神の家で生き、神の道を歩く              ヨハネによる福音書第14章1〜7節

 
  「平安」の反対は、「不安」であり「心騒ぐこと」です。「平安」を必要としているのは、恐れ、不安であり、心騒ぐ人です。その時の弟子たちがまさにそうで した。その人に向かって、主イエス・キリストの言葉が響くのです。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
  「心を騒がせないがよい」、イエスがこう語られることによって、私たちは「心を騒がせる者」であるということが、隠れもなく明らかとなるのです。一体何 が、どんなことが、私たちの心を騒がせるのでしょうか。「私は実は先週ある人に会ったわけです。僕とほぼ同年齢の方です。ある非常に大きな石油会社の秘書 室長を務めている人ですね。その人に会うと、『あなた、秘書室長でいいじゃないですか。僕らは毎日毎日汗かいて走り回っているけど、あなたはふんぞり返っ てればいいでしょう。」と、こう言えば、彼は「いや、とんでもない。』って言うんですね。「実はこの会社には58歳までしかいられないんだ。」と。――― 『自分はむしろ今、小さな会社で誘われている所に飛び移って、60歳以降も仕事が続けらるようにしたい。』ということを思い悩んでいるわけですね。――― それで、僕は一つの質問をしたんですね。『あなたは、確か40歳の時も50歳の心配をしていた、と。それで50歳になったら60歳の心配をしますね。60 歳になっても70歳のことを心配をするでしょう、と。しかし、あなたはそうやって生きることを心配しているけど、死ぬっていうことについてあなたはどう考 えますか?』ということを問いかけたわけですね。ーーー心が騒ぐというのはね、やっぱりイエス様から離れ、そしてほんとうの信仰に立っていない限りは、い つまで経っても30歳なら30歳の悩みがあり、40歳になれば50歳の心配をし、50歳になれば60歳を心配し、60歳になれば70歳を心配し、70歳に なったらですね、体が利かなくなったらどうしようと心配し、そして死ぬことを心配し、という風に、永遠に心の騒ぎが続いて行くわけですね。」(吉祥寺聖書 集会ホームページより)
 要するに、「いつも心配」なわけです。それはどうしたわけだろうか、それはいったいなぜなのでしょうか。
 その 答えは、主イエスの御言葉の中にあります。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」裏を返して言えば、不安の原因は、「神を信じない」こと、神から離れて 自分だけで生きようとしたことです。これこそが、聖書が語る「罪」なのです。だからこそ、イエスは今、あなたが離れてしまったその場所、あなたが本来生き るはずの場所、生きるべきその場所に帰りなさい、と語らるのです。「神を信じなさい」と。

 神から離れて生きようとしたことが、どんな恐れをもたらしたのでしょうか。
  それはまず、「場所」についての恐れです。神から離れ背いたとき、私たちは皆「生きる場所」を失いました。「生きる場所」、「居場所」です。神を忘れ、神 から目をそらしたとき、私たちにとっては、「私たちを常に愛して、無条件で生かし、どこまでも共にいてくださる神」は、おられなくなりました。またこの世 界も、「神が愛によって創造し、常に神の助けと導きが与えられる場所」ではなくなりました。また、多くの他の人たちも、「神の前で共に、愛し合い、助け 合って生きる人々」ではなくなりました。私たち一人ひとりは、そんな過酷な世界の中で、いつ自分を裏切り見捨てるかわからない人々の間で、何の助けもなく ただ自分の力と信念で生き抜いて行かねばならないと思うようになったのです。だから私たちには、いつも恐れと不安があるのです。「いつわたしは見捨てられ るかわからない、いつわたしは生きる場所を奪われるかわからない、いつわたしは居場所をうしなうかわからない。」すべての人がそのように生きた結果、本当 にこの世界はどんどんそういうところになって来てしまいました。
 しかし今主イエスは、その私たちに向かってこう約束してくださるのです。「わた しの父の家には、すまいがたくさんある。―――あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、 あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」イエスはこうおっしゃるのです。「私の父つまり神のところ、 神の国は大きく、広い。あなたがたが思い、この世が考えているよりも、ずっと広く、はるかに大きい。だからそこには、必ずあなたがたがとどまり、住み、生 きていける場所がある。たとえ、この世の力、悪の力また死の力が、あなたがたの命を奪って死に至らせても、神のもとには、死を越えて、死に勝利して永遠に 生きる場所がある。この私があなたがたを必ずこの場所へと迎え入れ、この場所に置く。だから神を信じ、私を信じ、心を騒がすな。」

 ま た、神から離れた恐れとは、「道」に関する恐れです。「道」は、英語では「ウェイ」です。「マイ・ウェイ」という歌がありましたね。あれは単なる「道路」 という意味ではなく、むしろ「私が生きて行く人生の道、生き方そのもの」ということでしょう。ですから、この「道」とか「ウェイ」いう言葉で示されている のは、「生きるすべ、生きて行く方向性、生き方、また生きることそのもの」ということです。それこそが、神から離れた私たちには失われ、全くわからなく なっているのです。私たちには、いつもこの恐れがつきまとっています。「私は本当にこの自分の道を生き抜いて行けるだろうか。この道、この生き方を貫いて 行けるだろうか。本当に正しいこと、良いことを語り、行って行けるだろうか。」なぜなら、この世にはいつも、あらゆる外的・内的誘惑があるからです。 「こっちの方がいいよ。こっちの言葉や生き方の方が正しいよ。こっちの方が役立つよ、つまり楽に生きられるよ。」
 そんな諸々の声を断ち切るよう にして、主イエスは今お語りになります。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」 「私こそが道、真の道なのだ。だから安心して、ここを歩きなさい。私と共に行き共に生きるこの道こそが、本当に正しい道であり、良い道であり、幸いな道な のだ。」道に迷ったとき、頼りになるのは、正しい標識です。イエス・キリストの御言葉こそ、大きく掲げられ、語りかけている「まことの標識」なのです。 「あなたがたのために、正しい場所と道があるのだ。」

