ただイエスの平安によって              ヨハネによる福音書第14章26〜31節

 
  イエス・キリストは、あの時弟子たちに向かって、そして今私たちに向かって平安を語り、約束なさいます。「わたしは平安をあなたがたに与える。わたしの平 安をあなたがたに残して行く。」「平安」が必要な時というのは、イエスが他方でおっしゃっているように、「心を騒がせている」時、そして心が「おじける」 時です。「あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」
 なぜ、「心騒ぎ、おじける」のでしょうか。「事が起こる」からです。「今わたしはそ のことが起こらない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。」そしてそれは、もっと具体的には「この世の君が来 る」からです。「わたしはもはや、あなたがたに多くを語るまい。この世の君が来るからである。」それはまた「この世を仕切る者」と訳されています。
  「事が起こり、この世の君が来る」時、それはイエスが逮捕される時です。イエスが捕らえられて圧迫され、冤罪をかぶせられ陥れられて苦しみ、いじめと拷問 を受け、屈辱を味わわされ、呪いの言葉を唾きと共に浴びせられて、ついには最もむごたらしい十字架につけられ殺されて、「神に呪われた者」「国家反逆者」 としての最低の死を遂げることです。
 そんな時に、いったいどうして、「心騒ぎ、おじける」ことをしないでおられましょうか。弟子たちは、必ず 「心騒ぎ、おじけ」て、それだけではなく、愛する師であったイエスを見捨てて、逃げ去ってしまうに違いありません。それは、「この世の与える平安」などと いうものが、そういうものに寄りかかって得られていた平安が、跡形もなく吹っ飛んでしまう時です。

 しかし、そんな弟子たち、またこの私 たちにも向かって、主イエスは今平安を語り、約束なさいます。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。」それは、 「わたしの平安」、「イエスの平安」です。主イエスだけが持っておられ、イエスだけが与えることのできる平安、しかもこの世のものとは全く違い、事が起 こっても、この世の君が来ても、決して揺るがず、弱らず、消えず、残り続け、現われ続け、力を振るい続ける平安、それをイエスは今私たちに残し、与えよう と堅く約束してくださるのです。
 そんな「イエスの平安」、それはいったいどういうものなのでしょうか。ある方が、この箇所をこんな風に訳してい ます。「これこそは 神さまの尊い息の吹く風だ。神さまの息の吹く風は お前たちにすべてを教え 俺が語って聞かせたことを すっかり思い出させてくださ る。 神さまの お取り仕切りに安らぐ心を お前たちに残して行こう。」(山浦玄嗣訳)
 「イエスの平安」とは、「神さまのお取り仕切りに安らぐ 心」です。それは、主イエスが初めから終わりまで語り続けたこと、「神の国は近づいた」、「神さまのお取り仕切り、神のご支配と導きが今ここから始まり、 進んで行き、やがて完成する」ということです。「待ちに待っていた時が来ているぞ。神さまのお取り仕切りは今まさにここにある。さあ、心をスッパリ切り換 えて、これからはずっと神さまからのこのすてきな便りに身も心もゆだねて行こうではないか! 」(山浦玄嗣『イエスの言葉』より)また「神さまは、このお仕事、このお働きを、決してやめられない、決して捨てられない、決してあきらめられない、どん な妨げ、どんな罪、どんな悪にも立ち向かって、これを引き受け、これを克服し、ついに完成にまで至られる」ということです。イエスがこれまでなさり、これ から進んで行こうとされる道は、「わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行なう」ことなのだ、というこ とです。だから、「そうだよね、ああ、そうだよね、だから大丈夫だよね、心配ないよね」と心から納得し、イエス様・神様にすべてをお委ねし、心の底・腹の 底から安心して、私たちのできるすべてのあらゆることを、出来る限り力一杯行っていけばよいのだと思えることです。それが「イエスの平安」であり、「神さ まお取り仕切りに安らぐ心」、「神の国の平安」なのです。
 もうまもなく「事は起こる」でしょう。イエスは捕らえられ、無実の罪で苦しめられ、 「呪われた者」として辱めを受けて、十字架で殺され、死んで行かれるでしょう。でもそれは、この世の罪と悪をすべて、イエスが引き受け、担い、克服し、そ れに勝利されるということなのです。そして、死んで三日の後にイエスは、神の力によって起こされ、引き上げられて、弟子たちの前に、そして私たちの前に 帰って来られます。それは、まさにこの「平安」をもたらすためでした。復活のイエスの第一声は、「やすかれ」、「あなたがたに平安があるように」だったの です。

