復活の主が開かれる食卓で                ルカによる福音書第24章13〜32節

 
 イエス・キリストのご復活、心からおめでとうございます。
 けれども、この主イエスの復活への私たちの信仰、そしてそれに基づく私たちの喜びと希望は、いったいどこから来るのでしょうか。聖書が告げているのは、それは決して私たち自身からではない、ということです。
  今日ここに、エルサレムからエマオへの道を歩んでいるクレオパたち二人の弟子は、もうこの日の朝、復活の知らせを聞いていました。現にかれらは言っていま す。「わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当らないので、帰って きましたが、その時御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。」けれども、彼らはいまだなお、「悲しそうな顔をして」、暗い表情と 言葉の調子とをもって、激しく、しかし出口なく論じ合うばかりであったのです。それは、まさにこの私たちの姿であると、ある方は語っています。
  「彼らは、イースターの日を迎えたにもかかわらず、まだ受難週の続きを歩んでいるのです。―――私たちも、あの婦人たちやこの弟子たちと同じように、聖書 を通して、また教会の教えによって主イエスの復活を告げ知らされています。しかしそれを本当に確信をもって信じることができず、主イエスの復活の喜びに満 たされることができず、主の復活を記念する日である日曜日の礼拝に集いながら、なお受難週の中を生きているようなことがあるのです。」(藤掛順一氏)復活 の知らせを聞いていても、喜びと希望とをもって生きることができない。福音の言葉を繰り返し聞いても聞いても、不信と絶望の中を歩むほかはない、それが私 たちの偽らざる姿ではないでしょうか。

 しかし、ここに「福音」が語られます。そんな私たちに向かって、「よき知らせ」が語られるので す。「語り合い、論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。」そんな彼らの道のりに、復活の主イエスは近寄り、寄り添 い、共に歩かれるのです。この時、彼らが復活を信じ、復活の信仰に生きているかどうかということは、全く問題ではありません。むしろ、「彼らの目がさえぎ られて、イエスを認めることができなかった」のです。
 しかし、復活のイエスは、彼らに伴い、彼らと並んで、彼らと共に歩かれます。小山晃佑とい うタイを始めとするアジア諸国で働かれた日本の神学者が、「聖書の神は、時速5キロの神だ」と言っておられます。それは、水牛が歩き、人が歩く速度です。 神様は、飛行機や新幹線のように、飛んだり、飛ぶように走って行くのではありません。この神様は、あえてゆっくり、のんびり、そしてじっくりと歩いてくだ さる、私たち人間と共に、しかも聴き、学び、信じることの遅い者たちと共に、絶望的に信じることのできない者たちと共に、あえて近づき、寄り添い、共に歩 いてくださるのです。「牛車の歩みのごとき歴史を通して語りかける聖書の神」。「神は、己の民の心の思いを知り、『人はパンだけでいきるのではない』こと を教えるために、彼らと共に『この四十年間』荒れ野をさまよわれた。神は御自身が真実な方であることを十分にさとすために、なんという非効率な、まだるっ こしい努力を注いだことか。―――なぜ神は歴史の近道を走り抜くことで、民と共に『歴史を歩み通す』という業が引き起こすべての面倒、不便、非効率から免 れようとはしなかったのであろう。―――イエスは十字架から下りなかった。十字架から自分を解放することを拒否した。そうすることで罪にまみれた人間の歴 史から手を引くことを、イエスは拒否したのである。―――神は愛であるゆえに、『この四十年の間』流浪の民となった。―――神は気遣いは、神としての仕事 がどれほど『非能率』なものになろうとも、あきらめることを拒否するのだ。」(小山晃佑『水牛神学』より)

 そのようにして、復活のイエ スは、この二人の弟子ととことん付き合ってくださいます。この不信で頑固なかれらと、どこまでも共に行ってくださいます。今申しましたように、イエスは既 に彼らと共に歩んでおられます。彼らが信じられず、喜びと望みに生きることができないでいるうちから、彼らが全く気づかないでいるうちから、とうに彼らの 傍らに来て、彼らと共に歩んでおられるのです。
 それだけではありません。イエスは、彼らに問いかけ、彼らに耳を傾けられます。「イエスは彼らに 言われた、『歩きながら互いに語り合っているその話は、なんのことなのか』。」これに答えて、彼らは息せき切ったように語り始めます。どんなに自分たちが イエス様に期待を懸けてきたのか、でもその期待がいかにひどく裏切られ踏みにじられたか、自分たちがどれほど挫折し傷つき絶望しているのかということを、 彼らは訴え、語らずにはいられなかったのです。
 でも考えてみますと、こんな話、こんな言葉は、イエス様は聞きたくないような内容ではないでしょ うか。「見当違いも甚だしい、不信仰にもほどがある」、そう言い捨てて離れて行ってもいいようなことなのです。しかし復活の主は、彼らを見捨てないので す。またイエス様は、「お説教」もしません。まずは何よりも、彼らの言葉にひたすら聴き、耳を傾けられるのです。それでこそ、彼らは自分の胸の奥底にた まっいた、暗い、行き場のない言葉と心とを、思い切り吐き出し、受けとめていただき、それによって回復へのスタートラインに立つことができたのです。

  次に、復活のイエスは、彼らを「叱責し、神の言葉を解き明か」されるのです。「『ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられな い者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか』。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体 にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説き明かされた。」叱責されることも、イエス様から厳しく問われ、叱っていただくことも、私たちには必要 なのです。愛をもって、リスクを引き受けて語られる叱責の言葉が、人を生かすこともあるのです。しかもイエス様は、「あとは自分で考えろ」とは言われませ んでした。どこまでも、彼らの心と目を開くために、神の言葉である聖書を一歩一歩解き明かしてくださるのです。復活の主が解き明かしてくださる時にはじめ て、教会で語られる聖書の言葉は生きた言葉となり、人を生かすことができるのです。

