神の祝福が開く                創世記第12章1〜4節

 
  私たちの教会の、今年度の主題に従って、毎週のメッセージの箇所を選んで行きます。今年度の私たちのテーマは、「主に聴き、主を信じて、共に語る教会」で す。今年私たちは、「共に語る」ということ、イエス・キリストの福音を語り、伝えることを中心として活動して行きます。何を聴き語るのか、それは、副題に あります「祝福、喜び、平安」です。そこで、まずは私たちが聴き信じ語るべき内容である「祝福」と「平安」について、半年間聖書から共に聴いてまいりたい と思います。そして今日からしばらく、旧約聖書の創世記を通して「神の祝福の力と道」というテーマでお話をしていきます。

 小説や映画ま たアニメなどを見ていますと、「アフターもの」と呼べるような設定の作品がいくつかあるように思います。「何々の後の世界」ということです。例えば、「核 戦争後の地球」というものを舞台に設定したものがありました。「世界規模で恐れていた核戦争が起こってしまった、破滅的な状況が世界を覆っている、そこで 人間はどう生きることができるだろうか」といったような内容です。
 そういう意味で言えば、この箇所はまさにそういう所です。その舞台が、「洪水 後の世界」ということであるからです。その意味は、「呪いを受けた世界」ということです。ここの少し前に出て来る「ノアの洪水」の主人公ノアのお父さん は、こう言ってノアの名前を付けたとされています。新共同訳でお読みします。「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろ う。」「ノア」という名前は、「慰め」という意味なのです。
 これは、「洪水前」のことです。もうその頃から「我々は呪われた大地に住んでいる」 という思いが人々の間に広まっていたのです。「私たち人間は、祝福の源である神様から離れ、背いたがために呪われ、幸いのうちに生きることができなくなっ ている。」神様とのその御心を喜べないところから、人間がお互いをも喜べず、受け入れ合えないことが起ってくる。一人一人が、またお互いが共に良く生きる ことをできなくする力、そういう言葉と行動、それが「呪い」の力です。この「呪い」のもとで、カインは弟アベルを殺し、レメクという人は「何かを自分にさ れたら、俺はその七十七倍の復讐に生きてやる」と言ったのでした。
 そんな世界に慰めをもたらすような人に育ってほしいと願われて生を受けたノア の時代に、あの「大洪水」は起ってしまいました。恐ろしい洪水が襲ってきて、すべてを破壊し、流し去ってしまいました。それが、どれほどの深い傷とひどい 打撃とを人々の心と体と関係との中にもたらしたかは、とうてい言い表すことはできません。
 しかし、そんな中からもなんとか立ち上がろうとして再 開された人類の歩みは、またも神様の前に挫折しました。「バベルの塔を立てて、その頂を天にまで届かせよう、私たち人間の力を向上させ発展させて、自分た ちとこの世界を助けよう」との計画は、神様によって頓挫させられ、すべての民は全世界にばらばらとなって散らされて行ったのです。「洪水後」、さらに「バ ベル後」の、ますます「呪われた大地」、それがこの話の舞台です。
 私たちもまた「後の時代」に生きていると言えると思います。特に私たち日本に住む者たちは、「二つの11の後」に生きているのです。
  一つは2001年に起きた「9・11」。あれをきっかけにして始まったアフガニスタン攻撃、そしてイラク戦争をから引き続いている一連の出来事の中で、私 たちはこの世界が「憎しみと復讐の連鎖」の中に否応なく置かれていること、私たち自身もまた、その世界の中で決して正しくない所に身を置いていることを思 い知らされ、無力感と罪の責めの中で深く傷つき、今に至っています。
 そして六年前、2011年の「3・11」。大地震とここから始まった原発事 故は、本当に大地を著しく損ないまた汚しました。その中で「被災地」の人々はもちろん、この国に住む数多くの人々の心と体は打撃を受け、深く傷ついていま す。そして私たちの心は、「この後、どう生きていったらよいのだろう」という戸惑い、恐れ、不安に満たされています。それだけではありません。この大事故 を「なかったことにしよう」という勢力とその動きが力を振るって来たのです。その結果、言葉へとの信頼が失われ、倫理的な退廃が社会を覆っているように強 く感じます。それは、まさにあの「洪水後の世界」と重なり合うものではないでしょうか。

