イエスと共に休んで生きる              マタイによる福音書第11章28〜30節

 
  今年度私たちの教会が祈り、歩み、目指すところは、年間主題の言葉に表わされています。「主に聴き、主を信じて、共に語る教会」。「共に語る」ということ が、最終の目標なのです。「語る」「証しする」「伝える」「伝道する」ということでしょう。けれども、それは必ずしも私たちにとってし易いこと、楽なこと ではありません。ある教会の方が言っておられました。「自分の友だちを自分の教会に誘って連れて来たいのだけれど、躊躇する気持ちがある、自分たちの教会 は忙しすぎて、負担感が大きいのではないかと思う。」だから、人に「伝える」前に、何よりまず自分たちが、「聴か」なければならないのです。この私こそが 「主に聴き」、「主を信じ」て、主イエス・キリストが語り与えてくださる祝福をいただき、それによって共に生かされて初めて、「語る」ということが起こさ れてくるのではないでしょうか。では、何を聴くのか。主題の副題にあります「祝福、喜び、平安」ということです。「祝福」については今まで語ってきまし た。「喜び」については、昨年度重点的に語りました。それで、次は「平安」を告げる主イエスの御言葉を順々に共に聴いてまいりたいと思います。

  「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。」これは、イエス・キリストの大いなる招きです。しかも、平安へと導き入れる招きなので す。「あなたがたを休ませてあげよう。」この言葉は、「この私が、あなたたちに安らぎを与えよう」とも訳されています。「安らぎ」「平安」への、大いなる イエスの招きなのです。イエスは「すべて」の人に呼びかけておられます。だれ一人例外はありません。あなたも、あなたも、そしてこの私も呼びかけられ、招 かれています。
 イエスが「すべて」の人に呼びかけ、求めておられるのは、「イエスのもとに来て、休み、安らぎ、平安を受け取る」ことなのです。 この言葉を受け止め、受け取るときに、私たちの信仰また信仰生活に対する見方がひっくり返ります。「クリスチャンになり、クリスチャンとして生きること は、何かを負うこと、何かを引き受けて背負うことだ」と思っていることがあるかもしれません。「毎週礼拝に出て、献金をし、奉仕をする、それは大変なこと だ。」
 しかし、主イエスはそんな私たちの考えをひっくり返されます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたが たを休ませてあげよう。」主が求めておられるのは、「重荷を負う」ことではなくその「重荷を下ろす」ことであり、「何かをする」ことではなく「しているこ とをやめて、イエスのもとに来る」ことであり、「苦労する」ことではなく「休みをいただく」ことです。それがつまり、主イエスの招きに答えて礼拝すること であり、礼拝から始まり、また礼拝へと帰って来る生活なのです。

 「重荷を負うて苦労している者」と言いますが、その「重荷」とは一体何 でしょうか。当時この言葉を聞いた時、多くの人が思ったのは、「律法の重荷」ということだったそうです。「この旧約の律法、戒めを守りなさい、さもなく ば」という形で人々に重圧を与え、有言無言のうちに迫って来たことが多くあったのです。それは、例えば「安息日を守れ」という戒めであったりしました。私 が神学校で習ったある先生がこう言われました。「どこの国、いつの時代、どんな社会でも、それぞれの『律法』がある。」今私たちが生きる時代また社会で は、どんな「律法」が「重荷」として私たちに押し迫ってくるでしょうか。
 奥田知志牧師がこんな対談をしておられます。「『問題は―――不登校の 子たちは何であんなに苦しむのか、ということです。―――』『なぜだと思いますか。』『やはり、基準や普通という感覚が強すぎて、自分が外れていると思い 込まされてしまうのではないでしょうか。自分は普通じゃないと思って悩んでしまう。』『まさにそれです。普通があると思い込んでいて、しかも普通生きるこ とが正しいと思い込んでしまう。そこから外れた人は規格外だとか落第者だと思いこんでいる人たちの感じが、学校に蔓延している気がします。』『少し前に KYという言葉が流行りましたね。―――空気を読みすぎて苦しんでいる。それで、その空気が何かというと“普通”なんです。その普通をどこに置くかという ことで、ものすごい呪縛とか暗黙の了解があるようです。―――かつて山本七平が「『空気』の研究」で言ったことを思い出します。空気とは、「非常に強固で ほぼ絶対的な支配力を持つ『判断の基準』」だと言うわけです。それに逆らうと異端として葬られるほどの力であると。例えば、戦艦大和が無謀な作戦に突っ込 んでいくんですが、責任者たちは「あのときはああせざるを得なかった」と言ってしまう。この目に見えない判断基準は今日、子どもたちをも支配していま す。』」(奥田知志・茂木健一郎『「助けて」と言える国へ』より)
 そんな社会の中から押し迫る「律法」が、私たち全ての者をがんじがらめに縛 り、無理強いし、動かしていく。この「重荷」の下に、私たちもまさに「疲れた者」「苦しむ者」ではないでしょうか。その「すべて」の者に、今イエスは呼び かけ、お招きになります。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」

