その人は神の子と呼ばれる              マタイによる福音書第5章9節

 
  「さいわいから始まる」、そう申し上げました。これらのすべての祝福の言葉は、のっけから「さいわいだ」という主イエスの叫び、宣言から始まるのだという ことです。それで行きますと、今日の言葉はこうなります。「さいわいだ、平和を作り出す人たちは。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」
 「さいわ いだ」、初めの初めからそう言われているのです。それは、ある意味では、「平和」という言葉がもたらすイメージとは、随分違うかもしれません。「平和」と いうと、「立派」かもしれないけれど、「硬い」とか「関係ない」とか、そういう思いを私たちは抱きやすいのではないでしょうか。しかし主イエスは、そのよ うな私たちの思いを突き崩し、ひっくり返して、こう宣言されるのです。「さいわいだ、平和を作り出す人たちは!」
 「さいわいだ」とは、どういう ことでしょうか。「それは、大きな約束を持っていることだよ。大きな可能性を持っていることだよ。やる価値のあること、やりがいのあることだよ。あなた自 身に大きな喜びと誇りそして幸せをもたらし、さらに多くの人の喜び、幸せになることだよ。そして何より神様の栄光になることだよ!」主はそう強く励まして 私たちに呼びかけ、私たちを招き、私たちを押し出し、送り出してくださるのです。
 そう言われますと、「やってみようか」という気に、少しなりませんか。

  それでは、「平和を作り出す」とはどういうことなのでしょうか。それは、どうすること、どのように生きることなのでしょうか。それは、今まで何度も申し上 げてきたこの「八福の秘密」に関わります。それは、この「山上の説教」の「さいわいだ」という、この一連の八つの言葉で語られているのは、「一種類の人」 「一人の人」のことだということです。この前もお尋ねしました、「はたして、こんな人をイメージできますか」。「平和は作り出すけれども、憐れみ深くな い」、また「心は汚れているけれど、平和は作り出す」。そんな人は、考えられませんね。ですから、ここに描き出されているのは「一人の人」なのです。「平 和を作り出す人」というのは、ここに語られている他のすべての「人」に当てはまるのです。つまり逆に言えば、「平和を作り出す」というのは、ここで「さい わいだ」と言われているような生き方をすることなのです。
 こうして主は教えられます。「平和を作り出す」とは、「憐れみ深く」生きることだよ。 この罪の世、「憐れみ深く」ない、むしろ「憐れみ」が薄い、世知辛く、残酷であり、互いが互いに対して「狼」であるような世、特に強い者たちが弱い者たち に対して、力づくでいうことを聞かせ、自分の利益・自分たちの利益だけを追求し合っている世にあって、あえて「憐れみ深く」生きるのです。自分のことだ け、自分たちのことだけを求めず、他を思いやって、とりわけ弱い者たちを思いやって、お互いを生かし合うようにして生きる。
 主はまた言われます、それはまた「心清く」生きることだと。人々の心が妬み、憎しみ、怒りで汚されており、それによって引きずられて、差別や争いや戦争にまで駆り立てられて行く世にあって、ただ神が求めたもう愛と真実と赦しを目指し、それに基づいて共に生きようとする。
  このような生き方によって、「平和を作り出す」のです。互いに憎み合い、争い合い、蹴落とし合っている世にあって、それら争い合う者たちの間に割って入る ようにして、あえて愛と赦しをもって共に生きるようにと勧め、励まし、自らも生きるのです。「平和」を考えるに当たって、「戦争」は絶対に避けて通ること はできませんが、私たちの日常の生活においては「いじめ」の問題もまた避けることはできません。「キリスト教会は歴史上ずっと『強者』の側に立とうとし、 実際ユダヤ人などを『いじめる』側に立ってきた。少数者であった日本の教会は、国家や社会から『いじめられまい』として必死の努力をしてきた。でも、キリ ストに従う者としてはたしてそれでよいのか。」(谷口和一郎)そのような状況と問いかけの中で、この主の御言葉を聞くとき、私たちの生き方は自ずからはっ きりと、またすっきりと示されてきます。

