悲しむ者は幸い?              マタイによる福音書第5章4節

 
 イエス様は、「わたしは剣を投げ込むために来た」と言われました。イエス・キリストの言葉は、私たちに驚きと、さらにつまずき、反発さえも与えるのです。今日の言葉は、まさにそうです。「悲しんでいる人たちは幸いである。」
  いかがでしょうか。私は前にもこういう題を付けたことがありますが、主イエスの言葉をそのまま肯定して、「悲しむ人々は幸いです」とは言えない、むしろお しまいにクエスチョンマークを付けて、「悲しむ人は幸いとは、いったいどういうことですか?」と問い返すところからしか始められないと思うのです。
 「悲しんでいる人たちは幸いである」、本当ですか。「悲しむことは不幸であり、わざわいであり、苦しいこと、出会いたくないこと」が普通ではありませんか。いったいどうして、イエス様はよりにもよって「悲しんでいる人たちは幸い」などと言われるのでしょうか。

  この難問を解くために、昔から多くの人々が、いろいろ考え、いろいろ語ってきました。その中にこういう答えがあります。「この悲しみというのは、『神のゆ えの悲しみ』なんだ、つまり神様の前で自分の罪を嘆き悲しむということなのだ、そういう人は『神様、助けてください』とかえって神様に近づこうとするか ら、だから幸いなのだ」。
 まあ、それも一理あるかもしれません。しかしそもそも、私たち人間の悲しみはもっと数と種類が多く、そしてそれぞれが底知れないくらいに深いのではないでしょうか。なにより、イエスご自身が、この「悲しみ」に何の限定も制限もしておられません。
  また、こういう考えもあります。「この悲しみというのは、『野辺送りの悲しみ』つまり親しい愛する人を亡くした悲しみなんだ、でも、キリスト信仰には、死 を超えた復活と天国の希望があるから、だから幸いなのだ」。まことに、その通りでしょう。確かにそれは、究極の悲しみ、また「果て」「限界」としての悲し みです。けれども、そこに行くまでに、私たちには幾多の、数え切れない「悲しみ」の数々が横たわっているのではないでしょうか。それは、いったいどうして くれるのだと問いたくなる思いを抑えることはできません。
 また、こうも言えると私は思います。「この世には、私たち人間の社会には、悲しまなけ ればならない悲しみ、しっかりと悲しむべき悲しみがある」。それは、この世の悪、権力の不正、社会の矛盾と不条理によって、不当に苦しめられている人々の 悲しみです。「勤労者や子どものために身を捧げたイギリスの高名なクリスチャン社会事業家の話を読んだことがある。彼が社会事業の働きに進むきっかけと なったのは子どもの時に目にした些細な事件であった。彼が町を歩いていると貧しい人の葬式にゆきあわせた。手押し車に粗末な棺桶が乗っていて、それを酔っ ぱらった四人の男が押していた。しかも下品な冗談や歌を口にしながら。坂道にさしかかると、棺桶が滑り落ち、中身が出てしまった。彼はこの光景を見て悲し み、『ぼくが大きくなったら、こんなことが再び起こらないようにするために、生涯を捧げよう』と自分に言い聞かせたという。」(横手聖書やすらぎ教会ホー ムページより)この四日市の町にも、かついてあるいは今も、公害という悪が行なわれ、それによって苦しみ悲しむ人々がいました。それらの悲しみから、私た ちは目をそらせてはいけないのでしょう。むしろ、その悲しみをしっかりと見て、それに正しく共感し、その悲しみの克服を祈り共に目指して行く、それはきっ と神の御心にかなうことであり、だから幸いなのでしょうか。でも、「幸い」どころか、私たちはそれらの悲しみの前でためらい、恐れ、逃げてしまうのです。 それらの悲しみはあまりにも重く、そして深いからです。

