これを受けて、伝えて、手渡します              マタイによる福音書第10章5〜15節

 
  イエス・キリストの平安、イエスが与えてくださる平安について、共に聴いております。今日皆さんに申し上げたいことは、「平安は実体である」ということで す。12節「その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。も しふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。」ここでわかるのは、「平安」というのは、「心の持ちよう」などではないということで す。「平安を祈り、その相手がふさわしくければ、その平安がまさにそこに来る。もしふさわしくなければ、それは帰って来る。」それは、あたかも「平安」と いうボールを投げているようです。イエスの弟子たちが祈るとき、天から「平安ボール」がそこに投げ込まれる。それを喜んで受け取ろうとする人には、その ボールが確かにやって来て、それをその手に受け取ることができる。しかし、それを受け取る気のない人には、それを受け取ろうと手を伸ばすことをしない人に 対しては、その「平安ボール」はその人にぶち当たって、跳ね返って、弟子たちの手に戻って来る。そういうことなのだというのです。ボールのように、確かな 実体を持つ物のようにして、「平安」が語られています。イエス・キリストが語られる「平安」は、まさにボール以上の実体であり、現実なのです。

  なぜなら、それは「神の国の現実」だからです。だからこそ、主イエスが弟子たちをこの世の人々に向けて送り出したとき、イエスが伝えよと言われた言葉はこ れだったのです。「行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ」。私たちもまた、この同じイエスによって、この世へと、そこで生きる人々のところへと送り出 され、遣わされています。それが教会であり、信仰者であり、伝道なのです。「信仰とは遣わされた者として生きるということ」(G.クライン)なのです。
  そうしてイエスによって遣わされ、送り出されて、私たちがするようにと命じられていることは、これです。「『天国が近づいた』と宣べ伝えよ」。「天国」と は、「神の国」のことです。「神様のお取り仕切り」、「神様の愛と赦しと恵みとによる支配と導き」、それは近づいた。いや、それはもうここにある、ここに もう始まっている! 神の愛とその力がもうここに届き、働いている、そのようにして神様の働きと道がもうここに来て、ここから始まっていると語り、行い、 生きるのです。それは、こうして語る方、イエス・キリストによってです。それは、「主イエスはかつての方であるだけでなく、今日あなたと共にいまし、あな たの明日を創造される方である」(大沢秀夫)と語ることなのです。私たちが出て行って人々と出会うその所で、イエスが先頭に立って生き、この人のために十 字架の道を歩み、死に、そして復活して生きていてくださるのです。
 最近私は、今まで26年間牧師として教会に仕えて働いてきた年月と歩みとを振 り返る機会が与えらました。そうしてわかったことは、その間に随分と「大変だ」と思えることはあったけれども、すべての事とすべての出来事とすべての道と が最善のものであり、その一つ一つ、一歩一歩の中に神の恵みの業があったことを実感させられました。イエス・キリストの神は、まさに私の「今日に共にあ り」、私の「明日」を創造し続けてきてくださったのです。そしてそれは、すべての人に向けて約束され、語られているメッセージなのだと信じます。「主イエ スは、今日あなたと共にいまし、あなたの明日を創造される方である」。
 だから、それは「平安」なのです。神から送られた救い主イエスが、かつて 私たちを愛して私たちのために命を投げ出し、また今も復活された主として私たちと共に生きてくださり、さらにそのイエスが私たちの明日をも創り出してくだ さるのであるなら、私たちは何の心配や思い煩いからも自由とされて、感謝と喜びと希望とをもって、今日ここから生きて行くことができるのです。

  この「平安」、それは何より私たち自身が受けたこと、「ただで」いただいたものです。「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。」「ただで」、ただ恵 みによって、何の資格や条件を付けず、一切の成績や業績によらないで、いやむしろ圧倒的に不利であっても、それどころか「資格なし」「全くだめ」と言われ る者であっても、ただ神の愛と真実と恵みとによって受け入れられ、赦され、生かされたし、今も生かされ、導かれているのです。こうして私たちがこの「平 安」を確かに受け、それをそのままに実体として人々に伝え、現実として出会う人たちに手渡して行くのです。
 それは具体的には、「平安を祈る」こ とです。「神はあなたを愛しておられ、イエスはあなたと共におられる」と語って行くことです。「その家にはいったら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を 受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。」これは、神の約束です。これこそは確かな約束であり、私たちの働きと道と は、すべてこの約束に懸かっているのです。神の約束であればこそ、神の「平安」、神の祝福、私たちがそこでその人のために祈るその「平安」は、その場に来 て、そこで働き、そこで力を振るうでしょう。「もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。」それは決して虚 しくはならないのです。「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤してものを生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与え る。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送ったことを果す。」(イザヤ55・ 10〜11)