 しかしながら、この「八福」の前半を読みますと、主イエスは、この「平和を作り出す」生き方の「幸い」と同時に、その道の厳しさ、つらさ、苦しさをも、しっかりと見据えておられたことがわかります。
  主は言われます、それは「心が貧しく」なることだよ。ここには元々、「謙遜でへりくだっている」というようなプラスの意味はあまりなく、むしろ否定的な意 味が強いのです。「貧しい」と言えば、欠乏です、「ない」ことです。「心」がそのような状態になる、「心がからっぽになる」「虚しくなる」「弱くなる」 「みじめになる」ということではないでしょうか。なぜそんなことになるかと言えば、あのような「平和を作り出す」生き方が、この世では受け入れられず、喜 ばれず、はやらないからです。この世は、決して「誰とでも和解しよう、共に生きよう」とは思っていないからです。
 また言われます、それは「悲し む」ことだよ。この世の悪や不正また矛盾に直面して、悲しみで絶えずいっぱいになるのです。それはまた「柔和」にされることです。この言葉も、実は良い意 味はあまりなく、否定的な意味が強いようです。「取るに足りない」「弱い」「卑しい」「つまらない」、そういう者とみなされ、自分自身もそう思わずにいら れない。一番ふさわしい訳は、「権力のない」「力のない」だそうです。力を奪われ、無力感を味わわされる。
 されにそれは、「義に飢え渇く」こと です。喉を嗄らすようにして、「神様、なんとかしてください」と泣き叫ぶほかないようになる。「平和を作り出して生きる」とは、そういうことだ。そして極 めつけ、その人たちは「義のために迫害される」。直接・間接、物理的・心理的・社会的に、様々な反対を受け、圧迫を受け、さらには暴力を受け、苦しめられ る。「いじめ」に対して、また「戦争」に際しても、その中で神の御心を尋ね求め、それを表し、「平和」を求めて生きようとしたとき、またするときに、どの ようなことがその人にやって来るかを考えれば、これは大いに納得できることでしょう。
 こうして見てきますとわかることは、この「幸い」の言葉には、大きな「逆説」があるということです。一般的・常識的にはとうてい「幸い」とは思えないような、そういう生き方と道が示されているのです。

 しかし、はじめに戻りましょう。ここに、驚くべきイエス・キリストの祝福があるのです。「さいわいだ、さいわいである! 」一体全体なぜなのでしょうか。なぜ、そんな生き方、そんな道、そう生きようとする人たちが「さいわい」なのでしょうか。
  なぜならば。神御自身がそのような人に味方してくださるからです。「彼らは神の子と呼ばれるであろう。」今までずっと申し上げてきました。ここで語られて いる言葉は、決して「一般論」ではありません。ここには、「隠れた主語」があるのです。それは「神」です。「神が、神御自身が、その人を『神の子よ、わが 子よ』と呼んでくださる」のです。子の親ほど、わが子の幸いを願い、その幸いのために努力・尽力してくれる者はおりません。神が、神こそが、そのような人 を「幸いだ」と言ってくださり、「幸い」のために心を砕き、力を尽くして働いてくださるのです。誰もがその人を受け入れず、喜ばず、味方しなくても、神こ そがその人を喜び、その人の側に立ち、味方してくださる。誰もがその人の「平和」を目指す生き方を否定し、退け、苦しめ、迫害しても、神がその人を善しと し、慰め、飽き足らせ、憐れんでくださる。誰もがその人を助けず、追い出し、独りぼっちにしても、神がその人に近づき、その人に御自身を現し見せ、その人 を御自身の「子」と呼び、その人と堅く結びついていてくださる。その人に向かって、神は「わが子よ、あなたは幸いだ、他の誰が言わなくても、わたしがお前 を子と呼び、幸いだと言ってやる」と約束してくださるのです。
 またそのようにかれらが追い求めてやまない「平和」を、神は、「神の国」「天国」 を来たらせることによって、実現してくださるのです。「天国は彼らのものである。」「彼らは地を受け継ぐであろう。」「天国」とは、「空の上」というよう な場所を指しているのではなく、「神」という言葉を隠して婉曲的に言ったもので、「神の国」、神の支配、神の愛と義の実現のことです。今は、罪と死、そし て暴力と不正が支配する世の中であるけれども、いつか必ず神は、愛と真実と平和が完全に実現し満ち足りる、「神の国」「天国」をこの地に来たらせ、完成 し、与えてくださる。あなたがたは、この希望の中で支えられ導かれて、この道に仕えて働くことをゆるされる。
 だからこそ、主イエスは叫び、宣言されるのです。「さいわいだ、平和を作り出す人たちは。彼らは神の子と呼ばれる。」

