新しい人間となる              マタイによる福音書第5章6節

 
  「義に飢え渇く」、何か大層なことのようですが、あえて少し平凡な言葉に言い換えてみると、その意味が少しわかると思います。「義」とは「正しさ」です。 「飢え渇く」とは、要するに「強く求める」こと。すると「正しさを強く求める」、これならわかります。そして、この求め、この衝動は、誰にもあるものだと いうのです。「正義感が自ずと湧き起こってくることがあります。特に私たちが他人から不正な行為を受けた時などがそうです。―――若者たちに語り聞かせま すと、彼らは特に強い関心を示します。彼らの短い人生経験の中でも、すでに不公平な扱いを受けた経験はあるものです。―――学生時代を思い起しますと、私 たちがどれほど容赦なく、すべての教師を公平な教師と不公平な教師とに区別しているかが分かります。そうです。就学前の幼い子どもでさえもすでに、何が公 平であり、何が公平でないかということについて、多くの場合、驚くほどはっきりとした意識を持っているものです。」(リュティ『祝福される人々』より) 「えこひいきは嫌だ、差別されるのは嫌だ、不当に扱われるのは嫌だ、公正に、正しく扱ってほしい」という強い願い、切なる求めが、実はだれにもあるのだと いうのでしょう。これが、この言葉に対する手がかり、また入り口、糸口です。

 ところで、実はここでも福音書記者マタイは、多く批判を受 けているのです。「ルカの福音書」の並行箇所で、ルカは「今飢えている人たちは、さいわいだ」と記しました。ところがマタイは、それに「義」という言葉を 付け加えて、この世の現実的な飢えや渇きの問題から目をそらし、そむけさせて、それを抽象化・一般化してしまったというのです。はたして、この批判は本当 でしょうか。
 ある人は、「義」「正しさ」というのは、人間の「飢え」と関連しているのだと言いました。「まさにこの私たちすべてがあの当たり前 のこと(「正しいこと」と言い換えてよいでしょう)をするということが起きないのです。それは以前の年にも起きなかったのですが、以前に劣らず1970年 にも起きませんでした。起きた結末はどれも、当たり前のことを破壊しています。人間を狙って発砲するのは、知恵あることでありません。非常に、非常に愚か なことです。餓死する人はどの人も、当たり前のことが破壊されたのです。人間を餓死させることは、知恵のあることではなく、非常に、非常に愚かなことで す。」(ユンゲル『霊の降臨』より)それは、「全く正しくないことです」と言い換えられるでしょう。この私たちの生きる場で、社会で、世界で、「当たり前 のこと」がなされていない、「正しいことがなされていない」、だからこそ「義」を強く求めるということが起こってくるのです。
 この「義」「正し さ」を強く、さらに激しく求める、「飢え渇く」ように、「飢え渇く」ほどに求めるということが起こってくる、それは神様と深く関係しているのです。「この 祝福の言葉は『食物』の本質に注意を向けさせる。すなわち、食物は日々のパンでもあるが、しかしそれは神にふさわしい義でもある。」(ヴェーダー『山上の 説教』より)つまり、神様はこの世界を創って祝福し、その中で生きるすべてにものに食物を与えて、かれらがよく生きることができるようにしてくださったの です。だから、すべての生きるものが正しく適切に食べ物を与えられることが、「神の義」の不可欠な一つのことなのです。
 そしてこの主なる神は、 イスラエルの歴史の中で、さらに詳しく具体的にご自身の御心、その「正しさ」を示されました。「義はまた、神からの贈り物として受け取られる。―――神の 御前で受け入れられるという、言葉で表せぬ無償の贈与は、信仰者に対して応答するよう要求する。―――その裁き/義は単に『あらゆる人にしかるべき分を与 える』だけではなく、社会の除け者、虐げられている人、弱者、孤児、寡婦に憐れみ、すなわち共苦の愛を示すことをも含む。」(ベイリー『中東文化の目で見 たイエス』より)この神様との関係の中で問われる時に、本当に「義」が強く「飢え渇く」ほどに求められます。逆に神様との関わりがないところでは、「ある 程度」だけ求められる、また「二重基準」で求められる、さらにはもう「義を求める」ことに疲れ、諦め、「この世では無理なんだ」と絶望してしまうというこ とさえ起こります。

