柔和、弱くて強いイエスの道              マタイによる福音書第5章5節

 
 「えっ」「ぎょっ」という言葉が続いてきた、イエス様の「山上の説教」の「八福(八つの幸い)」ですが、ようやくわかりやすい言葉が来た、のでしょうか。
 「柔和な人たちはさいわいである。」「柔和」と言えば、多くの人は「穏やかな、優しい人」と思うのではないでしょうか。それならば、「そういう人はまさにさいわいだ」と同意できるのではないでしょうか。
  でも、調べて行きますと、イエス様がここで言われた「柔和」というのは、どうもそれとは随分違うようなのです。この「柔和」というのは、「貧しい」という 言葉と深い関連があるそうなのです。なぜ「貧しい」かと言いますと、それは「苦しめられている」「圧迫されている」からです。「自分から貧しい」「自然と 貧しい」というよりも、他の人たち、特に力ある者たちから圧迫され、奪われ、苦しめられているので貧しいのです。だから、この「柔和な人たち」は、「苦し められている人たち」という意味にもなります。そこからさらに発展して、この「柔和」は、「権威や権力がない、無力である、弱い、みすぼらしい、つまらな い、意気地のない」という意味合いをも持つようになるそうです。
 だとすると、「柔和な人たちは幸い」という言葉には、随分いろいろと疑問が出て来るということになりそうです。

  なぜならば、この世では、「力を持ち、力を振るう人たちが、地を受け継ぐ」というのが、「常識」であり、多くの人々の「本音」でもあるからです。「つま り、『地は暴力を振るう人々のもの』です。―――柔和な人々が損をし、貧乏くじを引かなければならず、押しのけられる、こんなに明白で、分かり切ったこと はありません。反対に、ずうずうしい人やわがままな人は成功し、出世します。緑の草の生い茂る野原や肥沃な耕地、住まいや商売に適した立地条件の良い土地 を所有するのは、このような人たちです。」(リュティ『祝福される人々』より)
 イエス様がこの地上を生きられた時代もまた、今と同じくそのよう であったのです。「ローマ皇帝、ヘロデ王家、エレサレムの神殿祭司のガリラヤ農民に対する収奪は過酷で、税を払いきれない自作農は借金のかたに畑を奪わ れ、日雇い労務者に転落し、奴隷に売られ、あるいは路傍に野垂れ死にします。イエスのたとえ話には、自分を雇ってくれる人を待って、ひねもす広場に立ちつ くす、こうしたアナヴ(柔和な人)たちが登場します。」(山浦玄嗣『イエスの言葉』より)「頼るべき公的システムが腐敗し切っている現実があります。その 巨大なシステムを前に、無力を痛感させられる庶民の現実があります。」(山口里子『イエスの譬え話2』より)

 そのような社会、そんな世 界の中で生きるときに、一つの大きな誘惑があり、それによって多くの人々が動かされて行きました。「そうか、所詮この世は力なのか、力ある者が勝ち、地を 受け継ぐのか。ならばこちらも、力には力だ。あの思うがままに力を使い、権力を振るう者たちに仕返しをしてやりたい、復讐してやりたい、やっつけてやりた い。」そのようにして、武力を帯びて立ち上がり、ローマ帝国に反抗する、そのためには暴力・闘争も辞さない、そういう人々の一団があったのです。「熱心 党」「ゼロテ党」と言います。
 そういう人々が沸き起こり、そういう言葉と行動が広く見られるようになる中で、そういう世界の中にあって、イエス・キリストは言われました。「柔和な人びとはさいわいである。」「怒りに任せて、暴力に訴えない人たち幸いだ。」
  それはいったいどんな人なのか、それはそもそも誰なのか。イエス・キリスト自らがこう言っておられます。「わたしは柔和で心のへりくだった者である」。そ うです、イエスご自身こそが「柔和な人」なのです。主はその「柔和」を、一つの象徴的行動によって示されました。それは、イエス様が都エルサレムに入城さ れた時です。人々は、「力によるメシア」を期待していました。圧倒的な力、強さ、武力をもって、悪のローマ帝国を打ち破り、滅ぼして、正義の国を打ち立て る軍事的・政治的な王・救い主をです。けれども、イエス様は、あえてその期待に答えず、全く逆のイメージによって入城されのです。主は、戦車や軍馬に乗っ てではなく、ろばに乗って、しかも未熟で弱い子ろばに背に乗ってやって来られたのです。マタイの福音書は、この時「柔和な方が、ろばの子に乗って来られ る」という旧約聖書の預言の言葉が実現したのだと語りました。
 「柔和な人」、それはイエスです。ゲッセマネの園で捕らえられた時、弟子の一人 が、イエス様に向かって来る人々の一人に切りかかってその耳を切り落としてしまいました。しかし、主は「剣を収めなさい、剣を取る者は剣で滅びる」と言っ て、その人の耳をいやされました。イエスは、以前に「あなたの右の頬を打つ者には、左の頬をも向けなさい」と教えられました。さらには「あなたの敵をも愛 しなさい」と教えられました。囚われの身となった今、イエス様はまさにそのご自身の言葉を実践なさいます。「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめら れても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」(Tペテロ2・23)その終極は、無力さの極み、あの十字架の 死を遂げられたのです。

