるだろう、だから十分意味があるのだというのです。「彼らの中に預言者がイたことを知るだろう」。「預言者」がいるなら、彼を遣 わした神もまたおられるのです。人々が聞いても拒んでも、ご自身は御言葉を語ることを拒まれない神、どんなにみんなが絶望や逃避により真理から逃げても、 ご自身は正しくすべてを見通される神、結果や反応に左右されずに、本当に人が生きることを願って御言葉を決して譲られない神、この神がおられる、このこと が語られ、伝えられればそれでいいのです。この神がおられるからこそ、預言者はこの神を知らされ、信じざるを得ないからこそ、このような言葉を語ることが できるのです。

 さあ、この任命と促しに導かれて、これからエゼキエルは預言者として出て行こうとするのですが、その前に、神様は彼に一つの具体的な助けと導きを行ってくださいます。どのように、何を手がかり、助けとして、出て行けばよいのでしょうか。
  「『人の子よ、わたしがあなたに語るところを聞きなさい。反逆の家のようにそむいてはならない。あなたの口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい』。 この時わたしが見ると、見よ、わたしの方に伸べた手があった。また見よ、手の中に巻物があった。彼がわたしの前にこれを開くと、その表にも裏にも文字が書 いてあった。その書かれていることは悲しみと、嘆きと、災の言葉であった。彼はわたしに言われた『人の子よ、あなたに与えられたものを食べなさい。この巻 物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい』。」
 「まず、あなたがこのわたしの言葉を食べなさい」と、神は言われます。「人の子よ、わたしが あなたに与えるこの巻物を食べ、これであなたの腹を満たしなさい。」「人がどうこう言う前に、あなたが、あなた自身が、わたしの言葉を聴き、わたしの言葉 によって生かされなさい」と、神は言われるのです。「食べる」ことは「生きる」ことです。食べたものは、それを食べた人の血となり肉となって、その人を支 え、養い、形作るのです。、預言者は人々を神に従わせる前に、自分が神に従うのです。彼は自分が「従い、その言葉を食べるほどに従う」ということにおい て、自らのメッセージの内容を自分自身が受けるのです。何よりまず語る人自身が、その言葉を受け入れて、その言葉に表される神の心を全身全霊でもって受け 入れ、受け止めるとき、その語る人自身が支えられ、養われ、形作られるのです。これこそが、語る人が語るための力となるのです。
 そしてついに、 エゼキエルはこの巻物、この神の言葉を食べました。「そこで、わたしが口を開くと、彼はわたしにその巻物を食べさせた。わたしがそれを食べると、それはわ たしの口に甘いこと蜜のようであった。」あの神の「厳しい」と見える言葉が、ただ「厳しく、つらい」のではありませんでした。なんとそれは、「甘いこと蜜 のようであった』のです。それは、はたしてどのような言葉であったのでしょうか。それは、たとえどんなに厳しい調子で語られても、「神が人を愛し、神の言 葉が人を生かす」という内容であったからです。逆に言えば、「真理と喜びのメッセージは、嘘つきの心に苦痛を呼び起こす。同様に神の御言葉は、神に逆らう 者にとっては嘆かわしいものとなる」(P.C.クレイギ)からこそ、それは人々のの拒絶を引き起こすのではないでしょうか。

 北九州市で長らくホームレス支援活動に取り組んで来られた谷本仰牧師が、この「食べる」ということについて、大変興味深いことを証しして語っておられます。
  「ホームレスの人たちは食料を確保する時に、それを『エサ取り』と表現することが多いです。―――私はこの言葉を本当に切ない言葉だと思って聞きます。し かしその言葉を否定してはいけないのだろうとも思います。なぜならば、『エサ取り』という言葉の中に、自分は本来の人間の姿でないのだという思いが隠され ているからです。―――『人はパンのみにて生きるものにあらず』と聖書は語ります。やはりエサではだめなのです。人間が食べるのはエサではだめなのです。 ―――実は『人はパンのみに生きるものにあらず』というイエスさまの言葉は、申命記8章で、荒野を旅するユダヤの民に神さまがマナという不思議な食べ物を 与えた記事に由来しています。人が神さまの言葉で生きるものだということを分からせるために、神はマナを与えたと書いているのです。―――神さまが人間に 食物を与えるのは、人間が食べてさえすれば生きるではないということを知らせるためだと言うのです。マナというもの語源は、『なんじゃこりゃ』という意味 だそうです。―――不思議な食べ物。理屈に合わない食べ物のことをマナだと言ったわけです。実は、どんな人間でも神さまから愛され生かされているというこ の福音こそが、この世の中の常識に反する『なんじゃこりゃ』とだという言葉だと思っています。人間が『なんじゃこりゃ』というような福音を神さまが宣言す るということを知らせるために、神さまは苦しみ飢えている者たちにマナを与えた。―――教会がホームレスの人たちや食べることに困っている人に食を提供す るとすれば、それは食いつなげればいいよということを伝えるためにやるのではないということです。そうではなくて、あなたは神さまから愛されたかけがえの ない命なのだということを証し伝えるために弁当を配るのです。―――信じること、祈ることは食べることと一つです。ですから教会は何をする所ですかと聞か れて、食べるところですと答えてもいいのではないですか。教会は何をする所ですか。食べるところです。希望の言葉を食べる所です。そして同時に、本当にご 飯を皆で分かち合って、自分やお互いの体を大事にし合う所です。―――『では、お腹すいた時に教会に行ってもいいですか』とその人が言われたら、しめたも のですよ。『その通りです。来て下さい。一緒にご飯を食べましょう』と。立派な伝道です。教会は飯を食べてなんぼだと私は思っています。」(谷本仰「聖書 研究:聖書と情況の対話を聴く」、日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会編『「ホームレス」と教会』所収)

 「神の言葉を食べるほ どに受け入れ、それによって生かされ、生きる」、それこそ、私たちの救い主イエス・キリストの歩みでした。「わたしの食物というのは、わたしをつかわされ たかたのみこころを行い、なし遂げることである。」(ヨハネ4・34)イエスこそ、ご自分の体そのもの、人生そのものをもって、神の御心を行い、神の言葉 を表し、私たちにそれを告げる方なのです。十字架に至るまで神に従い、人を愛し、ついにその十字架に釘付けられたそのお体こそ、私たちに今もなおこう語っ てやまないのです。「神は、あなたを愛し、生かす」。
 そして今、復活された方である主イエスは、私たちの前に立って言われます。「取って食べよ、これはわたしの体である。」「皆この杯から飲め。これは罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」
 「取って食べよ」、これこそ私たちの「腹に甘いこと蜜のよう」に命をもたらすものです。「取って食べよ」、そしてこれこそ私たちが出て行く力、語り伝える力、拒絶と困難、苦しみと試練においても神を信じ通させ、私たちを支え養う力となるのです。

(祈り)
 天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
 あなたはイスラエルの民にマナを下し、あなたがすべての者を愛し生かしておられることを伝えられました。また何より、御子イエスによってこそ、あなたはすべての人を本当に極みまで愛しておられることを告げられました。
  今預言者エゼキエルは、自分の前にあなたの言葉の巻物を示され、「それを食べて、語れ」と命じられました。私たち信仰者一人一人とその教会もまた、「取っ て食べよ」と促され命じられ招かれております。どうか、この言葉を受け、「食べて」、出て行って語る者たちとしてください。
まことの道、真理そして命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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