 しかし今日の御言葉が告げるのは、そんな世界のただ中で、神様の御業が今始まるのだということです。それは、神の祝福の業です。神の祝福が力をもってその道を歩み出し、神の御心と御計画を、今実行し実現しようとしているのです。
  けれども神様の祝福の業は、実に意外な道を行き、意外な方法を選びます。それは、「人を選ぶ」という方法でした。「全世界」が問題なのに、その中から一つ の家族を選び、さらにそこから「一人の人」を選ぶのです。随分と遠回りの、またまだるっこいやり方のようですが、これが神様の道なのです。しかも、神は実 に意外な人を選ぶのです。
 そんな「洪水後」の世界の片隅で生きる一組の家族がありました。かれらもまたこの世界の中で深く傷つきながら、しかも かれら独自の個人的事情の中で、喜びも希望もない毎日を過ごしていました。それは、メソポタミア地方に住む、アブラム(後のアブラハム)たちを息子に持つ テラという人の家族でした。三人の息子のうちの一人は、父よりも先に死んでしまいました。また長男のアブラムには、結婚した後もずっと跡継ぎとなる子ども が生れませんでした。いずれも、当時の価値観では、「呪い」のしるしだったのです。これを見て、この家族の人たちもきっと、「自分たちには将来がない、希 望がない」と思って暮らしていたのだと思います。
 しかし神様は、そんな家族のただ中へ、そこで生きている一人の人に向かって、こう呼びかけられ るのです。「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民と し、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう』。」
 今、神は一人の人アブラムを選びました。それは意外な 人、実に意外な人でした。未来のない人、将来の展望がない人、希望のない人でした。しかも弱さと欠点、さらには多くの罪と限界を持つ人でした。アブラハム は、後に「信仰の偉人」のように言われますが、実は「希望もなく生きていた、多くの欠点を持つ、ただの弱い罪人」であったのです。

 ここに、神の祝福が開き、進んで行く道が語られ、示されています。
  まず神の祝福は、人を選び、「呼び出す」のです。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」「呼び出す」ことは、ま た「断ち切る」ことでもあります。「出て、別れ、離れ、行きなさい」と言われるのです。それは、「あなたは、今までとは違い、世の中の常識や決まりとは違 う、新しい生き方を選び、新しい道を行きなさい」という意味でもあります。それはまた、「ちょっと変わってるね、いや、ずいぶん変わってるね」と言われる ような生き方を選ぶことでもあるのです。でも、そのようにして、神の祝福は、この「呪われた世界」に入って来て、始まり、進んで行き、その力と働きを果た すのです。

 また「祝福」は、「約束し」、将来を開き、希望を与えるのです。この短い箇所の中に、「祝福」「祝福する」という言葉が、5回も出て来ます。要するに、「あなたを祝福する」とアブラム、後のアブラハムに、神様はおっしゃったのです。
 「祝福する」、それは「よしとする」と言い換えることができるでしょう。「よしとする」、「よし」と言う、「あなは良いんだ」「あなたは大丈夫なのだ」と、神様はアブラムに言ってくださいます。
  それは、この「呪われた世界」りのただ中でということです。「よし」の反対は何でしょうか。「だめ」ですね。「呪い」の力は、「だめ」と言う力です。「だ めだ、だめだ、もうだめだ」、私たちは何か「悪い」と見え、そう思われることがあると、そう言います。世に戦争やテロが起こり、自然災害また人間による災 害と災難が起こると、また個人的な様々な出来事に遭って、そう言います。「だめだ、だめだ、もうだめだ」。
 しかし神様は、今アブラムに向かって こう言われるのです。「わたしはあなたをよしとする。過去に何が起こったとしても、今何が起こっているとしても、これから何が起こるにしても、わたしはあ なたによしと言う。あなたがどんな者であろうとも、どんなにひどく頑なで不真実で不信心な者であろうとも、そのあなたに向かってよしと言う。この『だめ だ、だめだ、もうだめだ』という言葉と行動と出来事に満ちているこの世界のただ中で、わたしはあなたによしと言う。それらの『呪い』の力に逆らって、その 力とたたかいながら、その力に打ち勝ち、その力を克服しつつ、わたしはあなたによしと言う。そして実際にあなたをよしとし、助け、『生きよ』と言い、あな たを生かす。」
 これが、アブラム与えられた神の祝福の約束でした。そしてそれは、パウロによれば、新約聖書でイエス・キリストによって、私たち 一人一人のためにも語られ、与えられているのです。「それは、アブラハムに与えられた祝福が、イエス・キリストにあって、異邦人に」、私たちすべての者に 及ぶためであった、と。「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。」