 しかし、ここで最後に大きな問題があります。それは、そうして送り出される私たち、あの弟子たちと同じように、実に無力であるということです。それだけでなく、大いに問題ありだということです。
  イエスが「行け」と言われている所はどこでしょう。それは、9章の終わりの言葉によれば、「飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている」群衆のところ です。もう六十年くらいも前に、ドイツの人がこう書いています。「それは今日では、日本における原爆のために病む者となった人々について報道されているの と同じようなこと」であり、そのようなところだと。そして弟子たちは「人間的に見て『望みを失っている』地点にまで赴くように指示されている」のだと。 (加藤常昭編『説教黙想集成2 福音書』より、H.J.イーヴァントによる)
 また、「しなさい」と言われていることは何でしょう。それは、「不 可能」と見えるようなことです。「病人をいやし、死人をよみがえらせ、―――悪霊を追い出せ」。この言葉が書き留められた初めの頃、古代においてもすで に、これらの言葉は「不可能ではないか」と受け留められていたようで、これらのイエス様の言葉を書き換えようとした写本があるそうです。「死人をよみがえ らせよ、なんて言われても困る」ということでしょう。しかしながら、よくよく考えていくと、私たちは、一人の泣いている人を立ち上がらせるのさえ、「不可 能」と思えてしまうような者なのです。
 そのような者たちに向かって、「このようにして出て行け」と、主イエスは命じられます。「財布の中に金、 銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。」「何も持たずに行け」というのです。これを読んだ時に、とて つもなく大胆なこと、過激なことを要求されているように感じました。
 しかし、よく読んでみますと、確かにそうでもあるのですが、それ以上にここ で語られているのは、「あなたがたは何一つ持たない者であることをとことん自覚せよ、あなたがたは自分が無力であることに徹せよ」ということ、「しかし神 が共におられ、私が共に行くから大丈夫なのだ、だから何も持って行く必要はないのだ、神をひたすら信頼せよ」ということなのです。「働き人がその食物を得 るのは当然である」。「何も持って行くな」というのは、「窮乏生活をせよ」というのではなく、そこであなたを豊かに支え、生かしてくださる神の備えと満た しを経験せよ、ということなのです。
 とりわけ、主イエスは、神の支配のしるし、その御業の糸口として、神はそこに拠点を備えてくださると、語ら れます。「どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。」神は、その行く 先で、弟子たちに「ふさわしい人」との出会いを備え、与えてくださるのです。「ふさわしい人」、それは、自分たちを歓迎し、すべての面で支え、共に働いて くれる人です。そのような人たちとの出会いを、神は弟子たちに、遣わされて行くすべての人たちの前に、必ず備え、開き、与えてくださるのです。

  私が群馬県の高崎におりました時に、そこのホームレスの人たちとの出会いがありました。マイナス5度にもなるところで野宿を余儀なくされている人たちがい ると知らされたのです。「何かをできたら」と思いました。しかし同時に「できない、不可能、無理だ」と思いました。「たとえ、自分一人が事を始めて、それ が一体何になるのか」と思いました。同時に、祈っていました。「あの人たちのために何かできることがあるなら、させてください。しかし、私では無理だと思 われるなら、どうかさせないでください」と、「ゲッセマネの祈り」と似てしかし全く非なる、そんな祈りをしていました。そのうちある所で、カトリック教会 に当時おられた戸田神父という方にお会いしました。別れ際にこう言ってしまいました。「ホームレスの人たちがおられますね。その人たちに何かできないで しょうか。でも、難しいでしょうね」とか、なんとか。そうしたら、戸田神父はこう言われたのです。「わかりました。ご協力できることは何でもしますから、 言ってください。」この言葉に、私は力づけられたのです。神様は本当に「ふさわしい人」、助けて共に働いてくれる人々を備え、出会わせてくださったので す。そこから、高崎のホーレス支援の働きは始まりました。私が去った今もそれは続いていて、当時よりもはるかに充実した働きがなされていると聞きます。

  しかしまた、そうして「平安」を祈りつつ手渡そうと出て行くとき、私たちは無関心と拒絶をも受け、挫折と失敗をも経験します。「あなたがたを迎えもせず、 またあなたがたの言葉を聞きもしない人」があるのだというのです。神の「平安」は、聞かれないということがある、受け入れられず、拒まれるというとがあ り、その時には「遣わされた者」たちはそこを去らねばならないということがあるのです。
 しかし、そのことを思いわずらう必要はないのです。「彼 らは神の言葉がとどまる所にだけとどまる。神の言葉が退けられれば、彼らは神の言葉と共にみずからを非難のまとにさらす。―――そして彼らがこの地にもた らした平安は、彼らに帰って来るであろう。『このことは、自分で何も完成することができないと思っている教会の奉仕者にとって、慰めである』。」(ボン ヘッファー『キリストに従う』より)
 こうして私たちは、私たちを遣わし、送り出してくださる方に信頼して、証し人として生きることができるので す。主イエスの御言葉の力によって押し出され、その遣わされた場所で、口ごもりながらも勇気をもって「神の国は近づいた」と語り始めればよいのです。そこ で出会うことをゆるされ、導かれるその人たちのために「神の全き平安」を、途絶え途絶えであっても祈り続け、そしてそれが相手の人に手渡されるようにと努 めていけばよいのです。そのところところで、私たち一人一人が、「イエスに遣わされた者」として生きて行けばよいのです。

(祈り)
私たちすべての者の神、御子イエスによって私たちを極みまで愛された神よ。
  主イエスが私たち一人一人を、それぞれの場へと送り出してくださいます。平安と祝福を携えて行き、それが与えられ、手渡されるように祈れという使命をもっ て遣わしてくださいます。私たちは無力で不信仰な者でありますが、そんな私たちを「ただで」愛し、信頼し、用いてくださいますことを心より感謝いたしま す。どうかお一人一人と私たちの教会を御心と御国のために、豊かに用いてください。
まことの道、真理そして命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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