世界はあわれみでできている              マタイによる福音書第5章7節

 
  「あわれみ深い人たちは、さいわいである」、これこそは、素直に理解し、心から納得して受け入れられる言葉ではありませんか。そうです、その通りです。 「憐れみ深い人たち」というのは、どんな人たちでしょうか。「貧しい人、苦しんでいる人、悲しんでいる人を見ると、わがことのように胸が痛み、ほうってお けない人」(山浦玄嗣)。「憐れみ」とは、「他者の苦しみや困窮に同情し、さらには共感し、近づき、連帯して、なんとかして助けようとすること」だと言え るでしょう。そういう気持ち、心が深く強い人、それは「さいわいなんだ」、「神さまはこういう人をけっして忘れはしないよと、イエスはいいます。―――も ちろんそれが物質的な見返りであるとい保証はありません。人の心の幸せは持ったものにはよらないものだと、イエスは別のところで言っています。でも、神さ まはお見捨てにならない。情け深い神さまは必ずまこと幸せにその人を招くと、約束しているということです」(山浦玄嗣『イエスの言葉』より)。そうだな、 そうだよねと、すんなり思えるということです。

 しかし、この言葉もまた、大きな驚きを含み、もたらすのです。それは、今日の場合は、特 に私たちクリスチャン、信仰者に対してなのです。何事も教会中心に考えがちな者、何事も信仰の論理で割り切ろうとする私たちにです。「信仰がなければ、聖 書はわからない」とか、「聖書の言葉は、もっぱらクリスチャンに向けられている」と考えがちな、私や皆さんに対してなのです。
 ところが実際に は、イエス様は何と言っておられますか。「あわれみ深い人たちは、さいわいである。」主イエスは、「あわれみ深い人たち」に、何の限定も制限も条件をも付 けてはおられません。だからそれは、ありとあらゆる「あわれみ深い人たち」です。実は、今までの四つの「祝福」でもそうだったし、そもそもこの「八福」全 部がそうなのです。そこには、何の限定も制限も条件もないのです。クリスチャンだからとか、信仰があるとかないか、教会に通っているかどうかとか、全くな いのです。ありとあらゆる時と場所、ありとあらゆる信仰や思想や立場を問わず、どこの誰であれ、とにかく「あわれみ深い人たち」は、確実に「さいわい」な のです。ここには、驚くべき広がりと多様さ、そして豊かさ、また計り知れないほどの広さと見通しがあるのです。

 そのように改めて思うと きに、まさにこの考えは広く多くの人々に共有され、受け入れられていると思えます。「あわれみ深い人たちは、さいわいである。その人たちはあわれみを受け るであろう。」日本語にも似たことわざがあるでしょう。「情けは人のためならず」、「人になさけをかけるのは、その人のためばかりでなく、やがて自分によ い報いがあるものだ」(『三省堂国語辞典』)。「憐れみは巡り来るのです。私たちがなす『憐れみ』は、いつか私たちに返って来て、私たち自身が憐れみを受 ける者となるのです。」(松本敏之『マタイ福音書を読む1』より)「この世にはそういう法則があるのだ」、「この世は、そういう法則によって成り立ち、 回っているのだ」という理解・知恵なのでしょう。
 「七つの大罪」という漫画・アニメを見たある方が、これを読み共感する主に若い人たちの「罪理 解」について、このように分析をしています。「これらのセリフからうかがえるのは、この作品における罪とは『他者を助けられないこと』であり、正義とは 『他者を大切にするため自分も犠牲にしても闘うこと』だ。」(高橋優子『ポップカルチャーを哲学する』より)それは、「他者を助けられないこと、憐れみ深 くないことが罪だ」という理解であり、裏を返せば「あわれみ深いことが、さいわいと救いをもたらす」ということだと思います。

