人知を超える神の喜びが       ピリピ人への手紙第4章4〜7節

 
 7節に、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が」とありますが、この「喜び」もまた「人知を超えて」います。4節「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」
  「いつも喜びなさい」、「いつも」です。はたして、「いつも喜ぶ」ということが、私たち人間の知る力、考える力、生きる力の中で、その範囲内でできるで しょうか。もちろん私たちは、「いいこと、嬉しいこと」があった時には、喜びます。願いがかなった時、努力が報われた時、人との関係が良好で心が通じ合え たと思える時、そういう時にはきっと喜びます。けれども、どうでしょうか、そうではないことが起こってきた時、「良くないこと、嬉しくないこと、嫌なこ と」が起こった時に、「喜ぶ」などということができるでしょうか。おそらくできないでしょう。だとすると、それでもう「いつも喜ぶ」ということからは外れ てしまったことになります。
 そしてまた私たちは、実は「喜ぶ」ということすらままならない、そんな者だと言っている方がいます。「喜ぶ力をもっ ていないから喜べないので、十分な条件が整えられてもなお喜ぶことができないというのが、事実ではないのでしょうか。したがって、何十年かこの世に生きて いる間に、本当に喜ぶことができたというのは、数えるほどしかないというようなみじめな生活を、われわれが送るようなことにならないとは限らないのであり ます。」「本当に喜ぶというのは、喜ぶことができないような生活に打ち勝って喜ぶことであるはずです。もしなにかうれしくなるのを待っているのであるなら ば、われわれのような利己的な人間が本当に喜べる事情などは、いつ整えられるか分からないでありましょう。」(竹森満佐一)
 さらに、そういう一 般的な話を超えて、この手紙を書いているパウロは、一般的・常識的には、「とうてい喜べない」という事情、状況にあったのです。少なくともはっきりわかっ ていることは、この時パウロは投獄されていたということです。「捕らえられ、獄に入れられる」、それがどういうことなのか、どれほどのことなのか、ある意 味で幸いにも実感することはできませんが、想像することはできます。大変な肉体的な不利益と苦しみがあったはずです。もうその事実だけで、社会的不名誉を こうむり、人々の多大な悪意を受けたに違いありません。さらには、そこには国家や権力の力がもろに現われています。むき出しの力による脅し、さらには死の 恐怖さえも与えられたことでしょう。
 先日常務理事の吉高先生が話されたことを、よく覚えています。吉高先生のお祖父様は学校の先生をされてい て、戦争中、ふと授業の中で「君たちをこの戦争で死なせたくはないのだ」と語られた。それを聞きつけた子ども、さらにはその親たち家族たちが、このことで お祖父様を責めて、とうとう学校をやめ、さらには次の学校もやめ、ついには教師をやめる破目になった。別に特高警察や憲兵が出てきたわけでも投獄されたわ けでもありません。普通の人々の悪意と中傷によって、ひどい苦痛と社会的不利益を被ったのです。その苦しみと痛みはどれほどのものであったことでしょう か。
 パウロは自分の人生を振り返って言います。「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人からむちで打たれたことが三 度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、革の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の 難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られるぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸で いたこともあった。」(Uコリント11・24〜27)
 そんな中で、はたして「喜ぶ」、「いつも喜ぶ」などということができるでしょうか。その意味で、この「喜び」は「人知を超えて」います。人間の知恵、人間の力、人間の可能性を超えているのです。

  「人知を超える喜び」、どうしてそんなことが起こるのでしょうか。「人知を超える喜び」などというものが、どのようにしてこの私たちのような者に与えられ るのでしょうか。パウロの言葉によく注意していただきたいのです。彼はただ「あなたがたはいつも喜びなさい」と言ったのではありませんでした。その間に一 つの言葉が入れられているのです。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい」、「主にあって」が入っているのです、「主にあって、いつも喜びなさ い」。「主にあって」、それは「主イエス・キリストにあって」という意味です。それは神から来る喜び、神によってもたらされ、神によって与えられる喜びで す。「人知を超える神の平安」があるのなら、「人知を超える神の喜び」もまたあるのです。その「喜び」が、今あなたがたにも主イエス・キリストによって、 イエス・キリストを通して、与えられている。だから、「主にあって、いつも喜びなさい」。

 この「喜び」とは、いったいどんな喜びなのでしょうか。
  それはまず、「人知を超える」喜びです。「人知」は何でしょうか。「ある人が、この人知というのは、思い煩いに動かされた人間の考えだと申しました。これ は痛い言葉です。―――つまり、自分が自分の身を守るための知恵と言ったら大変立派ですが、本当は心配でしょうがないから思い煩い、不安に動かされて、出 て来るものであります。」(竹森)では、「思い煩い」とは何か。「思いわずらいとは、自分の運命を自分で打開し、自分の未来をなんとか手中に握ろうとする 人間のあがきである。」(NTD新約聖書注解)だから、そこには「神様がいない」かのようなのです。「神様のことは計算に入っていない」かのようなので す。だからそこには、余裕もありませんし、まして「喜び」などあり得ません。人に対しても、赦しがありませんし、まして愛など無いのです。

