父よ、かれらをおゆるしください                ルカによる福音書第23章32〜38節

 
  「十字架はこの世の鏡です」と言われます。そうです、イエス・キリストの十字架を通して、この世の罪、この世の本当の姿が明らかになります。余すところな く、一点の曇りもなく明らかにされるのです。それは、罪の姿、神から離れ背いている姿、人間お互い同士を傷つけ、陥れ、倒し合っているその姿です。
  イエスの十字架を取り巻く人間の罪とは何でしょう。それは、すべてです。ここには、どんな罪もあります。それは、今私たちの社会で、この世界で行われてい ることと全く何の違いもありません。裏切り、陰謀、無責任、バッシング、弱い者いじめ、DV(兵士たちによるリンチはそうです)、スケープゴート(一人や 一部の人に罪を着せて、自分たちは責任逃れをすることです)、合法的に人を社会的に抹殺し葬り去ること、自己保身、自己利益の追求・・・。
 「実 に神のかたわらにいなければならなかったまさにその時、神から離れていたという点で、この一つ一つの行為と怠慢は罪なのです。―――イエスがこの世のため に戦っておられるのに、神を忘れてしまったということが、罪の本来的な核心です。すなわち、この世を、ご自分の世を、またわれわれの世を救おうとしてご自 身を献げられたイエスを、全くただ一人置き去りにしたということが、罪の本来的な核心なのです。あなたが、イエスの服従の道を歩まないで、自分の欲望を追 求した時、また自分の願望に耳を傾けて、イエスのみ旨に耳を傾けなかった時―――イエスのみ名のための恥をさけ、安逸な生活を選んだ時―――あなたのかた わらの、イエス・キリストの貧しい兄弟に、ただ一人でその十字架を負わせ、とんで行ってそれを助けなかった時―――自分のことのみを考え、あまりにも自分 自身のことに熱中しており、またあまりにも怠慢、あまりにも冷淡、あまりにもパリサイ的であるために、他人の悩みに対して心を閉ざした時―――こうした時 に常に、あなたはイエスをそこにただ一人で、その道を歩むにまかせたのであり、この道の途上で、イエスをとりまく人間の姿と同じだったのです。」(ゴル ヴィッツァー『イエスの死と復活』より)
 このあらゆる罪のただ中で、その罪によってイエスは十字架につけられ、殺されて行かれます。かつ同時 に、主イエスは自らこの罪を引き受け、この罪を担って十字架にかかっておられるのです。「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字 架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。」

 それは、いわば「罪、この世の罪、人間の罪が、どん底に達し た」瞬間です。「決定的瞬間」と呼ばれるものがあれば、これはまさにその瞬間です。また「決定的言葉」というものを考えるなら、これはまさにその言葉で す。その時に、イエスは何と言われるのでしょうか。イエス・キリストはこう言われました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼ら何をしているのか、わから ずにいるのです。」
 この時はまた、イエスご自身にとっても、「決定的な時」でした。人生最後の時を迎えておられたのです。また、十字架は、物理 的・肉体的にも「抜き差しならない」時です。そんな時に、人は誰を呼び、誰を求めるでしょうか。主イエスは、こう呼びかけ、こう求められました、「父 よ」。「父」とは、イエスの父なる神です。この時、イエスは神を呼び、神を求められたのです。
 イエスは、これまで常に神を求め、神に従って生き てこられました。幼い頃イエスは、自分を捜しにきた両親に言いました、「わたしがいつでも父の家にいるとご存じなかったのですか」。「自分は神の子であ る」、そういう自覚のもとに、イエスは絶えず祈り、神に従って人々を助け、何より神の愛を伝え、表し、生きるべく歩んで来られたのです。そのお方が、この 「決定的瞬間」に語られる言葉、それは最も大切な言葉のはずです。最も大切な相手に向かって語られる、最も大切な言葉のはずです。

