「お手上げ」からの出発              マタイによる福音書第5章8節

 
  こうして、イエス・キリストが語られた「山上の説教」の「八福」を順番に読んでいくと、一節ごとに様々な思いを抱かせられます。その中にあって、今日のこ の言葉ほど「お手上げ」という気持ちにさせられるものはありません。「心の清い人たちは、さいわいである」という言葉に、「はーい、私」と手を上げて言え る人がはたしてあるでしょうか。

 「清い」とは、「まじりけのない、純粋な」という意味です。くもりや欠け、汚点が一つもない、何一つな いということです。それが、私たちの一番深い奥にある「心」について語られ、問われています。しかも、人間の行動と生き方の中心である「心」について問わ れ、語られているのです。その「心」が、一点のくもりも汚れもないということが、はたして私たちにあり得るのでしょうか。
 それは簡単に分かりま す。他でもない主イエスの言葉が私たちを照らし、判断するのです。「わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。 兄弟に向かって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばかと言うものは、地獄の火に投げ込まれるであろう。」「だれでも、情欲をいだい て女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」「わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
 「あり得ない」で しょう。「心が清い」ということが、こういうことだとしたら、それは私たちにとって「あり得ない」のではありませんか。人に対して悪意や怒り、軽蔑の思い を一度でも、少しでも抱いたことのない人は「あり得ない」のではありませんか。また、他の人を「手段」「道具」のように扱い、利用して、それによって自分 の満足や利益を図ろうとしたことが一度もない人など「あり得ない」のではありませんか。さらには、自分の「敵」、つまり自分に対して悪意を抱き、悪口を言 い、悪を行って来る者に対して、悪意や憎しみを抱かないどころか、愛情と同情・共感に満ち、その者のために善と祝福を祈る、そんな「心」を持つ人など、私 たちには「あり得ない」のではありませんか。そんな私たちが、この「心の清い人たちはさいわい」という言葉を聞くとき、それは「お手上げ」と言うよりほか ないのではありませんか。

 また「心が清い」とは、「心が分かたれていない、分裂していない」、「ただ一つのことに向かって、迷わず、そ れず向かっている」ということでもあるのです。それは、専ら神との関係において問われています。「心が一切分かたれ、分裂することなく、迷わず、それず、 ただ神へと向かう」、それが「心の清い人」です。
 ここでも、どうでしょうか。それは、私たちには「あり得ない」のではありませんか。「たとえ ば、人は義務によって束縛されるというようなこともありますし、あるいは、財産によって束縛され、ただ『お金だけに目を向ける』ということもあります。ま た、ただひたすら健康を維持することだけに目を向けることもあります。あるいは、家族の問題で目を奪われることもあります。」(リュティ『祝福される人 々』より)そういう他の色々なものに心が別れて向かい、ただ一つまっすぐに神に「心」が向かっていないならば、それは「心が清い」とは言えないのです。や はり「あり得ない」、「お手上げ」です。

 どのように受けとめたらよいのでしょうか。ここで私は、この「八福」の「秘密」をお知らせした いと思います。それは、ある意味で、これまでも毎回語って来たことでした。それは、これらのすべての言葉、八つないし九つの祝福は、すべて一人の人のこと を語っているようだということです。「ある人は心が貧しく、ある人は悲しんでおり、またある人は柔和だ」ということではなく、それはすべて一人の人のこと だということです。それは、ちょっと逆のことを考えてみれば分かります。「心は汚れているけど、憐れみ深い」とか「心は清いけれど、平和は作り出さない」 なんてことがイメージできますか。できないでしょう。そこからして、これらの言葉は一人の人を語っているのです。
 そしてそれは、極めて具体的な 一人の人です。これらの言葉を聞いているうちに、それは本当に一人の人、ただ一人の人に向かって集中し、凝縮されていくのです。それは、他でもない、この 言葉を語る方、イエス・キリストです。これらの祝福の言葉が向けられ、実現している人、ここに語られている人とはイエス・キリストです。イエスこそ、その 人なのです。「心の清い人」、それはイエス・キリストです。

