祝福の十字架                創世記第27章18〜30節

 
 これは、神の祝福をめぐる、著しい物語です。ここには、不思議な、わからないことばかりがあります。
  ここを読んでまず抱く疑問は、「祝福というのは、不正な手段を用いても、たとえ嘘をついても、与えられるようなものなのか」ということです。イスラエルの 先祖、アブラハムの息子イサクには、二人の息子がおりました。兄がエサウ、弟がヤコブです。古代の人々は、祝福は父から子に、子から孫にというふうに、血 縁の関係を通して伝えられていくものと考えていました。しかも、兄弟の間にも順番とか秩序というものがあります。子は子でも、まず何より「長男」が優先さ れるのです。それでイサクもまた、長男エサウに祝福を受け継がせたいと考えていました。それに父イサクは、どちらかと言うと兄エサウの方を可愛く思ってい たのです。そういう愛情の偏りもありまして、イサクはエサウに対して、「お前を祝福してやりたいから、その前にお前の得意な狩りをして、捕まえてきた鹿の 肉を食べさせくれ」と語りかけます。エサウは意気揚々と出かけて行きます。
 ところが、この会話を盗み聞きしていた者がおりました。イサクの妻、 エサウとヤコブの母リベカです。母リベカは、夫とは対照的に、むしろ弟ヤコブの方を可愛がっておりました。そこでなんとかして弟ヤコブの方に祝福を受け継 がせたいと願っていて、彼女はヤコブを呼んで一計を授けます。「お前は兄エサウになりすましなさい。お父さんは目が霞んで見えなくなってきたから、お前は お父さんを騙しおおせることができる。兄より先に家畜の子やぎの肉を料理して父のところに持って行き、食べさせなさい。そうして、祝福を兄から奪い取りな さい。」ヤコブは不安をぶつけます。「お兄さんは毛深くて、私の肌は反対に滑らかです。お父さんは見えなくても、体に触ってみて、私を見破るでしょう。そ うしたら私は、反対に呪われるでしょう。」「大丈夫、この獣の皮を腕に貼って行きなさい。そうすれば、お父さんは気づかないでしょう。」
 こうし て、まんまとヤコブは父のところに先回りして出かけて行くのです。そして料理を食べさせ、頼むのです。「お父さん、私を祝福してください。」父は「少し変 だな」と思って尋ねます。「お前の声はヤコブのようだ。お前は確かに兄エサウなのか。」「そうです。」「私に近寄りなさい。お前の体を触って確かめよ う。」ヤコブは近づき、父に獣の皮を貼り付けた腕を触らせます。父は触ってみますが、気づきません。「声はヤコブに似ているが、腕は確かにエサウの腕 だ。」そうしてついに、兄エサウではなく、弟ヤコブを祝福してしまうのです。「ああ、わが子のかおりは、主が祝福された野のかおりのようだ。どうか神が、 天の露と、地の肥えたところと、多くの穀物と、新しいぶどう酒とをあなたに賜わるように。」
 いかがですか、皆さん。兄エサウを出し抜いて、兄に なりすまし、入念な変装を施し、嘘までついて父を騙し、こうして祝福を奪い取ろうとするのです。昔の人は、そうまでして神の祝福の実在と力とを信じて、そ れを切に欲していたということでもあるのでしょう。それでも、これほど不正な汚い手段を用いて、祝福を我が物にしようとしたのです。しかも、「それなら無 効」ということにはならず、神の祝福は確かに弟ヤコブのものとなるのです。「神の祝福が」ですよ。はたして、こんなことがあって、良いのでしょうか。

