間に立つ伝道              列王記下第5章9〜14節

 
 「共に語り、伝える教会」ということでお話をしています。今日も脇役たちが主人公です。
 シリヤの将軍ナアマンは、重い皮膚病に冒されていました。ところが、イスラエルから奴隷として連れて来られた一人の少女の一言がきっかけで、ナアマンはイスラエルの預言者によるいやしを求めて、はるばるイスラエルに行くことになりました。
 シリヤ王の紹介状を携えて、まずイスラエルの王様のところに行きましたが、これを読んでイスラエル王は逆上してしまいます。このことを聞いた預言者エリシャは、王に人を遣わしてナアマンを呼びます。

  こうして、ついにナアマンは、預言者エリシャの家の前に立ったのでした。案内を乞うと、エリシャ本人は出て来ないで、やはり使いの者が出て来て、エリシャ からの伝言を伝えます。「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう。」「ヨルダン」と は、「ヨルダン川」というイスラエルにある川の名前です。
 ところが、ナアマンはこれを聞いて、かんかんに怒りました。「しかしナアマンは怒って 去り、そして言った、『わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、病をいやすのだと思っ た。ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか。」

 ナアマンがなぜ怒ったのかを、考えてみたいと思います。
  まずは、何よりエリシャが直接出て来なかったことでしょう。「何を失礼な」という感じでしょうか。一般的に、自分が直接出て来ないで代理の人を送って何か をするということは、「軽く扱われた」という印象を与えるでしょう。しかも「自分はシリヤの大将軍だ。それを、預言者ごときが何だ、えらそうに」というわ けなのでしょう。
 次に、ナアマンがエリシャに対して期待してことと違う、予想、イメージに反するということがあったのです。「わたしは、彼が きっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、病をいやすのだと思った。」人は自分のイメージや期待に沿うこ とを求めるものです。また宗教や宗教いやしといったことには、「おごそかさ」「華やかさ」、またいい意味での「仰々しさ」や「権威」を求めるものです。 「ありがたさ」と言い換えてもいいでしょう。けれども、エリシャの言動や指示は、そういったナアマンの期待を全くというほど裏切るものでした。
  さらには、エリシャが「しなさい」と言ったことが、ナアマンにしてみれば、実に「つまらない」、「なーんだ」と思うようなことであったのです。「ヨルダン へ行って、七たび身を洗いなさい。」「川へ行って、身を洗う? そんなことなら、シリアでだって十分できたよ。それにイスラエルのヨルダンなんかより、わ がシリアのアパナやパルパルといった川の方がはるかに大きくて立派ではないか。どうしてヨルダンなんかで、しかも七回も洗わねばならないのか、ばかばかし い」というわけだったのでしょう。
 こうしてナアマンは、怒り心頭に発して、踵を返してシリヤに帰って行こうとしました。

 さて ここで、今日の主人公たちが登場します。それは、ナアマンのしもべたちです。「しもべ」という、社会的に一段も二段も低い立場に置かれており、名前も伝 わってはおりません。まさに「脇役」としか言いようのない人たちです。しかし、聖書の神は、しばしば脇役を「主役」の立場に抜擢して置き、用いられます。
 ナアマンが去って行こうとしたとき、「その時、しもべたちは彼に近よって言った、『わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに「身を洗って清くなれ」と言っただけではありませんか』。」
  それは、「とりなして語る」ことでした。「間に立って語る」ことでした。つまずきや誤解が生じ、物別れとなりそうなとき、その両者の間に立って、語ってあ げること、それが「とりなし」です。神の言葉を語り、伝える「伝道」には、そのようにとりなして、「間に立って語る人」が、ぜひとも必要なのです。