 いったい、「悲しんでいる人たちは幸いである」とは、どういうこと、そしてなぜ なのでしょうか。私たちは、自分であれこれ考えるより、なにより主イエスご自身の言葉を聞きましょう。主はこうおっしゃっています。「悲しんでいる人たち は幸いである。彼らは慰められであろう。」「彼らは慰められるであろう」、これがイエス様が出される理由であり、根拠であり、そして「幸い」の内容なので す。
 「彼らは慰められるであろう」。皆さん、この言葉が「受け身形」で語られていることに注目してください。「慰められるであろう」。「受け 身」ということは、主語があるはずです。実際の動作、行為の主体がいるはずです。それは、隠されているのです。あえて語られないでいるのです。それはいっ たい誰なのでしょうか。これは、この「山上の説教」の言葉の一つの特徴であり、また聖書の多くの他の部分でも出てくるのですが、これを「神的受動態」「神 の受動態」と言います。要するに、神様が主語なのです。それをわざと言わない、あえてはっきり言わないで、受け身形で表現する。神様への尊敬と遠慮を表わ すためにです。
 でも、はっきりと言葉に出して言われていないけれど、この言葉の主語、主体は明白です。それは神様なのです。イエス様はこう言い たいのです。「神様だ、神様が、神様こそが、悲しんでいる人々、ありとあらゆる悲しむ人々を、ありとあらゆる悲しみのただ中で、慰めてくださる、その人た ちは慰められる、だからかれらは幸いなのだ」。

 神様が、神様こそが悲しむ人々を慰めてくださるのです。ある人々は「悲しむと私たちが神 様に近づけるから」と言いましたが、そうではないのです。私たちが神様に近づくのではなく、神様が、神様の方から私たちに近づいて来てくださるのです。私 たちの罪も、そしてなにより私たちが決して避けることのできない死と別離も、私たちには大いなる悲しみです。そしてその以前に数え切れない幾多の悲しみ、 世の悲しみがあります。しかし、それらのすべての悲しみの中で、私たちは決して孤独に一人なのではない、あなたは見捨てられているのでもない、その私たち に向こう側から近づいて来てくださる方がある、そのあなたを確かに慰めてくださる方がある、とイエス・キリストは語られるのです。「『慰める』と訳されて いるギリシャ語はパラカレオーです。パラは『そばに』、カレオーは『招く』という意味です。パラカレオーは『そばに招き寄せる』というのがもともとの意味 で、泣いている人を自分のそばに引き寄せて、シッカリと抱きしめるという意味です。―――神さまはそんな哀れな人間のそばにいつもしっかりと寄り添ってい てくださる。共に涙を流し、その袖でやさしく涙をふいてくださる。泣き叫ぶ者をそのあたたかな懐にシッカリと抱きしめてくださる。やさしいお手で肩をなで さすり、慰め、励まし、元気づけてくださる。神さまとは、そういう方なのだ!と、イエスは叫んでいるのです。」(山浦玄嗣『イエスの言葉』より)