  二つ目の疑問は、「祝福というものは、二つとない、取替不能なものなのか」ということです。こうしてヤコブが祝福を受けて早々と父の元を立ち去ると、すぐ 入れ替わりのように兄エサウが狩りから帰って来ます。このタイミングがすごいと思います。エサウは、期待と喜びをもって、当たり前のようにして父に祝福を 求めます。「父よ、私を祝福してください。」これを聞いた父イサクは激しく動揺します。「では、あれは誰だったのか。」そうして気づき、エサウに言うので す。「ヤコブが私を騙して、お前の代わりに祝福を奪い、受け取って、行ってしまった。もうお前のための祝福は残っていない。」エサウは悲しみと絶望の叫び を発します。「そんな、お父さん、もう私のための祝福はないのですか。」「愛するわが子よ、残念ながら、私はヤコブを祝福してしまった。もうお前のための 祝福はない。」エサウは激しく怒り、絶望しながら、ヤコブに対する敵意と憎しみを募らせるのでした。
 どうですか、皆さん。「神様の祝福なんだか ら、気前よく誰にでもあげたらいいのに」とは思いませんか。でもこれを読むと、神の祝福とは、二つとないもの、取替のきかないもの、それほど重みを持ち、 力を持っているものなのだと知らされるのです。でも、それは私たちには、ある意味大きなつまずきではありませんか。

 そして、さらなる私 たちの疑問は、「神の祝福が、兄弟の間の憎しみ、争いを募らせ、ひいては家族を対立、離反させるのか」ということです。兄エサウの憎しみと怒りとは、つい に弟ヤコブに対する殺意にまで至ります。「父が死ぬ日が来たら、ヤコブを殺してやろう。」これを知った母リベカはヤコブを家から逃がします。自分の兄ラバ ンのもとにです。けれども、これが母と子の永遠の別れとなってしまうのです。こうしてヤコブは、寄る辺のない放浪者となって、長い苦しみの道を歩み始める のです。
 皆さん、こんなふうになって、神の祝福が与えられ、働いているのだと思えますか、信じられますか。そして、ヤコブの有り様は、とうてい神の祝福をいただき、受けた者の道とは思えないようなものなのです。それでも、「祝福を受けた」のだと信じ続けられますか。
 こんなふうに、神の祝福は、疑問を与え続け、つまずきをさえもたらし続けるのです。いったいここには、答えがあるのでしょうか。その答えとは、いったいどんなものなのでしょうか。

  答えはあります。確かにあるのです。しかしその答えは、とうてい私たちを納得させないようなものなのです。その答えとは、「それが神の祝福なのだから」と いうものです。「神の祝福なのだから、私たちの思い通りにはならない。神の祝福なのだから、人間の予想や願望や常識に逆らう。神の祝福なのだから、神の思 いのままに、わが道を行く。」
 「そんな」と、私たちは言うでしょう。しかし、そういうふうに神の祝福はわが道を行って、そうしてほかでもない神 の業を行い、成し遂げ、そのようにして、この世の秩序・常識・順序を逆転させ、ひっくり返すのです。そのようにして神の祝福はわが道を行き、神が「善い」 と思われることを成し遂げ、実現して行くのです。
 このことを、私たちはどう理解したらよいのでしょうか。ある方は言っています。「神の祝福と十 字架とは、深い関連がある」のだと。「旧約聖書においては祝福が十字架をもそのうちに包含しており、新約聖書においては十字架が祝福をもそのうちに包含し ている」。(ボンヘッファー)確かにその通りです。ヤコブは、祝福を受けたからといって、人間的・この世的に「いいこと」「嬉しいこと」「喜ばしい」こと ばかりを経験するのではないのです。むしろ彼は、神の祝福をいただいたがゆえにこそ、神が導かれる道を歩み、導かれるままに様々な苦難を負い、経験しなけ ばならないのです。