 そうしてみたときに、主イエスの「清さ」には、著しい特徴がありました。そ れは、他の人々と比べてみると、よく分かります。ナザレのイエスと同時代、当時には、「清さ」を強く、熱心に追い求める人たちがいました。それは、「パリ サイ人」「パリサイ派」と呼ばれる人々でした。彼らが考え、主張し、実践していた「清さ」には、一つの特徴があると思います。それは、「防衛的」であり、 ある意味で非常に「弱く」、「すぐ損なわれてしまう」という特徴です。彼らが自分たちに信じていた「清さ」というものは、「汚れている」とされる人やもの に近づき、触れ、交わると、すぐに「損なわれ」「失われ」「汚されてしまう」のです。だから、彼らのその「清さ」というものは、分離や排除や否定をもたら しました。あの人たちは「汚れている」から、近づくと私たちの「清さ」が「汚され」「損なわれ」「失われて」しまうから、離れなければならない、彼らを追 い出さなければならない、となってしまうのです。
 これに対して、主イエスが持っておられた「清さ」は、実に対照的な、正反対のものでした。イエ スは、当時の社会で「汚れている」とされて、差別され、排除され、隔離されていた人たち、病人や障碍者、また「罪人や取税人」と呼ばれていた人たちと、何 のこだわりも躊躇もなく、むしろ積極的にかれらに近づき、かれらと関わり、食事さえも一緒にし、かれらの家に泊まりもしたのです。また、「手を触れると汚 れるから、手を触れてはいけない」とされていた人に、あえて「触って」その人をいやしたこともありました。
 いったいなぜでしょうか。主イエスが 持っておられた、今も持っておられるその「清さ」は、そんなことで損なわれ、失われたりは決してしないからです。イエスの「清さ」は、実に強く、強靭なの です。それどころか、その清さは他の人にも及び、その相手の人を清くし、その人を積極的に変え、創り変えて行くのです。イエスの「清さ」とは、神の創造的 な力であり、さらにはイエスの復活の力なのです。
 だから、この言葉の前に「お手上げ」でしかない私たちをも、イエスは、ご自身の持っておられる 「清さ」によって、「清く」することがおできになるのです。このイエスによって、この私たちも「清められて」、新しく創り変えられて、新しく生きる道が開 かれ、導かれることができるのです。
 「私たちは『あそこ』(イエスの十字架の場所)にいました。今、います。そして、これからもいるでありま しょう。これが私たちの人生なのです。私たちが『あそこ』にいるということ、それこそ、私たちの心の秘密です。『あそこ』にあるということこそ、清い心で あるということを意味するのです。『あそこ』以外に、私たちがキリスト者でありうる場所はどこにもありません。―――心の清い人々をほめたたえる言葉を聞 いているきょう、私たちが『あそこ』にいるということこそ清さの意味です。『彼らがあの方を十字架に打ちつけ、槍がその胸を刺し、太陽が光を失い、人々が あの方を十字架においた』、そこに私たちは今いるのです。『あそこ』に、私たちは自分の清さを見いだします。『あそこ』にです。『あそこ』以外のどこにで もないのです。」(ボーレン『祝福を告げる言葉』より)