 それ は、これでした。「父よ、彼らをおゆるしください。」この「決定的な時」に、最も大切な相手に語られた言葉、それは「彼ら」をめぐるものでした。何と意外 な言葉でしょうか。「わたし」や「あなた」ではなく、「彼ら」です。イエスは、この時に、「彼ら」、他者を巡って父と言葉を交わされるのです。だからこ そ、イエスは「救い主」なのです。この最後に至るまで「救い主」なのです。「彼ら」のために、他者のために、私たちすべての者のために、初めから、そして この終わりまで生きられた、徹底的に生きられた。ここに、私たちのための救い主が、世のための救い主がおられるのです。
 そこでイエスが、「父」 に語られた、その内容とはこれです。「彼らをおゆるしください」。そのテーマは「ゆるし」だったのです。「彼ら」とは、イエスを取り巻く人々、すべての人 々です。そして「十字架がこの世の鏡」であるなら、その十字架を取り巻く人々とは、この世のすべての人々であり、私たちも、この私もまたその中に入れられ ているのです。イエスは、いちばん大切なこととして、父なる神に向かって、「彼ら」のことを、私たちのことを、私のことを語られます。いちばん大切なこと として取り上げ、それに向かい合い、そしてそれに取り組まれるのです。それは「ゆるし」です。イエス・キリストは、最後の最後まで、その十字架とのその死 に至るまで、私たちのために、私たちを気にかけ、私たちに連帯し、私たちの味方となって、その「ゆるし」のために行動し、歩み通されたのです。

  この言葉を、私たちはどう聴くでしょうか。この言葉は、私は「いい言葉」だとは思いません。むしろこの言葉は、私たちを揺り動かす言葉です。私たちに問い かけ、私たちを落ち着かなくする言葉です。これは私たちの中に投げ込まれて、次々に波紋を引き起こして行く言葉です。なぜなら、このイエスの御言葉は、私 たちに挑戦するからです。「ゆるし」をめぐる私たちの考えや思い込み、「常識」や偏見に、真っ向から挑むからです。
 まずイエスは、「知らなくて したことは罪ではない」という考えに挑戦されます。イエスは言われます。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らを何をしているのか、わからずにいるので す。」イエスは、「彼らはわからずにいるのです、だからそれは罪ではなく、ゆるされる必要もありません」とは言わず、「わからずにしたこと、それもまた罪 なのです、だから父よ、おゆるしください」と言われるのです。
 私たちの世では、「知らなかったから、罪ではない」「記憶にないから、罪ではな い」ということがあちこちで語られ、まかり通っています。でも、そうではないのでしょうか。このイエスを十字架にはりつけにした兵士たちも、善悪について は知らず、ただ上官からの命令でやったから、罪ではないのではないでしょうか。また、私たちの国日本がかつての戦争中にしたことが罪に問われた時、多くの 役割や責任を持っていた人たちはこう言ったそうです。「その時私たちは、事の善悪を問える立場にはありませんでした。善悪については知らず、ただ上からの 命令でしたのです、社会の要請によってしたのです。だから、それは罪ではないと思います。」しかしイエスは言われるのです。「それは罪なのだ。だからこ そ、父よ、彼らをおゆるしください。」「このことこそ言い逃れにならず、それが罪なのです。優柔不断と転倒と自分の関心事に目を奪われること―――これら すべてによって、確かに多くの人が神をうち殺し、あらためてキリストを十字架につけて来たのです。―――無知は罪です。」(ゴルヴィッツァー、同上)「そ れは罪なのだ。だからこそ、父よ、彼らをおゆるしください。」そして、その赦しのために、イエスは今この十字架の道を行かれるのですす。

