父よ、わが霊を御手にゆだねます                ルカによる福音書第23章44〜49節

 
  イエス・キリストの十字架における最初で最後の言葉、それはこれでした。「父よ」。ルカの福音書によれば、十字架の出来事は、「父よ」というイエス様の父 なる神様への呼びかけで始まって、また「父よ」という同じ呼びかけで終わっているということです。いわば「サンドイッチ」のような形になっているわけで す。ですから、この場面、この出来事を初めから終わりまで貫いているのは、「父よ」というイエス様の呼びかけです。それだけではありません。イエス様のご 生涯そのもの、そのすべてがこの「父よ」という呼びかけによって営まれ、導かれてきたのだと言うことができます。

 イエス・キリストの宣教を著しく特徴づけるのは、この「アバ、父よ」という呼びかけだと言われます。「アバ、父よ」、これほどに親密に、全き信頼と愛をもって神に呼びかけた方は、いまだかつてありませんでした。また、この後もありませんでした。
  イエス様十二歳の頃の話がありました。エルサレムの宮詣での帰り道、イエス様の両親は息子がはぐれてしまったと思い、都までの道を引き返し、神殿でようや く息子イエスの姿を見つけ出したのでした。その時に、心配のあまりたしなめるように言った母に対して、イエスが語ったのがこの言葉でした。「わたしが自分 の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか。」「わたしはいつも『父の家』にいる。『父なる神』の家の内にいる。いつも『アッバ』の愛と真実の 内に、その支配と導きの内にいる。」
 また、主イエスは教えられました。「だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいる ことは決してできない。」「アッバというほどに、信頼と親愛をもって神の国、神御自身を受け入れる者でなければ」、その言葉を自ら実践してイエスは今呼び かけられます、「父よ」。「いつも父の家にいる」、それは今も、この過酷で残忍な十字架刑のただ中にあっても、ということなのでしょう。人間の罪と悪があ らわとなり、闇が全地を覆うこの時にあってもということなのでしょう。これは、私たちの知恵と思いは決して及ばないことです。でも、そのことを示すように イエスは今呼びかけられます、「父よ」。

 この言葉は、イエスご自身のためばかりではなく、イエスが救おうとなさる私たちのためにこそ発 せられ、語られたのです。それは、通路を開く言葉です。人間とこの世の罪と不正・悪、それによる闇と行き詰まりの向こうに、父なる神へと通じる通路を開く 言葉なのです。私たち、他の全ての者のためにも、「父よ」、このように呼びかける道を開く、それがイエス・キリストのご生涯の目的であり、目標であったの です。
 第二次大戦中ドイツで、ヒットラーのナチスの支配によって苦しみ、信仰においてたたかわれたある方はこう言っています。「キリストの言わ れた―――『父よ』は、いらいらしたかきみだされやすい私たちの心のうちにこの世のあらゆる苦悩を呼びさますあらゆる問題を解決するための手引きです。す なわち1940年の(私たちは2017年と言い換えることができるでしょう)あなたの生活の中に、また、あなたが今神のみ前に連れて来た人々の生活の中に あるあらゆる問題を解決するための手引きなのです。」(ゴルヴィッツァー『イエスの死と復活』より)
 そのような罪と悪の闇と行き詰まりとの中でも、そのただ中からも、私たちはこのお方の後から、このお方に続いて、このお方の言葉をまねしながら、いつもこう呼びかけることがゆるされているのです。「父よ」。

 イエスは「父よ」の呼びかけに続いて、ついに最後の祈り、呼びかけへと至ります。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」
  「わたしの霊を」、「霊」とは何でしょうか。聖書では、それは決して「肉体と切り離された精神」というようなものでありません。「霊」とは、肉体と精神と が一つとなっているその人自身です。イエス様御自身。そして、それは狭い意味での「イエス様御自身」でもありません。驚くほどの広がりをもったイエス様御 自身です。イエス様のご生涯、その「霊」において歩まれたイエス様のご生涯全て、そこでなされたイエス様の教え・業のすべて。それを主は、「父」に委ねて しまいました。ある方は申しました、「イエス様は、御自身の復活までも委ねてしまわれた」のだと。(大江寛人氏による)復活すらもイエス様が自由になさる ことではない。それも父なる神の自由と、そして真実の「御手に委ね」るのです。
 そして、「霊」とはまた「関係」についての言葉でもあります。イ エス様が関わりを持たれたすべての人々、ペテロと弟子たち、ザアカイをはじめとする多くの人たち。そしてイエス様が祈りに覚えられた「彼ら」、すべての罪 人、私たちの一人一人。その一人一人のために祈った「罪の赦し」と「救い」。これらすべてを主はお委ねになったのです。
 「父よ、わが霊をみ手に ゆだねます」。だから、それらはすべて、本当に委ねられています、委ねられてしまっています。良き神の御心の内に、正しく愛に満ちた配慮と計画と導きのう ちに、神の御手に委ねられています。私たち一人一人が、主イエスの祈りによって、委ねられてしまっているのです、「父よ」。