 どうして、イエスのもとに行くと、「休み」「平安」が与えられるのでしょうか。イエスは答えられます。「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」
  イエスのもとで私たちに開かれ与えられる新しい道そして生き方、それはまず「イエスと共に歩み、生きる」ことです。これが、「わたしのくびきを負うて」と いう言葉に表わされています。「『軛』とは、牛やろばの首に付けて、鋤、車を引かせるために使用する木製の道具(民19:2)です。同じ位の体格の二頭の 家畜を軛でつないで、鋤や車を引かせました。頑丈な横木の下方にくぼみを作り、その部分を家畜の頸部に載せて縄などで固定しました。」(捜真バプテスト教 会ホームページより、小野慈美牧師)「くびき」とは、必ず「二頭の家畜」で負うものなのです。「わたしのくびきを負いなさい」とイエスが言われるとき、そ れは、「わたしはあなたと共に荷を負い、あなたと共に歩む」という約束であり、「あなたはわたしと共に歩み、わたしと共に生きなさい」という呼びかけまた 招きなのです。

 そこで、共に歩む方イエスは、私たちに自己紹介をなさいます。「わたしは柔和で心のへりくだった者」だ、と。これは実に 意外な自己紹介なのです。「柔和で、心がへりくだった」、それは「腰が低くて、優しい」というよりは、「弱い」「力がない」「みすぼらしい」「貧しい」 「つまらない」「意気地のない」という意味だそうです。そしてその端的な意味は「苦しんでいる」、いや「苦しめられている」、だからその結果として「貧し く」「力弱い」。「私はそういう者だ」と主はおっしゃるのです。先ほど申し上げたことで言えば、イエス様もまた、あのこの世の「律法」「重荷」の下で苦し められ、そして事実失敗し、苦しんでいるのだというのです。
 そういう観点から見ますと、イエス様のご生涯は、決して世に言う「成功者」というよ うなものではなかったことに気付かされます。初めは多くの人々がイエス様を求めて集まりました。でも、イエス様のお話や生き方が必ずしも人々の期待に沿う ものではないとわかると、大部分の者たちはイエス様を離れ去りました。後の方まで残った弟子たちも、主を裏切り見捨て、逃げ去りました。その最後は十字架 でした。「十字架」は、当時にあって「最低」の死に方、「神に呪われた者」「失敗者」の最期だったのです。