 こう聞いてくると、私たちの中に不信、つまずき、疑いが生まれてくるのではないでしょうか。「そんなばかな」、「その証拠、根拠はどこにある?」。
  この証拠、根拠は、ここにあります。ここに立っています。先ほど、「ここに語られているのは、一人の人のことだ」と申しましたが、まさにそうなのです。そ れは本当に「一人の人」なのです。他でもない、この言葉をもって宣言し約束なさる、主イエス・キリストこそ「その人」であり、その紛れもない証拠、根拠で あられるのです。
 こうして振り返るとき、この言葉はまさに主イエスを目指して語られ、主イエスに的中し、主イエスによってこそ実現へと至らされ たことを思い知らされます。イエスこそ、「平和を作り出す」べく歩まれ、生きられた方ではありませんか。「心清く」、その思いと道を真っ直ぐ神とその御心 に向け、ひとすらに「憐れみ深く」、はらわたを裂くほどの憐れみに生きて、そこから出て来るいやしと慰めの業を行い、「義に飢え渇き」ながら人と人との和 解、何より神と人との和解のために生きられました。そのためにこそ、主は「心貧しく」なり、また「悲しみ」、すべての力も栄光も奪われて「柔和な者」とさ れ、それがために「迫害され」、ついにはあの十字架に至るまで苦しめられ、殺されて、死なれたのです。主イエス・キリストこそ、「平和を作り出す人」であ られたのです。
 この人を、この方をこそ、神は「幸いだ」と語られ、このイエスをこそ神は死と罪に勝利させ、復活させて、「天と地のすべての権 威」を授け、栄光を与えられました。だから、この復活の主は、今私たちに向かってこう語ることができるのです。「幸いだ!」このことの決定的な証人、先 達、導き手、救い主そして完成者であるイエス・キリストは、今も、イエスの言葉を聞き、信じ、御自身に従って平和を作り出し実現しようとして生きる人と共 にあり、共に生きて、その人を祝福をもって慰め、力づけ、もう一度世へと送り出してくださるのです。イエスによる神の呼びかけと招きです。「幸いだ、わが 子よ、あなたは幸いだ!」「平和を作り出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
 神よ、あなたこそが、平和を作り出されました。イエスによって、神と人との間に、また人と人との間、ユダヤ人とギリシャ人との間に、奴隷と自由人との間に。
 あなたによって招かれ、動かされ、押し出されて、あなたの平和に仕え、この世においても「平和を作り出そう」として生きるときに、あなたは私たちをも「わが子よ、さいわいだ」と呼んでくださり、力づけ、導き、用いてくださいますから、心から感謝し、御名をあがめます。
 どうか私たち信仰者一人一人と教会が、あなたに従って、このいじめと戦争の世において「平和を作り出す」者たちとされて、歩み出し、生き、仕え働くことができますよう、豊かにお導きください。
まことの道、真理、命、そしてまことの平和の主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。s

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