 「イエスの平安」とは、神による「終わりの約束」を与えられているがゆえの平安、そしてそこから来る希望を与えられ、それによって支えられ、導かれている平安です。
  「キリスト者の信仰は終末論的な信仰です。いつでも将来に向かって身を乗り出し、つま先立ちになって前方を眺め、私たちの間で神がいったい何を生み出そう としておられるのかを見たいとしきりに願うのです。―――終末論的に生きるとは、神が今支配しておられること、そして私たちはその支配を待たなくてよいこ とを信じて生きることです。洗礼によって神の支配のもとに置かれたことによって、私たちには希望が与えられ、神の支配が確かなものであること、神の支配は やがてすべての人びとにももたらされるようになることを確信して生きていくことができます。希望(そして平安も:加藤)を抱きながら生きる人間であるとい うことこそ、私たちが心冷えたこの世界から救い出されていることを指し示しています。―――私たちキリスト者には、不正がまかり通る荒れ果てたこの世界の ただ中で、礼拝という名の祝宴を開く時が与えられているのです。毎週日曜日に、あらゆる拘束から解き放たれ、祝の時を持つことができる恵みを受けることこ そ、大いなる信仰の行為なのです。」(ウィリモン/ハワーワス『主の祈り』より)

 私が大きく影響を受け、またある意味で大変尊敬もしているカール・バルトという人のことを紹介させてください。「二十世紀最大の神学者」と言われている人です。
  スイス生まれのバルトがドイツで神学者として歩み始めた頃、ヒトラー率いるナチス政権が始まりました。バルトは、初期の頃からこの政権の危険性、しかもイ エス・キリストの福音に敵対するその性質に気づき、問題点を指摘し、抵抗を呼びかけ、自分自身もその政策や命令に反対しました。特に彼に迫ってきたのは、 大学の教授であったバルトに課せられた、国家に対するしかも総統ヒトラー個人に対する無条件の服従を誓う宣誓でした。バルトは、そんな宣誓は、「キリスト 者、また神学者として、到底許されないし、できない」と、これを拒否しました。それがために、彼は教授の地位を剥奪され、故国スイスに追放されることに なったのです。
 バルトの、ドイツでの最後の講演が終わりました。「そのあと、ゲシュタポ(ナチス政権下の秘密警察のこと)の役人は、バルトをス イス国境まで連行して追放することになった。しかし、バルトは少しも急ごうとせず、近くの友人宅で、まず夕食をとってからにしたいと申し出た。友人の家で は、彼は夕食をとる代わりにピアノの前に座り、同伴のゲシュタポの役人の耳もとで大声で歌った。『人びとが私を暗黒の/牢獄の中に閉じ込めたところで/そ れは、まったく、無駄なことだ。なぜなら、私の思想は/格子も壁も/やすやすとブチ破ってしまうのだから。/胸に抱く思想は自由なのだ』と。」(宮田光雄 『キリスト教と笑い』より)バルトは、「イエスの平安」に守られていたのです。

 また戦後になって、このバルトが生涯を終え、神に召され る直前のことです。「バルトが亡くなったのは1968年12月のことだった。彼が希望をもって見守っていた《プラーハの春》の実験(社会主義国旧チェコス ロバキアの民主化運動)は、この年の八月に東欧五カ国軍の介入によって戦車のキャタピラの下に粉砕された。バルトの亡くなる前夜に、60年来の友人トゥル ナイゼンはバルトに電話をかけて、互いに心を暗くする世界情勢について話し合った。最後に、この談話を打ち切ったバルトは、トゥルナイゼンを勇気づけて、 こう言った。『さあ、意気消沈だけはしないでおこうよ。なぜなら治めていたもう方がおられるのだから。モスクワやワシントンや北京だけではない。全世界 を、まったく上から、天から、治めていたもう方がおられる。神が統治しておられるのだよ。だから心配はない、どんな暗い時にも心配はないよ! 希望をなく さないようにしようよ。すべての人にたいする希望を。神は、私たちが滅びるままに委せられはしない。私たちのうちのただ一人も、私たちみなを滅びさせはし ない。治めていたもう方がおられるのだよ』。」(宮田光雄、同上)

 「神が統治しておられるのだよ。だから心配はない、どんな暗い時にも心配はないよ!」「神さまのお取り仕切りに安らぐ心」、「イエスの平安」です。
 イエス・キリストは、今日もこの「平安」を私たちに向かって語り、約束されます。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。」「あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」
 それだけではありません。ここからは、イエスが私たちをこの世へと、それぞれの場所へと送り出し、私たちの先頭に立って、私たちと共に、この「平安」を語り告げ、それを分かち合う働きを行ってくださるのです。「立て、さあ、ここから出かけて行こう。」

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神よ、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  主イエスは今、私たちにも平安を語り、約束してくださいます。「わたしはあなたがたに平安を残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。」イエス・キ リストの平安、その十字架と復活の生涯を通して私たちに与えられた平安、あなたのご支配とお取り仕切りを信じ、それに従い、それによって心安らぐ心、それ をイエスは私たちにも開き、与えてくださいました。この恵み、この救い、この喜びと希望を、心より感謝いたします。
 どうか、この「平安」を私た ち一人一人が確かに受け、これによって生かされ生きることを通して、私たち信仰者と私たちの教会が、あなたの平安の証人とされ、ここから送り出されて行く 先々で、それを語り、それを示し、それを多くの方と分かち合うことがゆるされるようにしてください。
まことの道、真理そして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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