 「しもべたち」、何をナアマンに向かって語ったのでしょうか。
  かれらは言いました、「ご主人さま、もしエリシャがもっと大きなことをあなたに指示したとしたら、あなたはなさらなかったでしょうか、いや、きっとその通 りになさったはずです。しかし、今回彼が命じたのは、もっと簡単で、単純なことだったではありませんか。大きなことでさえやろうとしたのに、小さなことを やらずに帰るなんて惜しいではありませんか。やってごらんになったら、いかがですか。」きっと、そう言いたかったのではありませんか。
 まず、こ のように言ってくれる人が現れることで、その人が言葉をかけてくれるだけで、何より「心が和らぐ」のではないでしょうか。その人が自分に語ってくれるの は、自分のことを思いやってくれていることの現われです。また、他の人が語ってくれることによって、自分は孤独のまま突っ走るのではありません。そこに、 共に考え、共に語り合う人が現れてくれることによって、自分はもう一度自らの考えや行動を、やや距離をおいて冷静に見、もう一度考え直すチャンスを与えて もらえるのです。だからこそ、「心が和らぐ」のです。
 また、他の人が間に立って語ってくれることは、違う見方を示し、考えを広げ、変える効果が あります。「シリヤの川もあるのに、どうしてヨルダンなんか」と思っていたのが、「大きいことだったしただろうに、小さいことなら、やってみてもいいので はないか」、「預言者が命じたのは、小さいことなんだから、やってみても別に損もないのではないか」と思い直す、考え直すことができたのです。
  また、「間に立ち、とりなす」ことは、さらに少し積極的に「一度やってみたらどうですか」と、暗に勧めることでもあります。「しもべ」ですから、とても 「命じる」立場にはありませんが、逆に「あなたはそうなさることができるのではないでしょうか」と柔らかに勧めることが可能となるのです。

 私たちにとって、「とりなし」「とりなし手」と言えば、なんと言ってもイエス・キリストです。最大、究極のとりなし手であり、本当に私たちのために間に立ってとりなして下さった方であり、また私たちが「間にたって、とりなして語る」ための最高の模範であられるのです。
  主イエスが、私たちのために現われ、私たちと神との間に立って、とりなし生き、そして死んでくださったことによって、私たちはもはや孤独に罪のうちを生き る者ではなくなったのです。私たちに関心を持ち、親身に関わり、同じところに立ち、共に生きてくださる方がおられるようになったのです。そしてイエスは、 私たちに全く違う世界を開き、違う価値観を示してくださいました。それは、罪人が無条件で赦され愛されて生きる神の国、どんな人も共に喜んで希望を持って 生きることのできる神の国の考えと道です。さらに、イエスはあえて私たちのための「しもべ」となって、私たちに「この新しい道に歩み出してみませんか」と 励ましと勧めを与えてくださったのです。

 キリスト者は、このイエス・キリストにとりなしていただたことによって生かされ、自らも「間に 立つ、とりなし手」として生き、語り、行動するようにと招かれ、召されているのです。たとえば、バルナバという人がまさにそうでした。「サウロはエルサレ ムに帰って、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。ところが、バルナバは彼の世話をして使徒たちのと ころへ連れて行き、途中で主が彼に現われて語りかけたことや、彼がダマスコでイエスの名で大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた。」(使徒9・ 26〜27)バルナバは、パウロのために「間に立って、とりなし」語ってあげました。これ以来、パウロは教会に加わって働けるようになったのです。

  そのようにして、主イエスと共に「とりなし」に生きようとする私たちのために、今も神の霊聖霊が、私たちのうちで呻きつつ、とりなしていてくださいます。 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切な るうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」(ローマ8・26)この「とりなし」をいただいて、いただきながら、私たちもまた 「間に立ち、とりなして語る」者たちとして歩み、仕えることがゆるされるのです。

 あのように「しもべたち」に語ってもらったナアマン は、いやしと救いに向けて引き戻されます。彼は、怒りで満たされ固まってしまっていた考えから自由にされ、考えを変えられたのです。「そこでナアマンは 下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。」
 「間に立つ伝道」、それは、イエス・キリストのとりなし、私たちのための御霊の呻きから始まって行くのです。

(祈り)
天におられる私たち全て者の神よ、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
 私たちのためにいつも、天においては主イエスがおられ、私たちのうちと間にあっては聖霊なる神が、間に立ち、呻き、とりなしていてくださいます。そのとりなしによってこそ、私たちは愛され、赦され、生かされることができます。
  このとりなしによって生かされているからこそ、私たちもまた、あのナアマンのしもべたちのように、一人の「しもべ」として他の人々のために「間に立ち、と りなして語る」ことがゆるされます。どうか私たち一人一人また教会を、「間に立って語る、とりなし手」として、あなたが送り出し、それぞれの場に置き、思 いを越えて豊かにお用いください。
まことの道、真理そして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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