 その、私たちに近づいて来られる神、それこそイエス・キリストその人です。イエスは神のもとから悲しむ私たちのところに来て、そしてイエスご自身も大きな、深く、底知れず計り知れない悲しみをとことん味わい、経験されました。
  それは、人間すべてが真の神から離れている、真の命と幸いの源である神から離れているという悲しみでした。それは、その罪ある人間同士が、互いを苦しめ、 苦しめられて、悲しみ合っているという悲しみです。それは、信頼していた人たちからも裏切られ、捨てられるという悲しみでした。そしてついには、父なる神 様からさえも見捨てられたと思うほどの悲しみだったのです。イエス・キリストはその道を、この世の罪と悲しみを担って行く十字架の道を歩み通して、私たち のすべての悲しみをも担い、克服し、そして神の勝利をもって復活させられたのです。
 この方が、今悲しんでいる私たちに向かってこう語り、こう宣 言し、こう約束してくださるのです。「悲しんでいる人たちは、幸いである。彼らは慰められるであろう。」「うすっぺらな笑いに包まれている世界にあって 『「悲しむ者は幸いです』というそのことば自体に慰められるような気がする。」なぜなら、このお方がおられるからです。この苦しみと悲しみに満ちたこの世 界のただ中に、このお方がいて、こう語っていてくださるからです。「悲しんでいる人々は幸いである。」「キリストは悲しみを引き起こす一切のものから私た ちを慰めることができる。だから、私たちは神の前に、キリストの前に、自分を良く見せる必要はない。自分をとりつくろう必要はない。悲しみを隠す必要もな い。キリストのもとに来て悲しむ者は幸いである。悲しむ姿でキリストのもとに行こう。」(横手聖書やすらぎ教会ホームページより)
 そうです。だ から、「悲しんだらだめ」ではないのです。「悲しむようなことがあってはならない」でもないのです。また、「悲しむことは自己責任」でもなく「だれかのせ い」でもなく、「悲しみは仕方がない」のでもありません。「悲しんでいる人々は幸いである。彼らは慰められる」のです。「神がその人たちを慰めてくださる のだ、その人をこのわたしが慰めるのだ」と語っていてくださるからです。

 ならば、この方がおられるのならば、おられるのですから、私た ちの生き方と道が変えられていきます。イエスが「悲しむ者は幸い」と言ってくださるのなら、私たちはとことん「悲しむ者」とされることができます。自分の ことを、他者のことを、私たちの社会と世界こと、そこで生き苦しむ隣人のことを、とことん悲しむことがゆるされます。それで「傷つくのではないか、落ち込 み、立ち直れなくなるのではないか」と恐れることはないのです。「慰められるであろう」、私たちには、いつもどんなことの中でも慰め、立ち上がらせ、生か してくださる方がおられるのですから。
 そして、私たちもまた、イエスと共に、イエスの後から、「そばに立つ人」「共に悲しむ人」とされていくの です。「第二の祝福の言葉はその壁を打ち砕きます。そして、私たちを悲しみを担う者、苦しみを負わされている人々へと導きます。私たちがその苦しみ、苦悩 を分かちあうためにです。ただともに苦しみ、ともに泣くという以外の何もできなかったとしても、そのことがすでに、私たちのために苦しみ泣いてくださった 方かがまた来てくださるのだということを示すしるとなるはずです。」(R.ボーレン『祝福を告げる言葉』より)「この約束、この慰めを受けた私たち、ひと りぼっちではないと知った私たちは、そのことを他の人たちにも伝えなければなりません。『私がひとりぼっちではないのと同じように、あなたもひとりぼっち ではないですよ―――』伝道とは、イエス・キリストを押し売りすることではなく、むしろこの事実、あなたはひとりぼっちではないという事実を通して、イエ ス・キリストが今も働いておられると、伝えることです。ひとりぼっちであると感じている人に向かっては、言葉よりもまず、その人のかたわらに立つことで す。」(松本敏之『マタイ福音書を読もう 1』より)
 「かたわらに立つ」、「慰めてくださる」、このお方がおられるのです。だからこの言葉は本当なのです。「悲しんでいる人々は、幸いである。」

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神よ、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  またも主イエスは、山上から驚くべき宣言と約束そして呼びかけの言葉を語られました。「悲しんでいる人々は幸いである」。このお方が私たちを愛するがゆえ に十字架につけられ、このお方が復活の主として今も共にいてくださるゆえに、私たちも少しはこの言葉を信じ始めることがゆるされました。この恵み、この祝 福、この喜びを心から感謝いたします。「わかっただけのイエスさま」、そのような信仰であり証しですが、どうか私たち一人一人、また私たちの教会をも、こ の御言葉、この救い主の証人また僕として、ここから送り出し、それぞれの場所と持ち場で豊かにお用いください。
まことの道、真理、そして命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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