ところが、どっこい、勝っている              ヨハネによる福音書第16章28〜33節

 
  私たちは、どこかで、半ば無意識的に、「明るく、ハッピーな教会」を願い、目指しているかもしれませんね。アメリカにこんな教会があるそうです。「『わた しの通っている教会は明るいハッピーな教会ですので・・・・―――教会で起きる事は、みんなハッピーで、ビートにのっています。礼拝の初めに牧師先生はス テージにとびあがります。笑顔を作り、にこにこ笑いながら。―――めいっぱい、何の疑いもためらいもなく、明るく幸せな行動をなさいます。その口癖は、 「最高!」です。「今のは、最高の歌でしたね」「プレイズバンドは、実にサイコーでした」。・・・・礼拝音楽は全部ビートに乗っていて、にぎやかです。 ―――』」(ウィリモン『十字架上の七つの言葉と出会う』より)これを聞いたある牧師の方は、こう聞き返したそうです。「今日、この中には癌で苦しんでい る人はいないのですか。結婚生活が破れて悩んでいる人はいないのですか」。(同上)
 しかし、主イエスははっきりと断言されます。「あなたがたは、この世では悩みがある。」「悩みがある」、それがあなたがたの現実だ。それをしっかり見据えて、真正面から受けとめて、そして「この世」で生きて行きなさい、と言われるのです。

  皆さんは、どんな悩みがあるでしょうか。それぞれにおありでしょう。その「この世の悩み」、それが極まったところ、それが限界・どん底にまで達して、その 本質的・究極的・根本的な姿をあらわにしたところ、それはイエスの十字架の経験でした。ここまで主イエスが弟子たちに語ってきたことは、「世とその人々は あなたがたを憎み、迫害し、苦しめるのだ。そのような中で、わたしは十字架の辱めと苦しみに遭い、十字架で殺されて死に、あなたがたから去って行くのだ」 ということでした。
 それは、同時に弟子たちの弱さ、不信仰、そして罪が隠れもなく明らかになる時です。「弟子たちの目には、そして総じてわれわ れ人間の目には、死は―――イエスのみわざにひどい打撃を与えたのであり、みわざを中止に追い込んだものとしか見えないのである!―――ここに突然始まる 痛みが示しているのは、不信仰の力である。死が勝利しており、神が敗北していると見る不信仰の力が働いているのである。―――神が地上において―――戦い に敗れておられ、これからも何度でも敗北されるであろうと思い込む不信仰である。ここでは、最後の言葉を握っているのは、死であり、荒々しい暴力であり ―――つまり、この世は、〈神ならぬもの〉に属しているのだという不信仰である。」(H.J.イーヴァント)
 だから、イエスはこう予告されま す。「見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでに来ている。」そんなばかな、どうし てそんなことができましょうか、愛をもって私たちを導いてくださったイエス様を、どうして見捨てて、一人ぼっちにし、見殺しにするなどということが!?  でも、来るべき現実は、あなたがたの現実はそうなのだ、主は言われるのです。かれらの最大の「悩み」は、「この世において、この社会において、そんな自分 なんだ、そんな自分たちでしかないのだ」と思い知らされることです。ある方が戦争中、恐るべき思想弾圧の中で知った経験をこう言っておられるそうです。 「人間は追い詰められたとき、どんな卑怯なことでも平気でするか」。イエス様に「死ぬまでついて行きます」と言いながら、その数時間後には「そんな人は知 らない」と三度も念を押して、裏切り見捨てて行く。「そんな自分でしかないのだ」と知ること、それが「この世」がかれらに、また私たちにもたらす「悩み」 であり、苦しみなのです。

 しかし今イエス・キリストは、驚くべき言葉を語り始められます。「これらのことをあなたがたに話したのは、わ たしにあって平安を得るためである。」えっ、「これらのこと」、「あなたがたはこの世では悩みがある」とイエス様から聞くことが、いったいどうして「平安 を得る」ことにつながるのでしょうか。
 わたしは思い、信じ、また確信します。それは、ひとえに、ただひとえに、ここに「しかし、わたしは」とい う言葉があるからです。今までも、この福音書でイエス様は「このわたしが、わたしこそが」と繰り返し語って来られました。この世の悪、また人間の罪は、そ して信じる者の罪もまた、それほど深く、ひどい。それは、罪なきイエス様を十字架につけて苦しめ殺し、そのイエス様を独りぼっちにし、愛する人を見捨てて 逃げ、見殺しにするほどにひどい。「しかし」です。イエス・キリストは、この「しかし」という大いなる言葉を語られるのです。「しかし」と語る、「しか し」ただ一人そう語ることのできる大いなる「わたし」、イエス様がおられる。このイエス様が「しかし」と語って、そんなにもひどい私たちの罪とこの世の悪 に対して反抗とたたかいを開始される。

