このイエスが天におられる              マルコによる福音書第6章34〜44節

 
  今日は、教会の暦、教会暦では、イエス・キリストの昇天を祝う日曜日であり、主の日の礼拝です。「昇天」とは、復活されたイエス・キリストが天に昇られ、 今も天におられる、ということです。だからと言って、イエス様が今も空中をふらふら漂っておられるというようなことではありません。「天」とは、聖書にお いては「神」を婉曲的に表す言葉です。だから、「イエスが天に昇られ、天におられる」とは、主イエスが神のもとに帰られた、神がおられる場所、神の位置に まで昇られ、神の力、神とまったく同じ力と権威を持っておられるということなのです。「マタイ福音書」の最後で、イエスが「わたしは天においても地におい ても、一切の権威を授けられた」と語っておられること、このことに他ならないのです。
 今日ご一緒に考え、共に聖書から聴きたいのは、そのような 力を持っておられる方は、いったいどのような方なのか、いったい誰なのか、ということです。「ヘブル人への手紙」はこう語ります。「イエス・キリストは、 きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」今天におられる方は、「きのう」、過去におられた方と同じ方です。「天に昇られた」からと言って、別の 人になってしまったわけではありません。今日共に読みます「マルコによる福音書」によれば、今日天におられる方は、あの二千年前ガリラヤで神の国を宣べ伝 えられたのと同じ方です。そしてあの時、五千人あまりの人たちを養われた方とまったく同じ方なのです。

 それでは、あの時語り、行動された方、そして今天において、一切の権威を持ち、この世界を支配し導いておられるのは、どのような方なのでしょうか。
  それは、何より、「深い憐れみ」の方です。今日の冒頭にこうあります。「イエスは舟から上がって大勢の群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有 様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。」「深く憐れむ」、これは特別な言葉です。それは「内臓」「はらわた」という言葉から来ています。「内 臓、はらわたが裂け、ちぎれるほどに人のことに共感し、憐れみ、連帯し、担う」という意味なのです。当時イエス様の前にいた人々は、「飼う者のない羊のよ うな」有様でした。ローマ帝国に政治的・社会的に支配され・抑圧され・搾取され、また神殿の祭司たちに宗教的に支配され軽んじられて、徹底的に弱り、身も 心もぼろぼろになっていたような、そんな人々であったのです。そのような人たちに対して、イエスはこの「はらわたを裂く」ほどの「深い憐れみ」を抱かれ、 それに押し出されるようにして、彼らを教え、彼らを助け、彼らを導こうとされたのです。
 今天におられる方は、今もこの「深い憐れみ」の方です。 このお方の「深い憐れみ」は、今や天から「一切」に、全世界にまで及んでいるのです。そして国や集団や、分野をも超えて働くのです。今イエスという方は、 ただ人の心の中だけに働くのではありません。人と人との関係の中に、すなわち社会の中にも働かれます。また、心や魂の問題だけに働くのでもありません。パ ンの問題、つまり私たちの生活の事柄、さらに言えば政治や経済の事柄に至るまで、このお方は関心を持ち、「深い憐れみ」を抱き、その憐れみに基づいて今も その教えと働きを続けておられるのです。さらに言えば、この方の「憐れみ」は、教会の壁をさえ超えて働いているのです。