 しかしまた、そういう時代の中で、多くの人々は、また違った行動を取ったことでしょう。「そうか、所詮この世は 力なのか。ならば、力ある人たちには逆らわず、何も言わず、何もしないことにしよう。仕方ないさ、私たちは無力なんだから。」そう言って口をつぐみ、手を こまねき、ひたすら擦り寄り、屈従し、忖度する、そういう人々が多数だったことでしょう。そういう人々に向かって、「柔和な人たちは幸いだ」と、イエス様 はおっしゃったのでょうか。これまたどうも違うようです。もしそういう教えをされたのなら、イエス様はこの世の君たちから十字架につけられることもなく、 むしろ「いいことを言ってくれた」と歓迎され喜ばれたことでしょう。この「柔和な」という言葉について、ある人がこんなことを言っているそうです。「真に 柔和な人とは、ふさわしい根拠に基づいて、ふさわしい人に対して、ふさわしい仕方で、ふさわしい時に、そしてふさわしい時間怒る人のことである。―――神 に忠実な信徒が神の正義の秤を用い、その秤の基準で不正の正体を暴く時、怒ることは確かに正しい。その神聖な正義の基準を用いる人々こそ(神の御前に)柔 和な人、すなわち神の義のならんために奮闘努力し、そうすることで地/大地を継ぐ人々である。」(ベイリー『中東文化の目で見たイエス』より)主イエスこ そ、その人であり、主は「柔和に」、力・暴力・権力によらず、非暴力によって、対話によって、愛によってこの世に訴え、この世の罪のあり方とそこに生きる 人々の生き方とを変えようとなさった方でした。
 「1950年代、アメリカ合衆国南部では、黒人は白人からことごとく差別されていました。バスの 中でも前が白人、後ろが黒人と決められており、しかも白人席がいっぱいになると、黒人は前から順に白人に席を譲らなければならないという法律がありまし た。しかしある日、モントゴメリという小さな町で、一人の黒人女性が、明らかに彼女よりも若く、元気そうな白人男性のために席をたつことを拒否しました。 彼女の名前はローザ・パークス。彼女は運転手に怒鳴られ、逮捕されました。―――彼女の勇気ある行動から、黒人たちのバス・ボイコット運動が始まっていき ます。彼らは片道一時間以上もかけて職場へ歩いて行ったり、協力してくれるタクシーに相乗りをしたりしました。黒人たちはバス会社の態度を改めさせ、さら に法律をも変えるために立ち上がっていったのです。―――この運動は『無抵抗主義』と呼ばれることもありますが、『非暴力抵抗主義』というほうがふさわし いでしょう。決して『無抵抗』ではなく、『非暴力』という手段によって抵抗しているのです。彼らは信仰によって現実を耐え抜き、闘っていきました。」(松 本敏之『マタイ福音書を読もう1』より)

