いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝せよ       
                                   
テサロニケ人への第一の手紙第5章16〜24節

 
  ある牧師はこう言ったそうです。「わたしは、自分にできることだけしか説教しないことにしています。自分にできないことを語るのは不誠実だし、自分自身つ らいからです。」皆さんは、これをどう思われますか。失礼ながら、私は間違いだと思います。この考えで行くと、今日の箇所は語れません。そもそも聖書の言 葉すべてが語れない、と思います。
 何が語れないと言って、こう書かれているからです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に ついて、感謝しなさい。」もしこれが「喜べるときに喜び、祈れるときに祈り、感謝できるときに感謝しなさい」だったら、私も何の葛藤も迷いもなく、これを 口にすることができるでしょう。(まあ、それだったら、その分何の問いかけも刺激も、何の力もない言葉ということになるでしょうが。)これまた失礼です が、しばしば私たちの信仰生活はそんな感じになってしまっていることがあるのではないでしょうか。「喜べるときに喜び、祈れるときに祈り、感謝できること について感謝する」。それは個人の生活においても、教会の歩みにおいても、問いかけられています。
 しかし、聖書においてパウロはこう書き送り、命じるのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」「いつも」です、「絶えず」です、そして「すべての事について」です。
  ある方がこの言葉についてこう言いました。「けれどもよく考えてみるならば、いや、別によく考えなくてもこの言葉を本当に真剣に受け止めようとするなら、 これはものすごく厳しい言葉だということを誰でも感じるのではないでしょうか。『いつも喜んでいなさい』。私たちはいったい、いつも喜んでいることなどで きるでしょうか。『絶えず祈りなさい』。祈りが大切であり―――絶えず真剣に祈ることが必要だ、ということは信仰者なら誰でも分かっています。しかしそれ でも絶えず祈ることはなんと難しいことか、というのが私たちの正直な思いなのではないでしょうか。『どんなことにも感謝しなさい』。『どんなことにも』で す。どんなつらいこと、苦しいこと、理不尽だと思うことがあっても、神様に感謝して生きる、それはなんと厳しい要求でしょうか。この言葉は、考えように よっては、聖書の中で最も厳しい、あるいは最も残酷な言葉だとすら言えると思うのです。」(藤掛順一氏)

 いったい、この言葉、こんな言葉を、どう聞き、どう受け止めたらよいのでしょうか。
  聖書の言葉、パウロの言葉をよく聞いていただきたいのです。パウロはこの三つの命令を、ただポーンと裸で出しているわけではないのです。その後に、但し書 き、注意書きを付けているのです。私たちが複雑な電気製品を買ったときに、説明書の注意書きを読まずに使ったら、思わぬ間違いや事故が起こるでしょう。聖 書の言葉はまさにそうです。注意書きを読まずに聞いたら、大変な間違いを起こすことになるのです。
 ではその「注意書き」を読みましょう。「いつ も喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることであ る。」「注意書き」はこれです。「これが(これは)、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」
 ここで大切なこ とは、「キリスト・イエスにあって」という言葉です。この言葉なしだったら、「これが神があなたがたに求めておられることである」となっていたら、それは 「無理難題」なのです。しかしパウロは、そこに「キリスト・イエスにあって」を挿入するのです。これは、「キリスト・イエスにあって、神が求めておられる ことなんだよ」、何の前提や限定もなく、ただあなたがたの考えと力と判断によって、それらに基いて求められていることではないのだ、それはただ「キリス ト・イエスにあって」、ただこの一事に基いて神が求めておられることなんだ。だからこれは、私たちの中から、内側から起こり、出て来ることではなくて、私 たちの外側から、イエス・キリストという方によって、このお方を通して、初めて起こり、始まっていく事柄として、神が求めておられるのだというのです。だ から、これは「命令」である前に、神様からの、神による呼びかけであり、招きであり、とりわけ約束なのです。「ここには、神様の大きな約束があります。 『わたしが、どんななかにあっても喜ばせてあげるから、いつも喜びなさい』という神様からの申し出です。」(岩崎謙氏)それは「祈り」でも「感謝」でも、 同じことです。「どういう状況の中でも、あなたがたには、いつも喜び、絶えず祈り、そして感謝することができる、そういうものが、そういう事柄が与えられ ているんだよ」という神様からの語りかけが聞こえてくるように思うのです。