 それは、まさにイエス・キリストが、ご自分とその福音とを信じ、従おうとする者たちに教えられた通りです。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マルコ8・34)
  「イエスへの服従の外的しるしと内的精神が十字架であらねばならぬ理由は何であろうか。なぜ弁当箱であってはならないのか。蓋をあけると栄養たっぷりのゆ で卵―――スイス産チーズのスライス、ニュージーランド産ラム肉の厚切り、およびグリーン・レタスが現れる弁当箱と、ホット・コーヒーの入った魔法瓶では だめなのだろうか。イエス・キリストのために度を越して工夫を凝らした、カロリー高く、使い勝手の良い、海外にも知られた、テクノロジーの粋を尽くし、食 材が注意深く詰め込まれた弁当箱ではだめなのか? 持ち運ぶのに便利な把手つきの、かっこいい弁当箱で、しかも軽い。こんな気の利いた、実益豊かな、心身ともに強靭にしてくれる弁当箱にしたらどうか。 ―――ここで言う弁当箱は、われわれ人間の工夫の才、霊的および心的活力、強力かつ実質的な神学、善い誠実な考え方、注意深い(すなわち国際的な、技術の 粋を尽くした)計画、および信仰へのわれわれの聖なる献身を象徴している。」(小山晃佑『十字架につけられた精神』より)
 でも、だめだというの です。「十字架でなければ」というのです。「それにしても、よりによって十字架を担えとは!イエスに従いゆく際、われわれは何という重い、ぶざまな、士気 を挫くような物を担って行かなければならないのか!それでは、われわれの歩みがのろくなるばかりではないか。われわれの内面に迫害コンプレックスを植えつ けることにならないか。われわれをことさら真剣にさせ、神経質に、神経過敏に、感情的にさせるあまり、ノーマルな日常生活のペースに適応できなくさせはし ないであろうか。十字架を背負い、しかも十字架を担って先立つ師の後について行く人の姿を想像して見たまえ!なんと滑稽な行列、見世物であることか。『思 うに、神はわたしたち使徒を、死刑を宣告された者さながらに、捕虜の群れの最後尾につく者とされたのである。なぜと言って、われわれは世間や天使や人々の 見世物にされたのだから』。」(同上)

 それはいったいなぜなのでしょうか。それは、神の祝福、イエス・キリストの福音が、本当に神の御心を果たし、神の業を行い、私たちとこの世の人々に対して神様が本当に「善い」と思われることを成し遂げるためです。
  「イエス・キリストが福音(よろこび)であるのは、イエス・キリストが私たちの欲望や願望を充足してくれるからではありません。たとえ私たちの欲望や願望 に逆らっても、イエス・キリストが私たちを真実なものとして立たせてくれるが故に、福音なのです。それ故、この世の秩序の中に、肉の欲望の支配の中に、罪 と死の中にどっぷりつかっている者にとって、イエス・キリストの福音は『無』です。彼ら・彼女らの論理、意識、感性にとって、福音は何物でもありません。 ―――まさに躓きの石そのものです。今日の社会において、イエス・キリストの福音が疎外されているという事実はむしろ当然です。今日の社会は、神を排除す ることによって、神に言葉を語らしめないことによって、つまり沈黙を強要することによって成り立っているからです。―――しかし、それにもかかわらず 『無」に見える福音がなくてはならないのです。しかも異物であるままで、それを中和したり、この世的に換骨奪胎したりするのではなく、この世の秩序に亀裂 を生じさせる本来の鋭さのままで、なくてはならないのです。―――イエス・キリストにおいて、われわれは根本的にわれわれを刺し貫く神の言葉に出会うので す。」(北村慈郎『食材としての説教』より)

 神の祝福、十字架を必ず内に含み、伴っているその祝福が、今ヤコブに与えられ、彼を通して 周りの人々へに広がり、及んで行こうとしています。それと同じように、いやはるかにそれ以上に、同じ神の祝福が、イエス・キリストによって、この私たちと その教会にも届き、始まり、進んで行こうとしています。私たちには理解できず、もうとうていついて行けないと思われることもあるでしょう。しかし私たちに は、神が先立ち、復活のイエス・キリストが共におられ、共に歩み、共に生きてくださいます。神の善き御心がなされ、神の善き計画が実現して行くのです。こ のことを信じさせていただき、このことを希望のうちに常に持たせていただきつつ、共に歩み、共に仕えてまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父よ、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  あなたの不思議で力強い祝福は、アブラハム、イサクを通して、今罪人そのものであるヤコブに与えられ、受け継がれました。この同じ祝福が、イエス・キリス トを通して、この私たちにも、私たちにこそ与えられ、委ねられています。私たちには十分わからず、信じることもできませんが、あなたが先立ち、共なり、善 き御心と業とを成し遂げてくださいます。あなたを信じて従って行きますから、どうか私たちと教会とを、一歩一歩励まし、導き、お用いください。
まことの道、真理、命なる救い主イエス・キリストの御名によってアーメン。

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