 しかし、 このような考えには異論・反論もあります。先ほどの「情けは人のためならず」ということわざが、現代ではしばしば、全く逆の意味に誤解・誤用されていると いうのです。「情けは人のためならず」、「なさけをかけると、相手のためにならない」。この誤用の真意を探ると、こうなるでしょう。「この世を支配し、動 かしているのは、情け・憐れみなんかじゃない。この世は、自己責任と競争原理で成り立ち、動いているのだ。だからそんな世界では、憐れみなんて無力・無益 であり、むしろ有害なのだ。」「私たちは、皆その血の中に残忍さを持っています。無邪気な小さな子どもでさえ、積み木で交通事故の遊びをします。このバル メンにおいても、商売の生活をしていると、あわれみを捨てた競争が行なわれてしまいます。われわれが互いに殺し合うのは、もはや毒矢や槍や剣をもってでは ありませんけれども、無関心や無思慮や名誉心でそれを行なうのです。―――私たちは、お互いを顧みることのない社会を作っているのです。」(ボーレン『祝 福を告げる言葉』より)

 そんな世界、そんな状況のただ中で、イエス・キリストは決然と語り、宣言し、保証されるのです。「あわれみ深い 人たちは、さいわいである。その人はあわれみを受けるであろう。」「その人たちは確かにさいわいなのだ、その人たちは確実にあわれみを受けるのだ」。いっ たいなぜですか。ここにもまた「神的受動態」が用いられ、主語・主体が隠されています。「あわれみ深い人たちは、あわれみを受ける」、それは神がなさるの です。「神がその人たちを憐れんでくださる。」神が確かにこのことを成し遂げてくださるのです。ご自身が憐れみ深く、豊かに憐れみを持ち、すべての者に広 く憐れみを与えてくださる、そういう神が確かにおられるというのです。この神が、憐れみに基づいてこの世界を創造し、形作り、憐れみによってこの世界を成 り立たせ、憐れみによって支配し、動かし、導いておられるのだ。憐れみによってこの世界はできており、憐れみによって成り立ち、動いている、だからその法 則と力に従って生きる者、「あわれみ深い人たち」は確かに「さいわい」なのです。

 どうして、そんなことが言えるのですか。なぜ、そんな ことが確実に成り立つと言い切れるのですか。なぜなら、このイエスこそ、このイエス・キリストこそ、その神の憐れみの現われ・発露であり、神の憐れみの真 の到来であり、さらには「神の憐れみそのもの」であるお方だからです。人間でも「憐れみ深い人」は、すぐに体が動き出すのではないでしようか。困っている 人、苦しんでいる人を見ると、居ても立ってもいられない、その人のそばに駆け寄り、すぐに手を出してあれこれ助けずにいられなくなる。神様こそは、まさに そうだったのです。この苦しみに満ちた世、罪のゆえに、神に対するまた人間お互いに対する罪のゆえに、悪と不正と苦しみと困窮に満ちた世とそこに生きる人 々、私たち人間を見たときに、神は居ても立ってもいられなくなりました。そしてとうとう神様ご自身がこの世に来てしまいました。それこそ、このイエス様 だったのです。だから、主イエスは、しばしば、神の「深い憐れみ」について語り、またご自身も「深い憐れみ」に突き動かされて人を助ける働きをなさいま す。
 聖書で「憐れみ」を表わす言葉にはいくつかあります。ここでの「憐れみ」は、一般的な言葉です。「憐れみの心」という表現があります。 「心」、それが「憐れみ」が起こる場所、「憐れみ」を司る器官なのです。「心」、「内臓」「はらわた」という意味です。この「心」「内臓」「はらわた」と いう言葉から、特別な「憐れみ」、最も深く激しい「憐れみ」というものが表現されるようになります。それは、「内臓が裂ける、はらわたが裂けるほどの憐れ み」「深い憐れみ」という言葉です。それは、あの「放蕩息子の父」の憐れみです。自分を捨て、自分を裏切り、その果にすべてを失い、ぼろぼろになってとぼ とぼみじめに帰るしかなかった息子を「憐れに思って」、彼に走り寄り、抱きしめ、口づけして、晴れ着を着せ、宴会までも開いてしまう、その父の憐れみで す。またそれは、あの「良きサマリヤ人」の憐れみです。常日頃自分たちに敵対し、自分たちを軽蔑し差別し排除しているユダヤ人のうちの一人の人が、強盗に 襲われ、身ぐるみすべて剥ぎ取られて、道端に投げ捨てられ、今にも死にそうになっているならば、その人を深く憐れんで歩み寄り、けがの手当をし、ろばに乗 せて宿屋に運び、さらにはお金を残して旅立って行く、その憐れみです。そしてそれは、他でもないこのイエス・キリストの憐れみです。私たち人間の冷酷残忍 な罪のすべてをご自分が引き受け、担い取り、ついには十字架にまで進んで、自らの肉を裂き血を流し、この人間の救いと解放のために自分の命までも投げ出 す、この憐れみ、「深い憐れみ」なのです。「イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟 たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。」(ヘブル2・ 17〜18)