 でもまた、こうして神様との関係の中で「義」を問われる時に、私たちは自分自身の「不義」「正しくないこと」を知らされるのです。さらには、私たち自身が、この世の大きな不義の中に組み込まれ、関わらされていることを、思い知らされるのです。
  「ジュネーブでのある八月の一日、ゆるやかな丘の上の公園、異国風の木々、何百年も立っている古い木々、よく手入れされた芝生に色あざやかな斑点を散らし たような花壇によって彩られた重々しい華やかさ、そして輝くような白さの中に一軒の別荘が浮かび上がる。―――私は―――この美しいものにすべてに喜びを 感じていました。そして、この別荘も公園も、ひとりのジュネーブの男によって作られたものであることを聞きました。その男は奴隷貿易によって財を得ていた のです。つまり私が驚いたのも、喜んだのも、歩き回ったのも、恍惚と魅力にうたれたのも、みんな人間が略奪され、荷物にされ、むち打たれ、収奪された事実 に基づくものでしかなかったのです。私が見た美しさは、全くの不正、残虐性の上に生い育ったものでありました! そして今、私は問います。私たちにとって今ここに喜びやさいわいや美しさがあるのも、それはただ私たちが、そこから利益を得ている涙や暴力行為や憎むべき ものに対して目が見えず、耳が聞こえなくなっているからだけのことではないであろうか。奴隷商人の公園にあって私がいささか悟ることができたのは、私たち 人間が秘かに、どんなに深く不正と関わりあっているかということでした。私たちは自分自身の前で、そして自分たちの回りに不正が起こっているという事実に よって、自分もまたどれほど生かされているかということでした。私はそのジュネーブの公園を呪わしい思いで立ち去ることはできます。しかし、依然としてこ の世の中に生き続けます。他者の犠牲によってこの世に生きるのです。―――たいていの人はこの事実を、もちろん目にとめていません。―――誠実に、正し く、おそらくは信心深くさえ生きていることでしょう。しかし、この不正がどれほど深い泥沼のようなものであるかに気づいていません。奴隷商人の公園から逃 げ出したところで、この泥沼から這い出すことはできないのです。今日、それは今までのいかなる時代よりもその点は深く、私たちはこの世の不正に参与せしめ られているのです。」(ボーレン『祝福を告げる言葉』より)
 でも、そうして神様の関わりの中で義を問われ、神様の前で自分たちの不義に気付かさ れ、思い知らされる時に、私たちは義を求め始めるのです。「飢え渇くように」、義を求め始めるのです。それは「ほとんど生理的苦痛を感じるほどに求める」 という意味なのだというのです。先日私はインターネットで1枚の写真を見ました。それは、泣いている女子高校生の写真です。彼女は、街を歩いている途中 で、韓国・朝鮮人の人たちに対するヘイトスピーチ・デモに遭遇しました。それを見て、彼女は泣いてしまったのです。「韓国紙の記者が女子高生にインタ ビューをすると、この女子高生は恐怖で泣いているのではなく、同じ人間なのに差別され罵詈雑言を浴びせられている在日の人々に同情し、警官隊がいながらこ のような悪質な差別が放置されていること対して『もうしわけない』、かわいそうだと泣いていたのだった。 」(「acaluliaのブログ」より)

