その人たちは夢を見る              ヨエル書第2章23〜32節

 
 今日は、教会の三大祝日の一つペンテコステです。神の霊である聖霊が、イエスの弟子たちに注がれて、イエス・キリストへの信仰が確立され、イエスを信じる群れである教会が始められたことを喜び祝うのです。ペンテコステおめでとうございます。
 そこで今朝は、旧約聖書から、その「神の霊が注がれる」ということを語り約束していたとされる言葉を、共に読んでみましょう。

  預言者ヨエルが、どの時代、いつ頃活動したかということは、全く不明です。でも、ヨエルの時代には、一つの著しい出来事が起こりました。それは、いなごの 襲来という、大規模な自然災害です。「かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食 い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。」(1・4)「いなごの害」、それはこの地域にしばしば起こるもののようです。「古代のみな らず現代においても、エルサレムとその周辺地域はいなごによる荒廃の危機にさらされてきた。1915年の春、エルサレム、パレスチナ、及びシリアは、いな ごの襲来による恐ろしい土地の荒廃に悩まされた。二月の末に北東からいなごの大群がその地に飛来しはじめ、『太陽の光が突然さえぎられたことで、いなごに 対する注意が喚起された』。飛来したいなごの数は莫大であり、それは野や丘の中腹を埋め尽くした。いなごはそこをおびただしい数の卵で覆った。―――いっ たん孵化すると、新たな群れが一日120から180メートルの割合で地表を移動しはじめ、その通り道にある植物は一本残らず食い尽くされるのである。」 (クレイギ『十二小預言書T』より)だからヘブライ語には、「いなご」を表わすいろいろな言葉があるのでしょう。何か歌の文句のような調子ですが、起こっ た事態は深刻です。地域の産業と生活は壊滅的な打撃を受けました。

 この時、預言者ヨエルは神様から呼び出され、使命を受けました。それは、イスラエルの民に警告して語るという役割です。
  ヨエルは、このいなごの害は、実は将来起こる顕著な出来事の前兆であると言います。それは、「いなごのように襲来して、国を侵略する民、その軍隊」の前兆 なのです。「一つの国民がわたしの国に攻めのぼってきた。その勢いは強く、その数は計られず、その歯はししの歯のようで、雌じしのきばをもっている。彼ら はわがぶどうの木を荒し、わがいちじくの木を折り、その皮をはだかにして捨てた。その枝は白くなった。」(1・6〜7)
 それだけではありませ ん。この一連の出来事は、「主の日が来る」ということの前兆なのです。「ああ、その日はわざわいだ。主の日は近く、全能者からの滅びのように来るからであ る。」(1・15)「国の民はみな、ふるいわななけ。主の日が来るからである。それは近い。これは暗く、薄暗い日、雲の群がるまっくらな日である。」 (2・1〜2)それは、従来は「主なる神様が人々に近づき、やって来て、光と喜び、救いをもたらしてくださる日」のようにイメージされていました。しかし 今、預言者は「違う、全く反対だ」と言うのです。「主の日」、それは暗闇と絶望の日、裁きと災いの日だと言うのです。

 決して、「災害の 原因が人々の罪や社会的不正である」というわけではありません。「罪の罰として、この災いが起こったのだ」というのは、全く正しくありません。しかし預言 者は、神の導きの中で時を見分け、時を告げるのです。そのように災いが来て、生活に打撃を与え、今までの暮らしが立ち行かなくなる時、それは自分たちの生 き方や社会のあり方を振り返り、罪や不正があるならばそれを反省し改めて、新しい生き方と道を選び直す、良いチャンスの時となるのだ、ということではない でしょうか。
 ヨエルは預言者として神様によって呼び出されて、「今がその時、今こそその時だ」と悟りました。そこで彼は、人々に悔い改めを呼び かけるのです。「あなたがたは断食を聖別し、聖会を召集し、長老たちを集め、国の民をことごとくあなたがたの神、主の家に集め、主に向かって叫べ。」 (1・14)「主は言われる、『今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂 け』。」(2・12)災いによって、もともと人々の心は痛み、裂け、ぼろぼろになっていたことでしょう。しかし、そういう自然に裂けた心を、今や自覚的に 裂きなさいと言われるのです。「なんてひどいことが起こったのだ。いったいこれは誰のせいだ。神様のせいか。それなら神を信じるなんて意味があるのか。」 と、他者や神様を責めるように心を働かせるのではなく、むしろ「これを機会に、私たちは生き方を省み、新しい生き方と道を選び直すべきではないか」と問い 始めなさい、ということではないでしょうか。

 実際、イスラエルに罪や不正はあったのでしょうか。「あった」と思います。他の預言者たち が、それを鮮やかに指摘しています。また、このヨエルの言葉を聞いている私たち、私たちの時代、また私たちのこの世界、私たちの社会、私たちの国に罪と不 正はないのでしょうか。そんなことはありません。きっとあります。罪や不正の中で苦しめられている人々の叫びが、神様のもとへと昇り、届いているのです。
  アフリカにナミビアという国があります。ドイツの植民地として支配され、その後二十世紀の後半長らく南アフリカという隣国によって不法支配をされていまし た。天然資源に恵まれているため、これを獲得したいという大国の欲望にさらされたのです。南アフリカは、自国で行っていた黒人差別アパルトヘイトを、ナミ ビアでも行ったのです。その最中に、ナミビア福音ルーテル教会牧師のゼパニヤ・カメータさんは、このような叫びを、「現代の詩篇」として神に向かって祈っ ていました。
 「なぜ、なぜ、主よ
あなたはご存じです。主よ、何が起こっているか、この瞬間に―――。確かにあなたは私の兄弟の心をご存 じです。彼らの日々の苦しみを、遠く離れた、広大な、寂しい森林地帯において、羊の間で。あなたはご覧になっています、彼らが侮蔑され、無視され、わずか な金だけが支払われていることを。―――穴の中の底深く、そこで彼らは奴隷とされています。ただ同然で。―――なぜ、おお、なぜ、主よ。なぜ、あなたは私 たちを創造されたのですか。あなたは私たちを、ただ撃ち殺されるために造られたのですか。―――私たちは『バース(白人雇用主)』の裏口に みすぼらしく 立つように定められているのですか?―――あなたが私たちを創造されたのは、『はい、ご主人さま』とか、『はい、奥様』と言いながら生きるためなのです か?―――なぜ、おお、なぜ、主よ、あなたは私たちを創造されたのですか?」(リチャード・ボウカム『聖書と政治』より)