 そしてさらに、神の祝福は、使命と役割を与え、「送り出 す」のです。神様はアブラムに「あなたを祝福する」と言われただけではありません。それ以上のことを言われたのです。「あなたは祝福の基となるであろ う」。これは、もっと短くずばりと言うことができます。「あなたは祝福となれ」。「あなたは祝福になれ」、祝福の「何か」になれというのではないのです。 「あなたは祝福となれ」、「わたしの祝福そのものとなれ」、祝福
そのものとなって、そこで祝福そのものとして生き、そこを歩め。
 アブラ ムが生きるところで、人々は神様の祝福を聞き、信じ、そして受け取る事ができるのです。アブラムがいるところに、まさに神の祝福があるのです。そういうふ うにして、神の祝福はアブラハムによって、アブラハムを通してすべての人に、本当にすべての人に及んで行くのです。それは、実に不思議な約束です。アブラ ムは、欠点も弱さも罪も持っている、ただの人に過ぎません。しかしそんな彼が、神様の「祝福そのもの」とされる。それは、ただただ神様の力、恵みの働きで す。
 そして、それはまた、イエス・キリストによってこの約束を語りかけられ、そして信仰を通してそれをいただいた私たち一人一人のための約束でもあります。「あなたは祝福となれ」。信じられないような、しかし神様の真実な本当の約束なのです。

 何度かご紹介してきた、精神障碍者の人々が集い、生きる場である「べてるの家」、この「家」と共に歩んで来た浦河教会の出発もまた、多難に満ちた、将来も希望も感じ取れないものでした。
  「浦河町のある日高地方は、東京都の二・二倍の広さを持ちながら、管内人口は約八万人足らずという過疎地域である。当時は、道内で空港から最も遠く、失業 率、生活保護受給率、そして精神病有病率が際立って高い地域だった。―――そしてこの地域でもっともみじめなことは『七病棟』のお世話になることであり、 『七病棟帰り』の人たちを取り巻く地域住民の感情は最悪であった。特にアルコール依存症の背後には、アイヌ民族出身者への差別問題があった。―――しか も、浦河は、戦前の強制徴用で来道して十勝で強制労働に従事させられた朝鮮人が、戦後、日高山脈を越え、麓のコタン(アイヌ語で集落の意)にかくまわれ、 家族を形成してきたという歴史を持っている。そして、二重の差別をかかえながら生きることを余儀なくされてきた。そのような町の一角に、浦河教会はあっ た。―――浦河教会は、地域の中で、もっと弱く、小さく、遠ざけられ、生きることに困難を強いられていた人たちと出会うなかで、共に悩み、共に孤立し、共 に困難を強いられる歩みをたどることになった。」
 しかし、そんな「べてるの家」と浦河教会が、疲弊し傷ついた地域社会を癒し、助ける「祝福の 基」として導かれ、用いられていくのです。「町の片隅にある、牧師のいない教会堂に集う精神障害をかかえた当事者の『社会復帰から社会進出へ』をキャッチ フレーズにはじまった活動は、長い歳月を経て『べてるの家』の歩みとして結実し、今、静かに地域社会にあるひとつの存在感を持ちはじめている。誤解や偏見 の中身もだいぶ変わってきた。『精神障害者は恐ろしい』『べてるは得たいの知れないところ』という“誤解と偏見”がいつしか、相変わらずの金欠にもかかわ らず、『べてるの家はだいぶお金を持っているらしい』とか『次にあのビルを買収するらしい』というように変わってきた。そして『昆布も売ります。病気も売 ります』というキャッチフレーズにあるように、べてる流の生き方、ビジネスの仕方が、本やビデオとなって発売されている。―――さらにそれらが―――『べ てるの家』から全国各地に流通する時代が来るなどとは、だれも想像もしなかったことである。―――この二十八年を貫いてきた思いはただひとつ、『障害をか かえる当事者の体験のなかには地域社会が学ぶべき有用な生活情報、地域の再生に向けた知恵が集積されている』という実感であった。―――地域は、障害を体 験した市民の経験を通じて、地域社会を変革していくことができる。」(向谷地生良『「べてるの家」から吹く風』より)
 「あなたは祝福となれ」、「神の祝福として生きよ」、この約束と使命が、イエス・キリストにあって、私たち一人一人とその教会にも、確かに、ただ恵みによって与えられているのです。

(祈り)
アブラハムを選び、彼に呼びかけ、彼を呼び出されたイエス・キリストの父なる神様。
  あなたの祝福は、彼を通して、さらには何よりイエス・キリストによって、この私たちのところにまで届き、私たちにまた与えられ、委ねられました。どうか、 この恵みの約束と使命を受け、それに答えて、どうか私たちもまたあなたの「祝福そのもの」として生かされ、導かれて生き、仕え働き、用いられることがゆる されますよう、切にお願いいたします。
神の恵みとまことそのものでありたもう、救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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