 「あなたがたには悩みがある」、「苦難がある」、人の罪、この世の悪は、それほどひどい。しかし イエスは語られます。「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」これは、驚くべき宣言です。弟子たちがなぜ、イ エス様を捨て去るのでしょうか。「そこに神様はいない」と思うからです。「こんなみじめなところに、こんなに理不尽な目に遭わなければならないところに、 神様はいない」と、本音のところで思ってしまっているからです。人々に捨てられ、何の抵抗もできずに、十字架に殺されて行く、そこに何の神の御心があるだ ろうか、何の神の力と輝きがあるだろうか。しかし主イエスは断言なさるのです。「わたしはひとりではない。父が、神がわたしと共にいてくださる。」この言 葉が響き、言葉が聞かれ始めるところ、そのときあの私たちの頑固な罪と不信とに大きな楔が打ち込まれ、揺るぎ始めるのです。
 「あなたがには悩み がある」、しかし主イエスはさらに言われます。「しかし、わたしはすでに世に勝っている。」父なる神が共におられるイエスは、世に勝つのです。「ところ が、どっこい、勝っている」。あんなにひどい十字架を通して死の中に沈められたイエス様は、三日目の朝に神によって起こされ、死と罪に勝利して復活される のです。今イエス様は、その勝利を先取りして「すでに勝っている」と言われます。これは現在完了です。「勝つかもしれない」ではありません。「勝つように 今努力中」でもありません。「もう今、すでに勝っている」のです。そしてまた、弟子たちが、私たちが自分の能力と心がけと努力とによって勝つのでもありま せん。それは「もうだめだ」と宣告され、思い知らされています。「そうではない、わたしだ」と主は言われます。主役交代が起こらねばならないし、起こるの です。「この世で、あなたがたには悩みがある。しかし、わたしはすでに世に勝っている。」

 「わたしはすでに世に勝っている」、そのイエ ス・キリストの勝利とは、いったいどんなものなのでしょうか。ここで、私たちは決して誤解や思い違いをしてはなりません。ある方は、「私たちが日頃見る映 画やドラマに共通している筋書きと思想は、『平和を取り戻すのはいつも正当な暴力だけだ』という、嘘の神話なのだ」と言われます。「映画にはよく『どこか らあんな人間が出てきたのだろう』と思うほどの絶対悪が登場します。―――西部劇ではその悪党が平和な村の一つを乗っ取ったまま皇帝のように君臨し、悪行 という悪行に片っ端から手を染めるかと思えば、香港のカンフー映画では悪党が主人公の父親あるいは師匠を殺し武術界を掌握します。戦争映画では無辜の良民 を虐殺する敵軍がそのような悪党の役割を引き受け、空想科学映画では情報を統制して市民の目と耳を塞ぎ社会を支配するビッグ・ブラザーがその位置を占めて います。―――善良な主人公が生き残る方法は、どこまでも暴力によってその絶対悪を制御する道だけです。―――映画が中盤に至るまでやられ放題だった主人 公は、何かのきっかけで驚くべき力を得て絶対悪を打ち破りはじめます。~――西部劇では忽然と現れたガンマンが装填してもいないのに一度に三十から四十発 が発射される非現実的な拳銃で敵を一掃してしまい、カンフー映画では父の仇を返そうとする少年が偶然に武術界の達人から学んだ武術で悪の勢力を壊滅させま す。」(キム・ドゥシク『「平和主義」とは何か』より)
 イエス・キリストがここで、すでにお取りになった勝利とは、決してそのようなものではあ りません。パウロは、このイエスの力と出会い、触れ合った瞬間を、このように言い表しています。「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに十分 である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。」(Uコリント12・9)イエス・キリストの勝利とは、弱さの中に神の比類のない力が、苦しみの中 に神のどこまでも共に生きようとする愛が、迫害と圧迫の中にそれらを担い引き受けてそれを克服しひっくり返す神の栄光が現われ、輝き出るという勝利なので す。それは、十字架を引き受け、十字架を通してこその勝利なのです。そしてこれこそがまことに勝利であり、この世のすべての力、悪と罪と死の力にも打ち勝 つ勝利なのです。