 ヨエルによっ て促されてイスラエルの人々が心を裂き心を変える前に、実は主なる神様の方が心を変え、その道を変えてくださいました。「その時主は自分の地のために、ね たみを起し、その民をあわれまれた。主は答えて、その民に言われた、『見よ、わたしは穀物と新しい酒と油とをあなたがたに送る。―――』」(2・ 18〜19)「わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年を わたしはあなたがたに 償う。」(2・25)
 さらに加えて神様は、終わりの時に起こる、究極的な救いの約束、解放の言葉を、預言者ヨエルによって語ってくださいまし た。「その後わたしはわが霊を すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を 見る。その日わたしはまた わが霊をしもべ、はしために注ぐ。」(2・28〜29)
 来るべき日に、主なる神は、神の霊、慰めといやしの霊、解放 と救いの霊を、すべての「肉なる者」に注いでくださる、その意味はすべての生きる者に注いでくださるという意味です。神は、とりわけその中でも、「心砕け た者」、「心が裂け、心に傷を負っていもの」、世の有様その罪と不正を嘆き自ら心を裂いている者に、その心の裂け目に、ご自身の霊を送り注いでくださるの ではありませんか。この時神は、とりわけこの世で軽んじられている者、「むすこ、娘、老人、若者」そしてなにより「しもべ、はしため」、つまり奴隷とさ れ、奴隷のように扱われている者たちに、真っ先に霊を注いでくださるのだというのです。神の霊が注がれる時、それはすべての差別、すべての抑圧、すべての 搾取、そしてすべての不正が取り除かれ、克服される時、神の国の到来し始める時となるのです。
 この神の約束は、イエス・キリストが十字架につけ られて三日目に復活させられ、それから五十日目、あのペンテコステの朝に実現し、その道が開かれ、始まりました。「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、 奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」という言葉が語られ始め、それを信じ、この道によって 生きようという人々が起こされたのです。

 神の霊が下る時、人は夢を見るようになるのです。神の業がこの地上でなされ、神の御国がこの地に来たるという夢を。
  「私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫とが、兄弟愛のテーブルに共に着くことができると いう夢が。私には夢がある。いつの日かミシシッピ州が、不正義の熱にうだり、抑圧の熱にうだっているこの州でさえ自由と正義のオアシスに変えられるという 夢が。―――私には夢がある。いつの日かまさにそのアラバマで、小さな黒人の少年と黒人の少女が、小さな白人の少年と少女と、兄弟や姉妹のように手をつな ぐことができるという夢が。―――私には夢がある。いつの日かすべての谷が高くされ、すべての丘と山が低くされ、でこぼこの地が平地とされ、曲がった道が まっすぐにされ、主の栄光が現され、すべての肉なる者が共にそれを見るという夢が。」(マルティン・ルーサー・キングによる、ボウカム前掲書より)
  ナミビアのカメータ牧師もまた、神による夢を見せられつつ、この詩篇を歌うのです。「私たちの勝利が夜のたいまつのように輝く日が来るとき、それは夢のよ うだろう。私たちは笑い、喜び、歌うだろう。―――確かに主は私たちのために大いなることをしておられる。それゆえ私たちは苦しみの中でも幸いである。主 よ、屈辱と死の鎖を砕いてください。あなたが復活された栄光の朝のように。涙とともに正義と自由の種を蒔く者に、平和と和解の収穫を刈り取らせてくださ い。あなたの愛の道具として泣きながら出て行く者は、喜びで歌いながら帰って来るだろう。彼らは憎しみが消えたことを証しし、あなたの世界であなたの愛を 顕すだろう。」(ボウカム前掲書より)

 「その後わたしはわが霊を すべての肉なる者に注ぐ。」主なる神の霊が、私たちにも、私たちの心 の裂け目にも注がれます。私たちも「神による夢」を見せられ、その夢を語り、表し、届け、分かち合って行く者たち一人一人、またキリストの教会とされて行 くのです。「その日、わたしはまた わが霊をしもべ、はしために注ぐ。」

(祈り)
天地の主なる神よ。御子イエス・キリストによって、私たちすべての者を極みまで愛された神よ。
 あなたは預言者ヨエルによって聖霊の注ぎを約束し、あの日まさにその約束によってあなたの霊を、心傷つき心裂けていた者たちに注いでくださいました。
  あなたの霊を注がれた者たちは、この世にあって夢を見、幻を見ることが許されます。それは、あなたの御心がこの地においてなされ、あなた御業がこの地上に おいて成し遂げられるとの夢です。あなたの御業と御心は、イエス・キリストの十字架と復活において完全に示され、そこから始められ、完成に向かって急いで います。
 これを信じこれによって生かされた私たちもまた、あなたによって「夢見る者」とされ、それをこの世において示し表し、届け分かち合って行く者たちとしてください。
まことの世の救い主、導き手また完成者、聖霊を送り注いでくださる主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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