  またイエスが挑戦されるのは、この私たちの考えです。「知っていて、わざと犯した罪は、ゆるされない」。イエスの言葉の表面を取るなら、そう考えてもおか しくありません。「知らずにしたのだからゆるしてください。だけど知って犯したのなら、だめでしょう。」しかし、そんなことならば、イエスは「世の罪の半 分くらいしかゆるせない方」になってしまいます。
 そんなことはありません。イエスは、たとい「知って」、あえて、わざと罪を犯したのであって も、それは「何もわからずにしたことなのだ」と言われるのです。何を「知らない」というのでしょうか。それは、神の前での罪の姿です。私たちは、本当の罪 の姿を知らないのです。神の前に、罪がどれほど重く、どれほど恐ろしいことであるか、どれほどあるべきところからはずれ、ねじれ、かけ離れているか、どれ ほど私たちへの愛に背き、愛と希望を踏みにじり投げ捨てる、自分自身をも裏切り投げ捨てだめにしてしまうものであるか、それを私たちは知らないのです。も し知っていたなら、決して罪を犯しはしなかっでしょう。神を知らず、神の愛を知らず、「何をしているかわからない」からこそ、こんな愚かな、そして恐ろし い罪を犯し続けているのです。しかし、イエスはそれを知っておられます。罪の重み、罪の恐ろしさ、罪の底知れなさを知っておられ、あえてこの罪を引き受 け、この罪をあえて担って、この罪を神の前に贖い、償い、克服しようとされるからこそ、今こう祈られるのです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何 をしているのか、わからずにいるのです。」

 さらにイエスが挑戦されるのは、次の私たちの考えです。「いくらそうでも、ひどい罪はゆるさ れない」。私たち人間は、どこかで「もうこれ以上はゆるされない罪」というものを設け、その限界を設けているように思います。個人的な価値観や気持ちの中 で、また社会の法や制度の中で。だからこそ、私たちは、人を徹底的に否定し、排除し、死刑を許容し、報復を支持し、戦争を受け入れるのではないでしょう か。「もうこれ以上はゆるされない、人や集団や国がある」と思うのではないでしょうか。
 でも、もしそうだとしたら、主イエスはここでこの祈りを 口にすることがおできになるでしょうか。初めに申しましたような、あらゆる罪の限りを尽くしてイエスを陥れ、イエスを苦しめ、イエスを貶め辱めて、ついに はイエスを殺そうとしているのです。そんな時に、そんな人々のために、この祈りができるでしょうか。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしている のか、わからずにいるのです。」
 しかしイエスは祈られました、この祈りを確かに祈られたのです。「神は赦してくださいます、でもあまりにひどい 罪は赦されません」、そうイエスが思っておられたなら、こんな祈りはあり得なかったはずです。しかし、イエスは祈られました。「これほどの罪、これほどの 悪、しかし父よ、あなたはそれを赦すことがおできになります。だからこそ父よ、彼らをおゆるしください。」イエスは、ご自分のすべてを懸けて、ご自分のす べてを注ぎ出して、こう祈り、こう願い、こう求められたのです。「父よ、彼らをおゆるしください。」
 だから、この祈りは聞かれます。イエスを愛 し、愛し抜かれる父によって、父なる神によって、この祈りは受け止められ、受け入れられ、聞き届けられるのです。「主は、わたしたちのためにいのちを捨て て下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」(Tヨハネ3・16)「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわた したちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」(同4・8〜9)今日も、今も、この世のため に、私たちすべての者のために、私のために、あの人のために、イエスが祈っておられます。「父よ、彼らをおゆるしください。」この祈りを聴きつつ、この祈 りによって導かれる道を、共に歩み、生きてまいりましょう。

(祈り)
御子イエス・キリストによって私たちすべのて者を愛し、その救いを成し遂げられた神よ。
  イエスの十字架の祈りが、今も私たちを呼び、私たちを罪から救い、私たちをあなたのもとへと導きます。どうか、この祈りによって始められ、この祈りによっ て導かれ、この祈りによって全うされる私たちの生き方と道を、どうか今週も共に歩ませてください。一人一人とあなたの教会を、このあなたの赦しの証人とし て送り出し、導き、お用いください。
私たちのために十字架を負い、死にまで進まれた救い主イエス・キリストの御名によりお祈りいたしします。アーメン。

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