 ここで私たちは躓いて問うで しょう。「そんなイエス様にどうして救う力があるのか。」主は答えられます。「わたしのくびきを負うて」、「私はこの重荷をあなたと共に二人で負う者 だ」。失敗した痛さ、つらさ、その「重荷」の下での苦しさ、それは同じ「重荷」を負う者にしかわかりません。高みに立って「哀れなお前を助けてやろう」と 言われても、卑屈になり、また別の支配と従属が生まれるだけです。しかし、主は言われます。「わたしも苦しむ者だ。わたしも過てる者、失敗した者だ。あな たの苦しみをわたしが知り、あなたの重荷をわたしが共に負っているのだ。」
 このイエスが言われます、「わたしに学びなさい」。イエス様は「先 生」なのだというのです。イエス様が私たちに手取り足取り教えてくださるというのです。何をでしょうか。先ほど大切なことを言い落しました。「柔和」「へ りくだった」には、積極的な意味もまたあるのです。「重荷を負わせられ、苦しんでいる。だから弱い、力がない、貧しい、意気地がない」、それゆえにこそ 「神に頭を垂れる」、だからこそ「一切を神に信頼して預け、神に期待する」! そのように生き、そして十字架で死んだイエスを、父なる神は見捨てず、か えってよしとし、勝利と栄光を与え、三日目に復活させられたのです。
 このイエス・キリストが今、私たちに呼びかけ、私たちを招いてくださいま す。「重荷を負うて苦労している」、そういう者としてわたしのもとに来て、わたしと共にそういう者として、一緒に神のもとに行こう。一切を神に信頼しつ つ、そういう自分自身と自分の重荷とを神に委ねて、そこから共に歩み、一緒に生きよう!」
 「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであ ろう。」神のもとで、神と共に生きるならば、私たちは休みを得るのです。主イエスは私たちをそこへと連れて行き、この休みを得させてくださるのです。それ は、何ものも奪うことのできない、死でさえも損なうことのできない、「神の国の安息」なのです。

 「すべて重荷を負うて苦労している者 は、わたしのもとにきなさい」。いつもそう語りかけ、招いてくださる主の御声、御言葉を聴き、このお方のもとに来て、重荷を下ろし、苦しむ自分自身をその みもとに置き、休みをいただく。これこそが信仰であり、これが礼拝であり、これこそが私たちが共に信じ、共に生きる教会の歩みなのです。この繰り返しに よって、私たちは神によって生かされ、イエスと共に生きて行くのです。
 「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」このイエ スと共に生きる生活の中で、初めて私たちは様々な事柄を負って行く力を与えられるでしょう。私自身のこと、家族のこと、隣人のこと、教会のこと、社会のこ と、世界のこと。それは、もう独りぼっちで負うのではありません。主イエス・キリストが、「それはわたしのくびきであり、わたしの荷である」と言ってくだ さいます。主御自身が、それらの事柄にどこまでも関心を持ち、最後まで責任を負ってくださるのです。
 「インドのコルコタを訪ねたことがある。貧 困と死と、人間の抱える解決不可能な問題のあふれる場所だ。そこでは、マザー・テレサの修道会に属する修道女たちが、おそらく地球上で最も貧しく悲惨な人 々に仕えている。―――世界はこのシスターたちの献身とその宣教の成果に畏敬の念を抱く。しかしここにいる修道女たちがもっと私に感銘を与えるものがあ る。それは、彼女たちの平静さだ。―――彼女たちの平静さの源は、一日の仕事を始める前の出来事にさかのぼる。―――修道服をまとい、礼拝堂へと向かう。 そこで共に祈り、賛美するのだ。最初の『顧客』にまだ出会う前に、彼女たちは礼拝と神の愛の中に身を浸すのである。―――一日を神と共に始め、一日を神と 共に終える。そしてその間にあるすべてのものを、ささげ物として神に差し出す。―――神が、そう、神だけが、彼女たちの価値を判断し、その成果を評価され るのである。」(フィリップ・ヤンシー)
 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。」こうして、ここから、今週も私たちの共なる歩みが始まるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  イエス・キリストの招き、大いなる招き、私たちを完全な本当の休み・平安へと導き入れる招きを、心から感謝いたします。今日も私たちに、そして日々に私た ち信仰者一人一人に、この御言葉を聴かせてください。そして、私たち教会をを共に生かし、導いてください。そのようにして、「共に語る教会」「伝える教 会」としていってください。
まことの道、真理、そして命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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