 それはいったい、具体的にはどういうことでしょうか。
  聖書、特に新約聖書の中を一貫して流れ、響いている「よき知らせ」「福音」の言葉があります。それは「神が成し遂げてくださる」ということです。「私たち が決してできなかったこと、私たちがすでに失敗してしまったことを、神が再び取り上げ、神が正し導き、神が成し遂げ完成してくださる」ということです。そ れは、まさに「神がイエス・キリストにおいて」成し遂げてくださったことです。
 パウロは言いました。「私たちは、皆例外なく、神から離れ、神に そむき、神の前に失敗してしまった罪人であった。しかし、神はその私たちのために救い主イエス・キリストを送られた。主イエスは、私たちの罪と裁きと死を 引き受け担い、私たちすべての者のために死んでくださった。そして今、復活の主は私たちのために新しい命と道を与えてくださった。」「私たちが決してでき なかったことを、神が成し遂げてくださった」のです。だから今パウロはこう言います。23〜24「――あなたがたを召されたかたは真実であられるから、こ のことをして下さるであろう。」

 この方がおられる、いつもおられる、私たちのためにおられる。「いつも喜んで――」という言葉は、パウロが書いているわけですが、同時に神様が命じておられることです。人間の場合とは違って、神様には「自分のことは棚に上げて」ということはありません。
  「いつも喜んでいなさい」と命じたもう神様は、神様ご自身が「いつも喜んで」いてくださるのです。何を? 私たちのことを。自分でもとても喜べない、むし ろいつも不平不満の種をわざわざ見つけ出してきて、大切にしまいこみ、それを何かあると持ち出してきてああだこうだ言ってしまう、そんな私たちのことを、 神様はいつも喜び、赦し、「よし」としていてくださる。神は、「キリスト・イエスにあって」いつも私たちを愛し、私たちのことを喜んでいてくださる。この 神様がおられる。ならば、私たちには、どんな時にも、どんな状況の中でも、なにかしら「喜ぶ」、いえこの神様をこそ「喜ぶ」、その材料・種があるのではあ りませんか。

 また、「絶えず祈りなさい」と命じたもう神は、「絶えず私たちの祈りを聞こうとして待っていて」くださるのです。私たちは よく、人に「何かあったら、いつでも電話してきてください」と言います。でも、本当に「いつでも」という具合に、真夜中や明け方に電話されたら、一度や二 度はいいかもしれませんが、しまいに音を上げてしまうでしょう。でも、神様は掛け値なしに「絶えず祈りなさい」「いつでも私に向かって祈り叫びなさい」と 言ってくださるのです。神様には「取り込み中で、ちょっとタンマね」ということはありません。私たちの祈りを、叫びを、うめきをも、絶えず、いつでも聞 き、受け止め、聞き届けてくださるのです。このお方がおられる。ならば、私たちは「絶えず祈ろう」と、この方へと向かうことができるではありませんか。