 さらに復活の主は、「求めに答え、とどまられ」ま す。「彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先に進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、『わたしたちと一緒にお泊ま り下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています』。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。」
 これらすべての働き、業、出 来事は、ただ復活の主から起こされ、与えられています。二人の弟子たちも、この私たちも、復活を信じ、復活の喜びと希望に生きるために、何一つ自分からは できず、起こすこともできません。ただそれは復活の主御自身から、ただ向こう側から、だた神の一方的な愛と恵みに基づいて与えられるよりほかはないので す。そうなのですが、私たちもただ受け身でいるのではありません。その神の一方的で圧倒的な導きの中で、この私たちもなにがしかの求めや思いを発すること は許されるのです。そしてそれは私たちがぜひともするように求められていることなのです。彼らは知らずしてイエス様に願いました。「どうか、私たちと共に ここに留まってください。」「そこまで私がしなければならないのか」とはおっしゃらないのです。イエス様は、この求めに、実に気前よく、喜んで答えてくだ さいました。

 そしてついに、クライマックスがやって来ます。復活の主イエスが、「御自身を開き示される」のです。それは、極めて具体 的・現実的になされる御業です。イエスはそれを、「共に食べ、食べ物を分かち合い」という仕方で実行なさるのです。「一緒に食卓につかれたとき、パンを取 り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに」。この言葉は、私たち教会が毎月行っている「主の晩餐」につながり、それを導き出す行為です。「主の晩 餐」では、本当に復活の主が私たちと共におられるのです。そこでは、本当にイエス御自身が、私たちに御自身の体と血とを与え、そのことを、パンを共に食 べ、ぶどうの汁を共に飲むことによって示し与えてくださっているのです。そしてそれは、私たちの日常生活のすべての出来事、そのひとコマひとコマ、一歩一 歩の中で、具体的な出来事と出会いの中にイエスが立ち、復活の命に今も共に生きておられる御自身を示し、分かち、与えるという仕方で、私たち教会とその一 人一人にしていてくださることなのです。

 この一連の導きの中で、こうして一つ一つイエス様から助けられ教えられ導かれる中で、ついにそしてようやく弟子たちの信仰が開かれることが起こされます。「彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。」
  こんなに遅いのですか、こんなに遅いのです。それでも、これでよいのです。なぜなら、この復活の信仰、その喜びと希望は、ただただ復活の主御自身が、ただ ただ神御自身が、恵みの賜物「プレゼント」として与えてくださるものだからです。私たちは、ただただそれを感謝をもって受け、与えられたそのままに喜び、 そしてそれをひたすら互いに対しても分かち合い、共に喜び合いたいのです。

 そして最後に、初めて、私たちに問いかけ、委ね、任せるよう なことが起こります。「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。」イエス様であることがわかった、イエス様 は復活されて今も生きておられることがわかった、その瞬間、イエス様の姿は「かき消すように」見えなくなったのです。
 「そんな」と思いますか。 でも、大丈夫です。もう生きていけるのです。イエス様の姿が目に見えなくても、「イエスは生きておられる」、神に支えられる確固とした信仰をもって、喜び と希望のうちに生きていけるのです。「キリストと分かった瞬間に消えてしまった。あんまりではないか。しかし、弟子たちはそんな不満をもらさなかった。彼 らは逃避行を止め、宿るべき場所を離れ、再びエルサレムへ向かう。足取りは軽い。転んでも、もう立ち止まらない。復活のキリストに出会う時、私たちは真の 充足を知る。―――キリストは今生きておられる方となり、私たちは今キリスト(と)共に生きる者となるからである。弟子たちは崩壊と破局の場所であるエル サレムへ帰って行った。私たちもまた自分の場所に帰る。そこには海のように深い悲しみがあるかもしれない。しかし、キリストは生きておられる。あなたの悲 しみの中にも、キリストは復活の命の花を咲かせるであろう。あなたはもう大丈夫だ。生きていこう。全身で泣きながら生きてゆけ。」(M田真喜人氏)
  「あなたがたは生きていける、わたしと共に生きていける。だから、あなたがたはそのように共に、お互い生きていきますか」、そう問いかけられ、そう任され 委ねられているのです。二人の弟子は、この促しの声を聞きました。そして、一度は捨てたはずのエルサレムへと帰って行ったのです。この福音、この喜びと希 望を仲間たちと、また多くのまだ見ぬ人々と分かち合うために、喜び勇んで帰って行ったのです。私たちが歩む道、それもまた「エマオへの道」であるかもしれ ません。しかしそこには、復活の主によって、この「折り返し」が備えられ、開かれて行くのです。

(祈り)
私たちすべての者を極みまで愛された神よ。
 あなたが十字架に殺されて死んだイエスを、死者の中から、陰府の底から、勝利をもって復活させられました。それはあまりにも大きく、意外なことなので、私たちはそれを受け入れられず、信じられず、喜びと希望をもって生きることはできません。
  しかしそんな私たちに、復活のイエス御自身が近づき、寄り添い、とことん共に歩んでくださることを通して、信仰が与えられ、希望が与えられ、共に生きる愛 が与えられることを心から感謝いたします。どうかこの私たちをも用いて、あなたの善き御業をなし、多くの人々が、この喜びと希望を知ることができますよう に。
復活にして命なる、私たちすべての救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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