交差する祝福               創世記第48章8〜20節

 
  今日の箇所は、「視聴覚教育」です。なぜなら、「神の祝福」というものを、見える形で示しているからです。それは、「交差する」形です。ヤコブの腕が、今 エックスの字のように「交差している」のです。これが、「祝福」の形です。皆さんも、「『祝福』と言ったら、この形なんだ」と覚えていただければ良いと思 います。

 さて、ヤコブの生涯も終わりに近づきました。彼ヤコブという人は、神の祝福の力と道とを、いやというほど味わい知った人でし た。「ヤコブは、祝福というものが自分に対して持っている力に常に驚かされている。何年もの間彼は、ヨセフは死んだものとばかり思い続けてきた。けれども 今、死を前にした最期の時、彼はヨセフばかりか、ヨセフの息子たちとも一緒にいる。」(ブルッグマン)
 ヤコブ自身の生涯がそうでした。彼は、自 分の欲望と罪のために家にいられなくなり、流浪と苦労の生活を長らく送りましたが、神の祝福は、約束通り彼を故郷に連れ帰りました。また、ヤコブの子ども たちの生涯においても、神の祝福は力を発揮しました。ヤコブの息子たちの間に、恐ろしい争いが起こりました。末の息子ヨセフが偏愛されることを妬んだ兄息 子たちが、ヨセフを陥れ、奴隷として売り飛ばしてしまったのです。兄たちは「ヨセフは死にました」と嘘をついていました。しかしヨセフはエジプトの国に売 られましたが、そこで試練をくぐり抜けて、大臣にまで上り詰めていたのです。ヨセフはエジプトの人たちを大飢饉から救い、さらには父とその家族をも救った のです。ヤコブの家族は、エジプトに移住することになりました。これらの働きと道を、神の祝福がすべて導いたのです。

 今このヤコブの波 乱の生涯も終わりに近づきました。ヨセフは二人の息子に、神の祝福を受け継がせたくて、父のもとに連れてきたのです。今ヤコブの前には、ヨセフの二人の息 子マナセとエフライムとがいます。ヤコブは、この孫たちを見て、神の祝福の力をますます知り、それを彼らに受け継がせたいと切に願ったことでしょう。 「『彼らをわたしの所に連れてきて、わたしに祝福させてください』。イスラエル(ヤコブ)の目は老齢のゆえに、かすんで見えなかったが、ヨセフが彼らを父 の所に近寄らせたので、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。」
 ところで、ヨセフは父ヤコブの前に、その子どもたちを次のように置き、進ませたの でした。「ヨセフはエフライムを右の手に取ってイスラエルの左の手に向かわせ、マナセを左の手に取ってイスラエルの右の手に向かわせ、二人を近寄らせ た。」これはどういうことかと言いますと、古代イスラエルでは「右」がいい方向、優れた方向、偉い方向であったことを理解すれば、すっきりとわかります。 ヨセフの息子たちは、マナセが兄・長男、エフライムが次男・弟です。ヨセフは兄・長男であるマナセを、父の「右の手」の方に持って行きたくて、自分から見 て左側にマナセを進ませたのでした。兄マナセに、よリ良い方の、より優れた方の祝福を受け継がせい、またそれが世の中の伝統と常識と秩序にかなっており、 自分でもそれを望みそれが当然だと思って、そうしたのでしょう。
 私は、この光景を見るときに、人間のどうしようもない変わらなさと頑なさを見る 思いがするのです。あのヨセフでさえこうするのか。あのヨセフでさえ、神の逆転と逆説に基づく、神の祝福と救いの業を自ら直接的に経験しながらなお、自分 の子どもたちには、この世の伝統と習慣と秩序に従って祝福を受けさせようとするのか。イエス様が弟子たちに嘆かわしくおっしゃった通りです。「まだわから ないのか。まだ信じないのか。」

 しかし、ここに目を瞠るような振る舞いと出来事が起こされました。ヨセフの父ヤコブ・イスラエルは、突 然このような行動を取ったのです。「すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、こ とさら手をそのように置いたのである。」この箇所を別の訳は、まさに「交差して置いた」と言い表しています。神の祝福は交差するのです! こうしてイスラ エルによる祝福は語られ始めます。「わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、生まれてからきょうまでわたしを養われた神、すべての災からわたしをあがなわ れたみ使よ、この子供たちを祝福してください。」
 けれどもヨセフは、この光景と有り様が不満でした。それでこう働きかけます。「ヨセフは父が右 の手をエフライムの頭に置いているのを不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭に移そうとした。そしてヨセフは父に言った、『父よ、そう ではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください』。」それはあたかも、後にイエス様の十字架の予告を聞いて、弟子のペテロがこう言っ たかのようです。「主よ、そんなことがあってはなりません。」
 しかし父イスラエルは、この申し出と願いを拒否します。「父は拒んで言った、『わ かっている。子よ、わたしにはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大いなる者となり、その子孫は多 くの国民となるであろう』。こうして彼はこの日、彼らを祝福して言った、『あなたを指して、イスラエルは、人を祝福して言うであろう、「神があなたをエフ ライムのごとく、またマナセのごとくにせられるように」』。このように、彼はエフライムをマナセの先に立てた。」
 そうです! 神の祝福は交差するのです。神の祝福は、かつてエサウではなくヤコブを選んだように、また兄たちではなくヨセフを助け導いたように、今また兄マナセではなく弟エフライムを先に立て、よリ大きく祝福するのです。