 また、今天にお られる方は、「五つのパンと二匹の魚」、すなわち乏しいもの、少ないもの、小さいものを「手に取って祝福し、分かち与えてくださる方」です。「子ども」が 「五つのパンと二匹の魚」をささげたとき、別の福音書を見ますと、弟子たちはこう評価しました。「それがいったい何になりましょう。」それは、彼らが全く 評価しなかったももの、喜ばなかったもの、受け入れなかったものでした。彼らの目には、「小さいもの、乏しいもの、つまらないもの、価値のないもの」だっ たのです。
 しかし主イエスは、今それを「手に取って」くださるのです。弟子たちが「それが何になりましょう」と言ったもの、「何の役にも立たな い」と軽んじ、捨てたもの、それを主はあえて拾い、再び手にとってくださる、それは何という恵みでしょう。しかも主イエスは、その手に取ったものを「感謝 して」くださいます。「神様、これはなんとすばらしいのでしょう。ここに、あなたが注いでくださる祝福はなんと豊かなのでしょう。これを用いてあなたがし てくださる御業は、なんと恵みに満ちているのでしょう。」そう語り、そう祈り、そう献げて「神のもの」としてくださるのです。
 そして、こうして くださるのです。「イエスは五つのパンと二ひきの魚をとを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また二ひきの魚もみ んなにお分けになった。みんな者は食べて満腹した。そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。」主イエスが手に取って、感謝 し、与えてくださるもの、それは驚くほど多くの人々を生かし、救い、そしてなお余りあるのです。
 このイエスが天におられるのです。今天におられ る方は、今もあの時と同じ方です。今も、弱いもの、小さいもの、乏しいもの、「価値がない」とされるものを、あえて「手に取り、感謝して」、祝福し、分け 与えて、多くの人々を満たし、生かしてくださる、そのような方として、今も天において働き、天から支配と導きを与えていてくださる方なのです。
  そして、イエスが天から与えてくださるもの、それは何よりイエスご自身の体であり、命であり、愛なのです。私たち教会は、この言葉を、毎月行っている「主 の晩餐」と結びつけて聞きます。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取れ、これはわたし のからだである』。」「われわれのなすべきこと、それは数を頼み、力を頼んで党派を組み、その勢いをもって社会変革をなすことなのではない。手の中にある 無に等しいもの、それを神は奇跡的に用いられて人々の危機を救われる。―――それでは、その手の中にあるものとはなにか、イエスご自身はそれを自らのたっ たひとつの命と考えられた。そのたったひとつの命を差し出すこと、それこそが奇跡を生みだし、歴史に残る救いの働きを生み出す。」(加藤潔『イエスを探す 旅』より)このお方の働きも、今も続いている、いや天からさらに力強く行なわれ、さらには終わりの完成を目指して進められているのです。

  さらに、今天におられる方、それはあの時と同じく、「あなたがたの手で食物をやりなさい」と、弟子たちを呼び出して、ご自身の働きに関わらせ、働かせてく ださるその方であられます。イエス・キリストは、天から「独裁政治」をなさるのではありません。その働きと業を仲間と共に、あえてその「仲間」の中に、こ の私たちのような小さい者、弱い者、罪と過ちに満ちた者たちをも呼び出し、招き入れ、立てて、送り出して、イエスと共に働く者たちとして用いてくださる方 なのです。
 「君たちの手の中にあるものを差し出しなさい。小さな愛、小さな命、小さな奉仕の心。だれの目にとまらず、表彰されるでもなく、しか し君たちの手の中には命がある。愛がある。それこそが、それのみが神の国を築くのだ。」「私たちの手の中には、さまざまなものが握られています。喜びと悲 しみ、明るさと闇、希望と絶望、命と死、そして愛と憎しみ。―――私たちの手の中には憎しみがあり、嫉みがあり、人を馬鹿にして喜ぶ悲しい習性がありま す。しかし、たとえ僅かで、自覚しえぬほど小さくとも、神は私たちの手の中に愛を宿されたのです。その愛のみが、人の生命を救い、歴史を救い、人間世界に 希望を作りだすのです。」(以上、加藤前掲書より)