 このことを、青野太潮先生が、元マラソンランナー・解説者の増田明美さんを例に取って伝えておられます。「増田さん自 身、かつて何度日本記録を更新するなど輝かしい成績を残した、トラック出身のすばらしいマラソン・ランナーでありましたが、二回出場したオリンピックで は、あまり活躍することはできませんでした。結果として彼女の最後のマラソン・レースとなった大阪マラソンで、こんなことがあった―――先頭からは遥かに 引き離されて走っていた終盤、ひとりの男の大きなどす黒い声が突然彼女に向かって浴びせかけられたというのです。『ますだー! お前の時代はもう終わった んやー。』この粗野で冷酷な罵声は彼女の胸に突き刺さりました。そして、あまりのショックで彼女はほとんど走れなくなりかけたそうです。しかし最後の死力 を振り絞って彼女は、涙を流しながら走り続け、そしてゴールしました。そのレースの記録は、彼女のマラソン・キャリアのなかで最低のタイムだったそうで す。しかし彼女は、この冷たい仕打ちに打ち勝って最後まで走り抜いたこのワースト記録のマラソンこそが、彼女の生涯の中でのベストなマラソンだった、と振 り返って言うのです。」(青野太潮『「十字架の神学」をめぐって』より)「『見栄とプライドからそれまで越えることのできなかったハードル』を越えて完走 できた喜びからゴール後の増田は思わず涙を流した―――『(現役時代のレースの中で)いちばん楽しかった、走ってて』と述べている」。 (wikipedia「増田明美」より)「力は弱さにおいて完全になるのだからである。」(Uコリント12・9、青野太潮訳)「わたしはすでに世に勝って いる」のです。
 だから、イエス・キリストを信じる者たちも、このような勝利を受けるのだと、ルターは語るのです。「信仰者が立派な王であるの は、金の冠を頭に載せているからでもなく、金の笏を手に持っているからでもなく、絹やビロードや金の刺繍の衣装や、紫の衣を着て悠々と歩くからでもない。 彼らが本当にすばらしいのは、死や悪夢、地獄やあらゆる不幸の上に立つ主人だからである。彼らにとっては、死は命であり、悪魔はわら人形であり、罪は義、 不幸は幸運、貧は富である。それは、彼らがあらゆるものの主人であると同時に、彼らは神のものであって、神を友として、いや、愛する父として持っているか らであり―――それゆえ、どんな罪も死も悪魔も、飢えも渇きも、寒さも暑さも、剣もあるゆる不幸も、彼らを傷つけることはない。いや、彼らは、はるかにそ れを乗り越え、すべてにおいてその逆を見いだしている。」(青野、前掲書より引用)
 「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出し なさい。わたしはすでに世に勝っている。」この主イエスの「しかし、わたしは」という言葉が響くとき、それをこんな私たちに語ってくださるとき、ここでは じめて、この私たちもこの世の悪と自らの罪に対して、恐れず勇気をもって、反抗とたたかいを開始することができます。私たちのたたかいとは、世と自らの罪 に打ちひしがれるとき、絶えず「しかし、わたしは」と語ってくださる主イエスの御言葉を聞き、聞こうとし、聞き続けることです。そしてわたしたちのたたか いとは、その御言葉に支えられ、力づけられて、「しかし、イエス様は」とお互いの間で語り合うことです。失敗しても、挫折しても、いつも恵みによって悔い 改め、立ち上がらされて、また「しかし、イエス様は」とこの世において語って行くことです。「わたしはすでに世に勝っている」のです!

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって世と私たちを極みまで愛された神よ。
  主イエスがすでにお取りになった勝利を、心より感謝いたします。また、その御言葉が、この私たちにも語り告げられ、約束されていることを感謝いたします。 どうか、この御言葉と共にこの世に出て行き、それによって支えられ導かれて、それを語り告げ、互いに、また共に分かち合う信仰者一人一人また教会としてく ださい。
まことの道、真理、命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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