  神の祝福は交差し、神のやり方は交差し、神の道は交差するのです。それが交差するとき、ヨセフがそうであったように、人は「不満に思い」ます、その気持ち が逆なでされます、その場の「空気」が乱され、この世の順番と秩序は覆され、伝統と習慣は根本から問い直されるのです。神の祝福は「空気を読まず」、遠慮 せず、「忖度しない」のです。
 「ヤコブは拒む。彼が拒むのは、この神が帝国の要求するところに対抗して、イスラエルの助産婦をお選びになる神だ からである。彼が拒むのは、この神がサウルをものともせず、ゴリアトを気にも留めず、そしてダビデの兄弟たちにもはばかることなく、ダビデと共に歩まれる 神だからである。ヤコブが拒絶するのは、この神がついには、足の不自由な人々、目の不自由な人々、貧しい人々、重い皮膚病を病む人々の一群をお導きになっ た、十字架につけられたお方に伴われるからである。その一群の人々とは、長子権、功績、理性の主張するところによってつまはじきにされてしまっているすべ ての人々を包含している。そしてヤコブが拒むのは、自分自身の生が、神によって与えられた驚きだったからである。―――我々は、歴史を再形成される神の隠 された力に直面しているのである。」(ブルッグマン)「交差する」、それが神の祝福の形なのです。

 作家大江健三郎さんの息子光さんは、 生まれつき重い知的障害とてんかんを負って誕生されました。今彼は、作曲家としての才能を表し注目を集めているということですが、その家族の歩みは、決し て平坦なものではなく、大江さんは「私は光という子どもと自分とが、生命の側にあるというよりは、両方とも死んだ人間の側にいると感じていた」とおっ しゃったそうです。
 その光さんと家族に、一つの転機が訪れます。「光さんは、生まれてから六年間、人間の言葉を発することがありませんでした。 母親が話しかけても黙っている。人間の言葉にまったく関心がなかったと言います。聞くことはできた。でも、聞くのは鳥の声のレコードだけ。鳥が『ホーホケ キョ』と鳴く、するとアナウンサーが『ウグイスです』と言う、―――そのレコードを、六歳までいつも聞いていました。その夏、大江健三郎は光さんと北軽井 沢の山の中に行き、光さんを肩車に乗せて森の中を歩いていました。そのときクイナという鳥が鳴いたのです。トントンと鳴いた。―――『そうすると頭の上の 息子が「クイナです」と言った。私は幻聴かと思いましてね、自分がなにか空想したのかと思った。しかし、鳥がもう一度鳴いたらいいと思った。そして息子が もう一度「クイナです」と言ったならば、―――そうしたら私の息子は人間の言葉を話す可能性があるんだなと思いましてね。―――そうしてもう一度クイナが 鳴きましてね、息子が「クイナです」と言ったんです』。山小屋に泊まった次の日の朝、大江健三郎と妻は朝の鳥たちが鳴くのを待ちました。シジュウカラ、コ ゲラ、ホトトギスなどが、次々と鳴く。光さんはそれらの鳥の名前を次々と言う。こうして大江光は人間の言葉を話す者としての一歩を踏み出したのです。」 (以上、加藤潔『イエスを探す旅』による)
 「死の世界にいる」、何一つ話すことも、意味のあることを始め、行い、成し遂げることもできない、そうとしか思えないその人をあえて、ことさらに選び、その人を通して祝福の御業を成し遂げ、そうして栄光を表わす、これが神の祝福であり、その力と道なのです。

  さらに、「交差する」、それはもう一つの似た形を連想させます。それは「十字架」です。イエス・キリストの十字架こそ、神の祝福が、この罪の世において余 すところなく現され、成し遂げられ、実現する、その必然的な形であったのです。苦難と不条理と逆説に満ちたイエス・キリストの十字架の道にこそ、神の祝福 があるのです。「取って食べよ、これはわたしのからだである。」「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわ たしの契約の血である。」「それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰に よって受けるためである。」
 私たち一人一人と教会もまた、この交差する祝福を受け、この祝福によって選ばれ、呼び出され、集められているので す。「兄弟たちよ、あなたがたが召しに注目してみなさい。すなわち、肉によって言えば、多くの者が知者であるわけではなく、多くの者が力ある者であるわけ でもなく、多くの者が生まれのよい者であるわけでもないのである。しかし神は、知者たちを恥じ入らせるために、この世界の愚かなものを選び出されたのであ り、また神は、強いものを恥じ入らせるために、この世界の弱いものを選び出されたのである。さらに神は、有力なものを打ち壊すために、この世界の生まれの よくないものや軽蔑されているもの、すなわち無きが如きものを選び出されたのである。」(Tコリント1・26
〜28、青野太潮訳、1996年)私たちは、この祝福の力と道に従って共に歩み、共に生きてまいりましょう。そして、お互いの間で、また多くの人々と共に、この祝福の喜びと希望を分かち合って歩みたいと切に願うのです。

(祈り)
アブラハム、イサク、ヤコブの神、弱小のイスラエルの民を選んで出エジプトの救いを与えられた神、御子イエス・キリストの父なる神。
 あなたの祝福は、この世で交差しています。あなたの祝福は、イエス・キリストの十字架の道となって現れ、成し遂げられ、貫かれました。
  この不思議な道を通して、弱い者、小さい者、この世で無きに等しいと軽んじられ排除されている者たちがあえて、ことさらに選ばれ、呼び出され、豊かに用い られます。私たち教会とその一人一人もまた、その末席を占める者として許され、集められ、置かれています。この恵み、この不思議を思うとき、私たちは感謝 と応答そして献身の歩みをしたいと切に願います。私たちをも用いて、あなたの祝福とその御業をこの世に表してください。
 どうか私たちの道をも、あなたの祝福と栄光を表わすものとして導き、お用いください。
まことの道、真理そして命なる救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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