 加藤柳子という方の生涯と信仰について紹介がされています。「大正十二年、1923 年9月1日、関東地方一帯を大地震が襲いました。関東大震災と言います。記録によれば地震の規模はマグニチュード7.9。被災者400万人、家屋全壊12 万7000戸、死者、行方不明者14万3000人、負傷者10万3000人、東京の下町は特にひどい被害を受けました。 母(加藤柳子)はその中で自分の 母親を亡くしました。親も家も失われ、生活のすべてが崩壊したのです。その時、母は、一生涯の師と仰いだ賀川豊彦に出会います。賀川豊彦はすでに神戸の下 町、当時は貧民窟言われていた地域に入り、伝道と救済の仕事をしていましたが、関東大震災の知らせを聞くや、直ちに東京に向かい、陸路が閉鎖されていたの で船を使って東京に入ります。―――そしてまず、震災で焼け野原になった東京下町に天幕を張り、弟子たちと被災者救済を開始します。彼の活動は単に物資を 供給するだけでなく、住民の保健、教育など、生活全般の救済にも取りくみます。また、震災によって、私の母のように生きる希望を失った人々の心のケアも視 野に入れた活動に力を入れ、天幕での伝道を開始し、やがてその活動は『神の国運動』と呼ばれるものへと発展していきます。―――母の話によれば、焼け野原 をさまよっていた時に『編み物教えます』と書いた紙が貼ってあるテントがあって、生きていくためには、まず何か仕事を覚えなければとその中に入った。そし て、編み物と一緒にイエス・キリストを教えられ、53名の受洗者の中のひとりして生涯をイエスに捧げる告白をした。その時、年齢14歳。」
 その 加藤柳子さんが、路傍伝道の折に毎回のように皆で歌い、暗記してしまっていた歌に讃美歌234番があったというのです。「一番、昔主イエスの播きたまい し、いとも小さな命の種、芽生え育ちて地の果てまで、その枝をはる木とはなりぬ。神の国運動とは、イエスの命をこの地上にあって育てていく運動なのだ、そ ういう意味でしょうか。二番、歴史の流れが古いものを押し流していく。大正から昭和にかけての日本と世界はまさに歴史のうねりが過去のものを押し流す時代 でした。1917年にはロシア革命が起きています。1920年代は世界的な恐慌が起きて、東北の農村から若い女性たちが都会に売られてきていました。その ような時代の苦しみを自分のこととして受けとめ、その中にイエスの愛の国を築く、これが『神の国運動』でした。三番、時代の風、思想の波、その荒れ狂う中 にも神の国は前進していくのだ。四番、かくして、やがて世界はひとつとなり、神の国を作るとのイエスの約束は果たされる。」(加藤、前掲書より)

  「はらわたを裂く深い憐れみのイエス」、「五つのパンと二匹の魚を手に取り、祝福されるイエス」、そして「あの弟子たちをあえて呼び出し、共に働かせてく ださるイエス」、このイエスが天におられ、このイエスが今も生きて、このイエスが私たちに先立ち、私たちと共に働いていてくださるのです。「わたしは天に おいても地においても、一切の権威を授けられた。」このお方によって、やがてまもなく「神の国」は到来し、完成されます。「世の終わり、神の国の完成のそ の時まで、見よ、私はいつも、すべての時々にわたって、あなたがたと共にいるのである。」

(祈り)
天におられる私たちの神よ、御子イエス・キリストにおいて私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 今や御子イエスは、天に昇られ、あなたの右の座に、天においても地においても一切の権威を授けられて、この私たちの世、全世界を治め、導いておられます。その恵み、愛と真実に基づく支配と導き、そして助けを心から感謝し、御名を賛美いたします。
  二千年前に生きられ、語り働かれたのと全く同じ方として、今も私たちと共にあり、私たちに働きかけ、私たちをも用いてくださいます。この恵みと呼出に答え て、私たち信仰者一人一人とその教会もまた、私たちの手にある「小さいもの」「乏しいもの」をも、恐れずためらわずに主イエスの御手にささげ、委ねて、信 じて、期待して、また全力で従い、仕えて行くことができますよう励まし、力づけ、お導きください。
まことの道、真理そして命なるイエス・キリストの御名によって、切にお祈りいたします。アーメン。

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