  そのような人たちに向かって、イエス・キリストは語られます。「義に飢え渇いている人たちは、さいわいである。」そう宣言し、約束し、その約束を実現なさ るのです。「義に飢え渇いている人たちは、さいわいである。」なぜでしょうか。イエスは答えられます。「彼らは飽き足りるようになるであろう。」「彼らは 飽き足りるようになる、だから幸いなのだ。」
 なぜ、どのように「飽き足りるようになる」のでしょうか。ここでも、主語が隠されています。「自然 と飽き足りるようになる」のではありません。神が、神様こそが、その人たちを飽き足らせてくださる、義に飽き足りるようにしてくださる、罪と悪の世に対し て神様の正しさを示し、この世において神様の正しい業を成し遂げてくださるのだというのです。
 主イエスが語られるとき、その業はすでに起こり始 めています。イエスが語るとき、神の業はもう始まっているのです。神の義、神様の正しさ、それは、このイエスの生涯と道、その十字架の死と復活とにおいて 起こり、実現し、成し遂げられました。イエスは、この世とそこで生きるすべての人の不義、罪と悪を引き受け、担われ、そしてそれを克服されたのです。その 克服と勝利の紛れもないしるし、現われ、いやその実現そのものとして、十字架につけられて三日目にイエスは復活させられたのでした。
 その時、そ の結果として何が起こった、起こされたのでしょうか。「つまりイエスが墓から出て来られることによって、義の人間がこの地から出て来たということになるの です。神に対して正しい者である人間、高いところに挙げられた人間です。もはや不正に参与するのではなく、神の正しさに参与する新しい人間が生まれて来て いるのです。私たちすべての者は、洗礼を受けたのちには、このイエス・キリスト、この新しい人間に結びつけられているのです。私たちは、このキリストとと もにしっかりと大地を踏まえることができているのです。」(ボーレン、前掲書より)
 「義に飢え渇いている人たちは、さいわいである」、その「さ いわい」とは、新しい人間となる、神によって新しい人間とされて、新しい人間として生きるようになる、この幸い、この喜び、この力、この希望なのです。 「神の義は、人間の振る舞いに対する神の評価ではないからである。それはむしろ神による人間の更新なのである。存在と振る舞いとにおいて神にふさわしくな い者が、神にふさわしく、神によって整えられる者になる。」(ヴェーダー、前掲書より)またその「さいわい」とは、この神によって「新しい世界」が来る、 「義の住む新しい天と新しい地」が来るという約束をいただき、その救いの時に向かって、尽きず朽ちない希望を抱いて生きることがゆるされるという幸いなの です。

 本当に幸せな人は、その幸せを日々に、また常にかみしめ、それを表して生きるものです。イエス・キリストによって「さいわいであ る」と言われた人たちは、日々にそれを表し、かみしめて生きたいと願うのではありませんか。「飢え渇きは当然一つの行為を伴います。神に人間においてその 義を全うされることを求めて飢える者、人間が神においてその義に至ることを求めてかわく者は、この義のために何かをすることでしょう。正しいことをするの です。神にとって正しいことをするのです。そのとき、自分は断片的にしか行いえないことを知ることでしょう。自分の義ではなく、神の義が明らかになるべき ことをわきまえているのです。―――飢えかわくことは、人間の中に潜んでいた気づかなかった力を呼びさまします。思い切ってする勇気を与えるのです。」 (ボーレン)それは、あの「神を恐れぬ、不正な裁判官」に向かって、諦めずに、粘り強く、そして相手を圧倒するまでに求め願い続けた女性の後に続くような 道かもしれません。
 そのとき私たちは、きっと今以上に、自分の不義を知るでしょう、自分の弱さ・無力を知るでしょう。また同時に、自分の卑怯 さ・自己中心さ・醜さをも知らされるでしょう。でも、私たちは決して落ち込むことも、座り込むことも、立ち去ることも必要ありません。なぜなら、だからこ そ私たちは義を求める、神様が恵みによって与え実現してくださる義を、飢え渇いている者のように、飢え渇くまでに求め始めることがゆるされるからです。私 たちにいつも呼びかけ、私たちを常に招き導き、すべての日々に私たちと共にいてくださる方、イエス・キリストがおられます。イエスは今日も語ってください ます。「義に飢え渇いている人たちは、さいわいである。その人たちは飽き足りるようになるであろう。」

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  主イエスの御言葉は、神であるあなたへ、あなたの義、あなたの愛へと向けさせます。その時に初めて、私たちは自分自身の不義と、この世の不義とを知らされ ます。しかし主は言ってくださいました。圧倒的な不義の中から、「義を求めて飢え渇く者はさいわいだ」。イエスが私たちに先立ち「新しい人間」として復活 されました。イエス様はこの命、この道、この生き方を、この私たちにも与え、歩ませてくださいます。この恵みを信仰によって受け取りつつ歩んで行く、私た ち信仰者一人一人また教会としてください。
まことの道、真理、命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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