鼻息弱き者への福音              マタイによる福音書第5章1〜3節

 
  皆さん、今日は、イエス様の「第一声」です。イエス様が、山の上で、群れ集まる人々を前に語り始めた最初の言葉。「第一声」は大切です。なぜなら、もうこ こで「第一印象」が決まるからです。最初の言葉、最初の声を聞いただけで、人は多くのことを判断します。早い人は、もう「つまらない」とか「わからない」 と思って、聞くのをやめたり、帰ってしまうかもしれません。だからイエス様も、そのつもりで、この「第一声」では、一番伝えたい言葉、一番聞いてほしい言 葉を語ったはずです。言うならば、この「第一声」に、イエス様の宣教、そのメッセージのすべてが懸かっていると言っても、よいでしょう。
 イエス様の「第一声」、それはいったい何だったのでしょうか。
 それは、「幸いだ」という呼びかけであり、宣言でした。聖書の元の言葉では、この「幸いだ」が最初に来るのです。「幸いだ」、「幸い」、それがイエス様が一番伝えたかったこと、一番聞いてほしかったことでした。
  「幸いだ」、これを最初に聞いた人々は、思わず耳をそばだてたことでしょう。「幸いだって。幸いと言えば、幸せのことじゃないか。それは、ぜひ聞いてみた い」と思ったのではないでしょうか。「幸せ」、このことに関心や興味がない人はいないのではありませんか。誰もが「幸せになりたい、幸いになりたい」と 思っているのではないでしょうか。「幸せ」「幸い」、それは一体何だと、イエス様は言うのでしょうか。

 この「八つの幸い」あるいは「九 つの幸い」は、イエス様の最初のまとまった言葉なのですが、ここは、このように読み取ることができると思います。ここには、一つの決まったパターンがあり ます。「誰々は幸いだ、なぜならその人たちはこうなるからだ」。つまり、「幸い」の内容が、後半の「こうなるからだ」によって説明されていると見れば良い のです。すべての後半の「こうなるからだ」が、「幸い」の性質と内容を明らかにしているのです。「こうなったら幸いだ。こうなることが幸いだ。こうなるか ら幸いだ」と言っておられるわけなのです。

 ではイエス様は、いったいどうなることが「幸い」だと言われるのでしょうか。主はおっしゃいます。「幸いだ、天国は彼らのものである」。「幸いとは、天国がその人のものとなることである。」
  では、いったい「天国」とは何なのでしょう。よく私たちの間では、「天国」というのは、「死後の世界」で、「人が死んだ後安楽に過ごすことのできる場所」 というように取られています。これはクリスチャンに限らず、いやクリスチャン以上に一般の人たちが、そう思い、そう表現しているようです。なぜか、演歌の 歌詞に「天国地獄」というような文句が出て来るくらいです。
 ところが、イエス様の言う「天国」、聖書で言う「天国」は、それとは少し、あるいは ずいぶん違うもののようです。聖書において「天」とは、神様のことです。「神」と言うと、あまりにも直接的で失礼なので、「天」と神様がおられる場所のこ とを言いながら、神様ご自身を婉曲的に指し示すのです。その証拠に、このマタイ福音書で「天国」と言っているのは、他の福音書ではおおむね「神の国」と なっています。つまり、「天国」とは、「神の国」のことなのです。
 では、神の「国」とは何なのでしょうか。「日本語で『国』といえば、一定の位 置と面積を持つ国土を思い浮かべます。ですから『天の国』というと、雲の上のどこか、あるいは死後の異次元の世界か、そこに一定の神聖な国土があっ て・・・・と考えます。でも、それはイエスの真意とはちがうらしいのです。これはギリシャ語の『(神さまの)バシレイア』の訳で、動詞バシレウオー(取り 仕切る)の名詞形です。本来―――『神さまのお取り仕切り』とするほうがことば本来の意味です。」(山浦玄嗣『イエスの言葉』より)
 「天国」、 「神の国」とは、「神様のお取り仕切り」です。「神様のお取り仕切り」、神様の支配と導きがある、それは内容的には神の愛と真実がある、もっと具体的に動 きを伴って表現すれば、「神様に愛され、神様に支えられ、神様に導かれること」と言えるでしょうか。イエス様は、「あなたをどこまでも愛する方がいる、あ なたをどんなときも支える方がいる、あなたをあくまでも最後まで導く方がいる、それは神様だ、そういう神様があなたのために、あなたと共におられること、 これが幸せ、これが幸いなのだ」と言われるのです。それだけでなくて、この「幸い」を、宣言し、約束してくださるのです。イエス様が言葉が語られ、イエス 様の言葉が聞かれるそこに、もうすでに「神の国」が来るのです。「神の国」の力と支配と働きが及び、始まって行くのです。