  さらに「すべての事について、感謝しなさい」ですが、ギデオン協会配布の英語の聖書を見ましたら、ここをこんなふうに訳してあるのです。「すべての状況の 中で感謝しなさい」。「えっ」と思って、元の文を見てみました。すると、そういうふうに取ることもできることがわかりました。なるほどな、と思いました。 「すべてのことについて」感謝するというのは、難しいこともあるかもしれない。でも、あのことこのことの中でも、そういう難しいこと、とても大変なこと、 そういう状況の中でも、そういう状況はありながらも、でも一方で、また同時に「感謝する」ということはできるのではないか。
 「すべてのことの中 で感謝しなさい」と命じたもう神は、いつも、どんなことの中でも、「感謝の種」である「恵みを与えて」くださいます。聖書の「感謝する」は、「恵みを与え る」という言葉からできています。神様が「恵みを与えて」くださる、それに対して正しく答えることが「感謝する」ことなのです。パウロは言いました。「ご 自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために与えられた方が、どうして御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。」どんなに苦しく つらいこと、困難で大変なことの中でも、この神は私たちを愛し、助けを与え、導いてくださる。このお方がおられる、この恵みに気づかされるとき、私たちは 「すべてのことの中で感謝する」ことを学び始めるのです。
 ベストセラーを書かれたカトリックのシスター渡辺和子さんは、五十歳の頃、学校の学長 をしていたときに、うつ病にかかられたそうです。とてもつらく、自殺をも考え、神様を恨むことさえあったそうですが、そのときクリスチャンのお医者さんか らこう言われたそうです。「運命は冷たいですが、摂理は温かいですよ」。「治りたい一心だった当時はよく分かりませんでしたが、今になってみると、『摂理 の温かさ』というのは神のご配慮のことで、『あなたが必要としている恵みを受け止めなさい』という意味だったと思います。」(渡辺和子氏)

  マルティン・ルーサー・キング牧師が、この証をされています。「われわれがバス・ボイコット運動のただ中にあった頃、われわれがシスター・ポラードと愛情 をこめて呼んでいた老婦人がいた。彼女は七十二歳くらいの素敵な女性で、その年でまだ働いていた。ボイコット運動の間中、彼女は毎日仕事の行き帰りに歩い ていた。―――ある週のこと、私はとても困難な週を過ごしていた。昼も夜もひっきりなしに脅迫電話がかかってきていた。それで私はくじけそうになり、心が 弱くなって勇気を失いかけていた。決して忘れられないことだが、その月曜日の夜、大衆集会に出たが―――私の話には力がなかった。すると集会後シスター・ ポラードが近づいてきて、言った。『何か悪いことがあるのですか。今日のお話には力がありませんでしたが』と。そこで私は言った。『何にもありませんよ、 シスター・ポラード。大丈夫ですよ』と。ところが彼女は言った。『ごまかしてはいけませんよ。なにか悪いことがあるのでしょう。』―――『私に近づいてく ださい。そしてもう一度だけ言わせてください。―――すでに申し上げたことですが、私たちは一緒にいますよ。―――でも、たとえ私たちが一緒にいなくて も、主はあなたと一緒にいますよ。―――主があなたの面倒をみてくださいますよ。』―――その日以来、私は色々なことを見てきた。―――その時以来、私は 十八回以上も投獄されてきた。―――その時以来、私の家は三回も爆弾を投げ込まれてきた。その時以来、私は毎日死の脅迫にさらされてきた。その時以来、私 は多くのやりきれない困惑の夜を過ごしてきた。だか、そのたびに繰り返し私はシスター・ポラードの言葉を思い出すことができる。『神があなたの面倒をみて くださいますよ』と。」(『真夜中に戸をたたく キング牧師説教集』より)

 「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについ て感謝しなさい。」この言葉を聞くと、いつも「まだまだ」「とてもとても」と思わずにいられません。しかし、私たちには、このお方がおられます。「どう か、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来 臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。」
 この真実なる神のゆえに、一つまた一つと、一歩また一歩と、私たちの教会で、それぞれの遣わされている場で、この社会・この世界で、このように歩んでまいりましょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」

(祈り)
御子イエス・キリストによってこの世界と私たちすべての者を極みまで愛された神よ。
  あなたがキリスト・イエスにあって、すべての善きことを成し遂げてくださいました。私たちのなし得ないことをあなたがなし、私たちが失敗し台無しにしてし まったことを、あなたが修復し、克服し、そして回復してくださいました。あなたこそが、私たちのために喜びを創り与え、祈りを聞こうと待っておられ、そし て感謝となるべき恵みを豊かに注ぎ与えてくださいます。このあなたがいますゆえに、常に私たちと共にいますゆえに、私たちは「いつも喜び、絶えず祈り、す べての事について感謝する」生活へと、繰り返し信仰と勇気と希望をもって踏み出してまいります。どうか私たちを助けてお導きください。
まことの道、真理そして命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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