 その主イエスが私たちのために準備してくださった場所で、その道の上で、私たちはどのように生きることがゆるされるのでしょうか。
  ある方は、このイエスの言葉、「私は道であり、真理であり、命である」が、実に分かりにくいと言います。それでよく調べ、よく勉強し、よく考えた結果、こ れをこう訳すことにしたのだそうです。「私は人を本当の幸せに導く。私は人が本当に幸せになるなり方を(知っており、それを)教える。わたしは人を幸せに いきいきと生かす。」(山浦玄嗣氏による)「道」や「真理」や「命」という言葉は、その「役割」や「働き」という意味で考えればよいのだというのです。 「道」はある所へ「導く」、「真理」はあることについて正しいことを「知っている」、そして「命」は「生かす」。その「ある所」「あること」とは「幸 せ」、しかも「本当の幸せ」だというのです。「私は人を本当の幸せに導く。私は人が本当に幸せになりなり方を教える。私は人を幸せにいきいきと生かす。」 イエス・キリストが準備してくださる場所と道の上で、私たちは本当の幸いに生きることがゆるされるのです。
 「本当の幸い」とは、申し上げていま すように、神の前で神と共に生きることです。私たちを創ってくださった方、私たちを愛してくださった方、私たちを生かしてくださる方の前で、このお方の愛 と真実を受けながら生きること、これにまさる幸いはないのです。イエス・キリストは、この幸いへと私たちを至らせるために、全力をつくし、自分のすべてを 懸け、自らの命までも捧げられました。私たちはこの「真の幸い」を捨て、離れ、忘れました。それが私たちの「罪」です。「罪」とは、「神の前で生きる居場 所を失ってしまったこと」なのです。しかしイエスは、その私たちの罪を自ら引き受け、十字架に至るまで担い、ついにご自分の死によってそれを克服し、それ に勝利されました。今イエス・キリストは、死からよみがえった復活の主として、私たちと共に生き、共に歩んでいてくださるのです。「私は人を本当の幸せに 導く。私は人が本当に幸せになりなり方を教える。私は人を幸せにいきいきと生かす。」

 「井戸端げんき」という宅老所が千葉県にあるそうです。ここはキリスト教の施設ではありませんが、このイエスの心を実践し、指し示していると私は思いますので、ご紹介したいと思います。
  ここの代表は、伊藤英樹さんという方ですが、伊藤さんのモットーは、「他に行き場がないというのは、ここに来る良い理由だ」だそうです。ホームページには こう書かれています。「年齢、障がいの有無といったことに制限はなく、また、介護保険適用外の方も積極的に受け入れる」。それは、いわゆる「利用者」だけ でなく、職員もそうなのだというのです。「あるスタッフは、子どもを三人かかえて仕事もなくて、このままじゃ心中するしかないというところまで来ていた。 『井戸端げんき』の求人を見てやってきて、面接受けながら、赤ちゃんのおむつをかえた。ああ、これで落ちるだろうなと思いながら、でも伊藤さんは反対に、 『この人にはここしかない』と感じて、採用したそうです。」「あるおじいちゃんは、昔ラーメン屋さんで、車椅子で生活するようになってから、まるで拗ねた ように世間に対して傍若無人な振る舞いをしていた。車が通ってる大通りの真ん中を車椅子で走って、文句を言われると杖で人をたたく。―――こういう人はた いがいどこかに収容されちゃうんだけど、この人は収容するところがないと行政が困りはてて、伊藤さんのところに頼みこんできた。―――伊藤さんも『そうい う人は困るな』と思ったけど、『でも居場所がないならここにいる理由があるな』と思い直して引き受けた。そこでどうしたらよいか考えて、若者たちがちょう ど店を出そうという時だったんで、『若い連中が店を出すんだけど、じいちゃん、昔ラーメン屋やってたでしょう。ちょっと手伝ってくんないかな』ってたのん でみた。すると、『しょうがねーなあ』って引き受けて、若者たちを引き連れて、車椅子で挨拶回りを始めたそうです。近所をまわると、みんなすごく喜ぶわけ ですよ。『あのじいちゃんがまともになってきた』って。」(高橋源一郎/辻信一『弱さの思想』より)

 イエス・キリストは、まさに「居場 所のない者」に、生きる場所と道を与えて、神の前で幸いに生かしてくださいます。私たちに居場所と道を準備し、与え、示して、その場所と道の上で、私たち を幸せに導く、いきいきと生かしてくださるのです。試練や困難、さらには迫害にもかかわらず、死を越えても、永遠に至るまで、私たちを幸いに生かしてくだ さるのです。「神の場所で生き、神の道を歩く」、これが私たちの幸いなのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。」

(祈り)
天におられる私たち全ての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  イエス・キリストは、御自身を丸ごと私たちに与え、示して、語ってくださいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」ここに私たちが、あなた と共に幸いに生きられる場所があり、道があります。どうか、この道を歩み、この場所で生きるという信仰の一歩を、勇気と希望とをもって踏み出させてくださ い。お一人一人の道が豊かに祝福され、また私たちの教会があなたの場所と道を指し示して「共に生きよう」と呼びかけることができますよう導き、お用いくだ さい。
私たちの導き手また完成者なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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