 このお方は、十字架に殺されて死んで三日目に、神の力により起こされ、復活されました。そのとき、神の愛と憐れみこそが勝 利し、確立されたのです。この世界は、確かに神の憐れみによって成り立ち、支配され、導かれ、やがての完成にまで至るのだということが確かめられ、保証さ れ、成し遂げられたのです。「あわれみ深い人たちは、さいわいである」ということが、今や確かなものとして掲げられ、約束され、与えられたのです。神の憐 れみこそが力を振るい、神の業を成し遂げ、やがて完成するでしょう。「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっ さいの権威を授けられた。―――見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである』。」
(マタイ28・18、20)「世の終わり」、それは神の国の完成の時、神の憐れみが余すところなく支配し、実現することが、見えるようにまでなるその時です。
  その時まで常に、「すべての日々に」、このお方が復活の主として、私たちと共にいてくださる、そしてこう語りかけ、宣言し、約束していてくださるのです。 「あわれみ深い人たちは、さいわいである。その人たちはあわれみを受けるであろう。」「これは、軽蔑され、辱められ、迫害されている人々の側に立つと公に 告白することであり、社会から追い出された人々、低い地位に降ろされた人々、打ちのめされた人々と連帯すると公に告白することです。憐れみを行うことは、 ここでは汚辱にまみれている人々、負債を負っている人々、牢屋の中にいる人々の側に立つことを意味します。」(リュティ『祝福される人々』より)神が愛 し、神が創り、神が導き、神が完成なさるこの世界の中にあって、「神の憐れみ」に従って、小さくても事をなし、生きようとするとき、私たちは本当に、そし て強く「幸い」な者とされるのです。
 「私たちは子どもの頃、よく近所にある木の下に立ち、その枝にたわわに実った果実を取ろうとしたものです。 しかし、私たちの腕は短くて届きませんでした。すると、優しい農夫のおじさんが物欲しそうに見ている子どもたちの眼差しに気がついて、私たちの欲求を満た してくれました。その時の喜びはあふれるばかりのものでした。農夫のおじさんは私たちの両手と両方のポケットいっぱいに持たせてくれ、さらに親切にも『坊 やの兄弟たちのところにも、その中からもってお行き』と言ってくれました。私たちは急いで兄弟たちのところに行き、何をもらったのかを彼らに伝えました。 しかし、今やキリストが来られて、私たちの隣人となり、いつかはなくなってしまう果物についてではなくて、永遠になくなることのない憐れみについてこう語 られるのです。『取って食べなさい。両手いっぱいに持ち、両方のポケットいっぱいに詰めて行きなさい。そして―――あなたの兄弟たちのところにも、その中 のものをもってお行き』と。」(リュティ、前掲書より)

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  「世界は憐れみでできている」、そんなこと聞いたこともなく、全く知らない者でありました。しかし今日イエス・キリストは山の上から語られます。「あわれ み深い人たちは、さいわいである。」このお方のゆえに、この御言葉のゆえに、私たちの前には全く新しい道と力、そして新しい生き方が開かれます。どうかこ の道を、信仰と希望と、そして愛において踏み出し、進んで行き、ついにあなたによる完成にまで至る者として、私たち一人一人とその教会を導き、支え、用い てください。
まことの道、真理、命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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