 主は、それを、それらすべてを、父なる神の「御手」に委ねられました。見えない神様に、「手」なんてあるのでしょうか。あるのです。イエス様は、それを私たちの誰にもわかるような仕方で、生き生きと描き出されました。
 それは、あの「放蕩息子」の「父」の手です。自らの罪と堕落のために、落ちぶれてぼろぼろになって、とぼとぼと帰って来た息子に向かってもろ「手」を挙げ、心からの喜びをもって迎え入れたその「手」、彼を真実の愛をもって抱き寄せたその「手」です。
  その「父の手」の中に、主イエスはご自身の霊、ご自身の体と心、そのすべての生涯、そのすべての働き、そしてご自身の将来までも、全き信頼をもって委ねら れたのです。それだけではありません。イエスがずっと心に懸け、その救いのために心を砕き、そして今その体までも裂き、血までも流して、神のもとに引き戻 そうとなさる、この私たち、その一人一人までも委ねてくださったのです。私たちの喜びまた悲しみ、その試練と苦しみ、その願いと将来への不安・恐れ、さら にはその信仰・希望・愛までも、イエスはこの父の御手に委ねてくださったのです。父は、それらすべてを、心からの喜びをもって、また何ものにも動かされな い真実をもって受け入れ、受けとめてくださるでしょう。

 こうして主イエス・キリストは、それらすべて神の御手に、「委ね」られました。
 「委ねる」とは何でしょう、どういうことなのでしょう。それは、相手に対する深い信頼、極めて深い信頼です。
  「カソリックの司祭で、プロテスタントにも大きな影響を与えている人に、ヘンリー・ナウ』エンという方がいます。その人がある本の中で空中ブランコサーカ スのスターに演技についての秘訣を聞いた話を書いています。それによれば、『サーカスの観客は飛び手がスターだと思っているが、ホントのスターは受け手だ ということです。うまく飛べる秘訣は飛び手は何もせず、全て受け手にまかせることなのです。飛び手は受け手に向かって飛ぶ時、ただ両手を拡げて受け手が しっかり受けとめてくれると信じてジャンプすることなのです。空中ブランコで最悪なのは飛び手が受け手をつかもうとすることなのです。』 この言葉を聞い たナウエンは一つの啓示を受けます。『恐れなくてもよいのだ。私たちは神さまの子ども、神さまは暗闇に向かってジャンプするあなたを闇の向こうでしっかり 受けとめてくださる。あなたは神さまの手をつかもうとしてはいけない。ただ両手を拡げ信じる事。信じて飛べばよい。のだと。神があなたを捕らえてくれるこ とを信頼してジャンプすること、これが『ゆだねる』ということの意味なのです。『父よ、わが霊を御手にゆだねます』ということばの中に、完全なる謙遜、完 全なる愛、完全なる明け渡し、徹頭徹尾の信頼と従順が告白されています。御父に対する揺るぎない信頼こそイエスの生涯に一貫したものでした。」(銘形秀則 氏、ブログ「牧師の書斎」より)
 私たちの救い主イエス・キリストが、誰にも先立って、また誰にも優って、この父への信頼に生きておられます。こ の父への信頼に基づいて、イエスは十字架で自らの命を投げ出して死に、そしてこの父への信頼において復活させられ、今もこの信頼において復活の命に生きて おられます。だから今、このお方に導かれる私たちもまた、この父への信頼に生きることがゆるされるのです。私たちもまた、ただ両手を広げ、父の愛と真実の 御手に向かって、信じて飛べばよいのです。

 ヒトラー政権下で圧迫され、それにも関わらず信仰を貫こうとしたドイツ告白教会の一信徒の人 は、こう証ししました。「私たちがこれからどうなってゆくか、それは分かりません。第三帝国は実に強大に見えます。一方、教会はいかにも小さくて貧しく、 そればかりかますます貧しくなっていくようです。しかし私たちは、みことばを聞いたのです。私たちの耳が開かれて、そうして私たちは聞いたのです。私たち はそれを決して忘れることができません。」(ブルーダー『嵐の中の教会』より)
 私たちも御言葉を聞いたのです。十字架の上から祈られ、語られ る、イエス・キリストの御言葉を聞いたのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。「うれしいことに、イエスは祈られました。『父よ。み手にゆだね ます』と。それなのに、どうして私たちは悩むのですか。私たちの存在の一切が二千年前にささげられ、神の恵みの中に数えられているというのに。なぜ今日の ことに悩み、明日のことを思い煩うのですか。―――最も峻厳な審判を経てきたイエスにして、この祈りがあるとすれば、一切の罪をそのイエスに処分しても らった私たちにあって、どうしてこの祈りを祈らずにいられるのですか。まして今日、私たちもまた神を『父よ』と呼ぶ特権にあずかっているのですから、なお さらのことです。『父なる神よ。私の生涯を、私の霊をみ手にゆだねます』と。これがわたしの祈りであり、あなたの祈りです。」(大江寛人『父よ』より)な らば私たちも、このお方に導かれ、このお方の後に続いて、こう祈りたいと切に願うのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」

(祈り)
父よ。御子イエス・キリストに続いて、彼に助けられ、導かれて、私たちも呼びかけ、祈ります、「父よ」と。
  主イエスは、私たちのために、あなたへと至る道を開かれました、「父よ」と。そして、私たちのすべてと、私たちの世界のすべて、その罪と重荷その苦しみの すべてを、私たちのために、あなたにゆだねて祈ってくださいました。「父よ、ゆだねます」と。このゆえに、私たちは委ねられています。私たちの一切があな たの御手に委ねられています。この恵み、この幸い、この喜び、この望みを、心から感謝いたします。
 どうか私たちも、心からの信頼と服従とをもっ て、あなたに委ね、祈りことができますように。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と。そしてお互いのため、教会のため、すべての隣人のため、この世 界の救いと完成のために、あなたに向かってとりなし祈る者たちとなしてください。私たちの祈りと願いにはるかにまさって、あなたが聞き届けてください。
私たちのために十字架に死なれ、それゆえにこそ復活の命に生きておられるイエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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