 今、イエス・キリストは言われます。「柔和な人たちは、さいわいである。」「本当かな」と、 やっぱり思います。そう言っておられたイエス様ご自身が、最後はとうとう十字架につけられ、殺されてしまったではないか、と思ってしまいます。最も無力な 仕方で、すべてのものを奪い取られ、自分がいるための一点の場所さえも奪われて十字架の上に上げられ、最も屈辱的で、最も悲惨な仕方で死んでしまわれたで はないか。
 しかし、「天地は滅びるであろう、しかしわたしの言葉は滅びることがない」のです。「柔和な人たちは、さいわいである。その人たち は、地を受け継ぐであろう」なのです。十字架の死から三日目の朝、驚くべき逆転の業が起こされました。あのイエスが、無力と絶望のうちに十字架につけられ て死んだイエスが、神によって起こされ、引き上げられ、勝利のうちに復活させられたのです。そのようにして今や新しい命に生かされ、生きておられる復活の 主は、こう宣言されるのです。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威をさずけられた。」本当です、「柔和な人々は幸い、彼らは地を受け継 ぐ」のです。このお方イエス・キリストが、今私たちにも宣言し、約束し、この祝福を与えてくださるのです。「柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を 受けつぐであろう。」
 この「地」とは、この暴力と不正がはびこる地ではありません。神が創り来たらせてくださる「新しい地」「新しい世界」なの です。「私たちはこのヴッパータールの町の将来が神の都にあることを知っているのです。天のエルサレムが来たるがゆえに、天の栄光がこの町をも輝かすはず なのです。外の通りに立った時に思い出してください。神はこの一点の地をも愛しておられるのだということを。―――道路が縱に走るこの地、家々が茂みの ように生い立ち、工場の煙突が木々のように生え出ている地。この私たちの地が神の将来を持っているのです。この山々の地が神の将来を自分のものとしている のです。町も、田舎も、キリストが来られるがゆえに輝きと歌とに満ちているのです。」(ボーレン『祝福を告げる言葉』より)

 「柔和な人 たちは、さいわいである」。なぜならば、その人たちは、「神による新しい地」に向かって生きるからです。私たちも、イエス・キリストによって「柔和な者」 とされて生きるとき、本当に「幸い」「祝福」を知るのです。その人は、信仰と希望と、そして愛によって生きる、その喜びと力とを知るからです。「霊によっ て柔和な人は、地がキリストのものであると信じます。―――このような信仰を持ち続けるためには、絶えず戦い続けなければなりません。暴力を用いない人々 こそ戦う教会です。―――たとえ彼が負けたとしても、本質的事柄そのものが敗れることはありません。彼はそのことを教会の主から教えられています。――― 霊によって柔和な人は希望の人です。すなわち、その人は、将来がキリストのものであることを知っています。最後の言葉はキリストです。終わり良ければすべ て良しです。―――ですから、柔和な人は待つことができます。忍耐して待つことができます。―――彼は神の国の実が熟するまで、時が流れるままに待つこと ができます。―――柔和な人々の愛は、共に生きる人々に対して寛容な態度を示し、忍耐をもってその人々と接する中で示されます。―――最後に地を所有する のは、暴力を用いない人々の愛です。どこであろうと忍耐し、善をもって悪を克服し、愛に留まる人々は皆、そのことに安んじることができます。それこそが愛 の奇跡です。」(リュティ、前掲書より)
 「柔和」、それがイエス・キリストの道、私たちの命と救いの道なのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  イエス・キリストの「幸い」の言葉が、今私たちにも語られ、私たちを力づけ、導きます。この暴力の世にあって、その暴力に刃向かい、またすんなりあっさり と負けてしまう無力な私たちに向かってです。イエスこそこの十字架の道を行かれ、復活し勝利し、地を受け継ぎ、新しい神の地を創られる方です。このお方と 共に、私たち一人一人また教会が、この地においてあなたの愛と真実を指し示し、行い、生きて表わすことができますように。
まことの道、真理、命なるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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