 では、イエス様が「神の国の幸い」を宣言し、約束してくださるその相手、それはいったいどんな人なのでしょうか。ここで私たちは、大いに驚き、そしてある意味では「ギャフン」となるのです。「ええっー」と、驚きと、時につまずきの叫びを上げるのです。
 イエス様はこう言われるからです。「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである。」なんと、「幸い」とされるのは、「心の貧しい人たち」なのです。
 「心の貧しい」の「貧しい」ですが、これは「貧しい」中でも「極貧の」という意味です。「貧しい」中でも、最低クラスの貧しさです。何一つ持たず、乏しさの極みにある者、自分には何の良きもの、価値あるものを持たない人ということです。
  ここで実は、このマタイという福音書記者への批判が、古来ありました。ルカの福音書では、単に「貧しい者は幸いだ」となっていたのに、マタイは「心の」を わざわざ付けて、世の中の現実的・社会的な貧しさから目をそらして、狭く「心」の事柄に押し込めてしまったというのです。はたしてこの批判は当たっている のでしょうか。
 この「心」ということ、「心の(が、において)貧しい」ということについて、こんな説明があります。「これは直訳すると、『プネ ウマに関してよわよわしい人』という意味です。プネウマというのは基本的に『風』のことで、同時に『息吹・呼吸・生命・心・心臓』でもあり―――ですから 『プネウマに関してよわよわしい人』とはことばの最も具体的な意味において『鼻息の弱い人』のことです。金もない。力もない。地位もない。健康にも恵まれ ない。貧乏に打ちひしがれて、望みもなく、頼るものとてなく、神頼み以外には残された道もなく、吐くため息も弱々しげな、そういう人びとのことです。」 (山浦、前掲書より)その反対は「鼻息の荒い人」ですね。「鼻息が荒い 意気ごみがはげしくて、まわりのひとを問題にしない」。(『三省堂国語辞典』)財 産や地位や権力がある人たちの多くは、まさにそのように生きています。だから、「鼻息の弱さ」「心の貧しさ」は、物質的・社会的な貧しさと大いに、密接な 関係があるです。

 イエス様の時代もまた、そういう人々が数多くいました。「人生はすべて因果応報の結果で、幸せは神の掟に従った報償、 不幸はその人の罪による天罰だとして、(現代の私たちの社会なら『自己責任』と言うでしょうね)、この世のあらゆる不幸な人々を罪人として断罪します。貧 者、病人は差別され、軽蔑され、のけ者にされます。力ある者だけが富み栄え、弱い者は人権を剥奪されて残酷な鞭のもとに苦しみます。イエスの育ったガリラ ヤ地方はそうした世界の縮図でした。―――人民は三重の支配のもとで喘いでいました。神殿政治を支えるための神殿税、領主ヘロデ・アンティパスに納める 税、ローマ帝国の重税・。さらに中間搾取階級が策略を弄して人々をしぼりあげ、自作農は次々に零落して小作となり、日雇い労働者となり、奴隷に落ちぶれ、 巷には乞食があふれ、飢えて死ぬ者が街道に満ちていました。―――「地の民」と呼ばれと人々は貧苦の中で虫けらのように生きていました。」(山浦、前掲書 より)
 そんな中でこそ、まさに「心が貧しく」なるのです。「人は、厳しい現実、先に光が見えない生活苦の中に長くいると、自信も失いがちです。 そして心までギシギシとゆとりを失い、自分より更に弱い立場に置かれた人々の辛苦や生活を思いやることが出来なくなってしまうこともあります。搾取・差 別・困窮の長期間の本当の恐ろしさは、そのような自己崩壊にあるかも知れません。」(山口里子『イエスの譬え話1』より)「山谷の問題は、山谷に来る人々 の個人的な問題ではない。『零細農家の食い詰めや中小企業の倒産と、そこから来る家庭崩壊』『労働条件(衣食住も含めて)の劣悪さが、いかに人間を物的の みならず精神的にも頽落させるか』。山谷の問題は、社会構造に原因があるが、結果は体だけでなく『深く個人の人間性を破壊する』。『人間の本来持っている 虚無・無秩序・破壊本能などがあらわになる』。」(伊藤之雄牧師の言葉、山口前掲書による)そんなふうにして「心が貧しくなる、極貧にされる」、心がぼろ ぼろになり虚しく無力になる。

 しかしイエス・キリストは、その人たちに向かって、まさにその人に向かって宣言し、約束なさるのです。 「心の貧しい人たちは幸いである。」「天国、神のお取り仕切りはその人たちのものである。」「頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ。神様の懐にシッカリ と抱かれるのはこの人々だ。」(山浦玄嗣訳)
 「それは、まさにそういう人のところへ主イエスが近づいて来られるからです。そういう人々のところ にこそ神の言葉は入ってきます。主イエスは、『私はあなたの貧しさを知っている。その貧しさをそのままにはしておかない。―――それを満たしてあげる』と 語られたのです。ですからこの言葉は主イエスの約束の言葉であって、ことわざや処世訓ではありません。―――主イエスは、私たちの貧しさを顧みて、私たち の貧しさの中に入って来られました。ご自身が徹底的に貧しくなる道をお取りになリました。枕する所もなく、財産もありませんでした。そして最後には十字架 におかかりになりました。」(松本敏之『マタイ福音書を読もう1』より)「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、 主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」(Uコリント8・9)

 この主イエスの御言葉を聞いた者たち、それが私たちの教会です。恵みによって聞かせていただき、不思議にも少しでも信じさせていただいた者たち、それが私たちなのです。「心の貧しい者たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。」
  イエス・キリストは「山の上に座して」この言葉を語られました。しかし主は、いつまでもそこに座ったままではおられません。立ち上がり、この言葉をさらに 広く語り、伝え、この言葉を行い、そしてご自身がこの言葉を生きるために出かけて行かれます。私たちのために十字架にかけられ、そして復活された主は、今 もこの宣言と約束の言葉をたずさえて、私たちに先立って出かけ、そしてこの世のあちこちで働き、神の国の完成を目指して前進しておられます。私たちもその 後からつき従い、主によってその愛と恵みによって救われ生かされた者として、力いっぱい仕えさせていただきましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  御子イエス・キリストは今山の上に座して、この上ない、驚くべき宣言と約束を語られます。「心の貧しい者たちは幸いである。」この世にはそのような「貧し さ」、ありとあらゆる「貧しさ」が溢れ、自らの貧しさに苦しみ、この世の呆れるばかりの「貧しさ」によって苦しめられる人々が限りなくおります。主イエス は今もそのような世において歩み、働いておられます。私たちもこの主の言葉に聴き入り、そしてこの主と共に出て行き、この主の後から従い仕える一人一人、 またその教会としてください。
まことの道、真理、命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る