 「心の清い人たちは、さいわいである」、これはイエスの私たちに対する呼びかけ であり、約束であり、招きなのです。私たちが少しでもこの言葉を信じ、その呼びかけと招きに答えて、イエスを信じ、イエスを求めるとき、イエス・キリスト は私たちにもそのご自身の清さを及ぼし、それを私たちにも分け与えて行ってくださるのです。
 そして、私たちにも、この「幸い」をくださるので す。「彼らは神を見るであろう。」「神を見る」、それはいったいどんな「幸い」なのでしょうか。「ユダヤ人にとって『神さまを見る』というのは震え上がる ほど恐ろしいことでした。それは、神さまのお顔を直接見たりしたら、たちどころに死ぬと信じられていたからです。―――しかし、イエスの言いたいことはそ んなことではありませんでした。イエスにとって神さまは『お父ちゃん』でした。―――わが子を目に入れても痛くないほどかわいがるやさしい『お父ちゃん』 でした。この『心根の美しい人』は、神さまのお膝にすがり、顔と顔を合わせ、目と目を合わせてほほ笑みかわす幸せを、きっといただくことになるのだといっ ているのです。」(山浦玄嗣『イエスの言葉』より)「その人たちは神を見る」、神様がそのようにご自身を見せ、表し、そして近づき、出会ってくださる、ま さにそのような愛と真実の方として常に共にあり、最後の最後まで決してあきらめることなく、投げ捨てることなく、見捨てることなく、私たちを導いて行って くださる、それこそがイエスが私たちにも語り、宣言し、約束してくださるまことの幸いなのです。

 このイエスの幸いを信じ、それをいただいて生きるということは、やはり私たちの前に、一つの新しい道と生き方を開き、与えるのです。
  それは、何と言っても、私たちもまた、イエスと同じような方向性と力をもって生きることがゆるされるということです。私たちは、自分の「清さ」、信仰や確 かさや安心を守るために、他者から離れ、他者を排除し否定して生きなくても良いのです。イエスが歩みイエスが生きられたように、積極的に、開放的に、恐れ ることなくためらうことなく、他者に近づき、他者と関わり、他者に仕えて共に生きることがゆるされるのです。「ルターはこう言う。すなわち、人は、神自身 がそうなさったように、高みに昇ろうと務めるべきなのではなく、深みに至ろうと務めるべきである。そして、『神を、悲惨な者達、迷える者達、また苦労して いる者達の中に捜す』べきである。『そこでこそ人は、神を見、そこでこそ心は清くなり、またあらゆる高慢は意気消沈しているのである』と。」(ウルリッ ヒ・ルッツ)
 明治時代、「足尾鉱毒事件」が起こりました。足尾銅山から出た廃棄物が垂れ流され、その毒によって広大な地域が汚染され、多くの人 々が苦しみました。その最もひどい中に、谷中村という所がありました。国家権力は公害企業と一緒になって、その村を滅ぼし、その村人たちをよそへと散らそ うとしました。しかし、その谷中村に最後まで抵抗して残ろうする村人たちがありました。かれらと共に谷中村に残り、最後までかれらと共にあろうとして生き た田中正造は、こう語ったのです。「『神は我目前にあり。神や必ずしも人ニ遠からず。目前を見バ神存す。遠くを見バ神なし、近くを見バ神存す。―――』神 は遠くにいるのではなかった。神は田中のすぐ近くに顕現していた。―――『見よ、神ハ谷中ニあり』と田中は喝破した。また『神は谷中に居れり。人も心も谷 中に居るべし、神と共に進退すべし』と断言した。―――神は谷中という特定の歴史の場に置かれた困窮の民に自身を顕すのである。鉱毒被害にあった谷中村の 共同体のうめきに応答するなかで、神は自分を知らしめるのである。」(栗林輝夫セレクション1『日本で神学する』「見よ、神は谷中にあり」より)
  「心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。」その人たちは、どんな時代、どんな闇の世の中にも、神を見、神の愛と導きを見て、信じ、 望み続けることがゆるされるのです。「その人たちは神を見る」、そしてやがて必ずの完成の時、神の国到来と「新しい天と新しい地」が実現するその日、本当 に「顔と顔とを合わせて」神を見ることがゆるされるその時を目指して、希望のうちに生き、働き、歩むことがゆるされるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  「お手上げ」でしかない私たちのために、イエスは来たり、近づき、私たちの罪を引き受け担い、その代わりにご自身の全き清さをもたらし与え、それによって 私たちを創り変えて導いてくださいます。この導きに従い、信仰と希望そして愛によって生きる私たち一人一人また教会としてください。
まことの道、真理、命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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