 しかし、そんな私たちの中へと、私たちの間へと、私たちのただ中へと、神様が入って来られるのです。神の御子イエス・キリストが入って来られるのです。これが、「主にあって」ということの、中心的な意味と内容です。
  人知を超える方、神様のもとから、御子イエス・キリストが、この私たちの世界へと、私たちのただ中へとやって来られたのです。この「主イエス・キリスト」 は、私たちと共に生きてくださいます。どこまでも共に、生きることにおいても、死ぬことにおいても、共に生き、共に歩んでくださいます。それだけではあり ません。このお方「主」は、私たちの罪をも引き受け、あの十字架に至るまでも担い取ってくださいました。そして、このお方は復活され、今も私たちと共に あってくださいます。「主は近い」のです。
 また、このお方「主」は、どこまでも私たちの味方です、たとえどん底にあっても、ひどい苦境にあっても、獄と圧迫と迫害の中にあってさえも、死の淵・死の恐れに直面しても、なおこのお方「主」は、徹底的に私たちと共にあってくださいます。「主は近い」のです。
  そして、それは距離的・空間的に「近い」というに留まりません。時間的にも「主は近い」のです。主イエス・キリストは、再び来られます。その時は、神の国 が到来し、新しい天と新しい地が完成する時です。「一切の悩み苦しみを終わらせたもうキリストが、すぐそこまで来ておられるのだ。いまキリスト信徒に与え られている喜びは、キリストの再臨と共に全人類と全宇宙を蔽う喜びの序曲であり曙光である。」(NTD注解)
 「主は近い」! 「主にあって」、 イエス・キリストにおいて、イエスを通して、神が私たちに働きかけてくださる。イエス・キリストが常に私たちと共にいてくださる。「一心同体」と言うほど までに、イエスと私たちとを、聖霊が一つとなし、それにふさわしい慰めと力を与えてくださる。だからこそ、パウロは今言うのです。「主にあって、あなたが たはいつも喜びなさい」。

 「主にあっていつも喜ぶ」、それは一つのはっきりとした生き方・ライフスタイルです。「何事も思い煩ってはな らない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」これはどういうことなのか、ある方がこ う言っているそうです。「思い煩うというのは、自分が苦しむこと、自分でため息を付くこと、そして自分で見通しを立てることなのだ。しかし、感謝するとい うことは、あらゆることについて神に栄えを帰して、神がなさる場所をあけておいて、自分の心配を神に投げかけ、それをもはや自分の心配にしないで、神の心 配にしてしまうことなのだ」。(竹森による)
 その時、私たちのいっさいの思い煩い、心配事、悩み、苦しみ、不安、恐れ、そのいっさいを神に申し 上げ、神に投げかけ、神にお任せする時、「人知を超える神の平安」が私たちにやって来る。「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安 が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」その時同時に、神は「人知を超える喜び」をも共に与えてくださるのです。「主に あって、あなたがたはいつも喜びなさい」。
 「人知を超える神の喜び」、それは、いつも私たちに近づき、私たちと共にあり、常に、いつどんな時 も、どんな環境・状況にあってさえも、獄の中でも、人々の悪意と圧迫の中でも、死の淵においてさえも、私たちと共に歩み、共にたたかっていてくださるので す。「神は見えない神ではありますが、見えない神だからといって、この世の生活から離れた神ではないのです。神はこの世を支配しておられる、この世の悪と 罪とのその真っ只中で神は生きておられるのです。われわれはそれを信じているのです。しかしそういう人間の悪と罪その中で、それに勝って、神はご自身のご 計画を成就して行かれるのです。―――勝利というからには、それは、戦いのない勝利などはあり得ないでしょう。―――戦って戦って、その戦いの真っ最中に 神が勝利してくださることを信じ神とともにわれわれも戦うのであります。(それが)神を喜び、神とともに勝ち、神から与えられた、喜びを感謝して受ける喜 びの生活の秘訣であると言わなければなりません。このように与えられている喜びということは、実は神を讃美することであり、神に喜びの声をあげるというこ とは神を讃美することです。」(竹森)「主にあって、あなたがたはいつも喜びなさい」。

 この喜びは、自分の中だけに、自分たちの中だけ に留めておかれることはありません。「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。」それは、「寛容」、受容、赦し、善意、そして愛という形で、「みん なの人」へと伝わり、伝えられ、豊かに分かち合われて行くのです。ここに、私たちの教会の伝道と証のための約束と希望があるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父よ、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
 私たちはいつも「人知」の中で生き、その中で苦闘し、その中がもがくほかはない者です。喜びも時にありますが、多くの場合、苦しみと痛みそして悲しみが私たちを襲ってきます。それは、あなたから離れ、あなたを信じない、私たちの罪の姿です。
  そんな私たちに、あなたは愛をもって働きかけてくださいました。御子イエス・キリストが、私たちに極めて「近く」、どこまでも共に、十字架に至るまでも共 に生き、そして死んでくださいました。またイエスは復活の主として、今も「主は近く」、私たちと常に共に歩んでいてくださいます。そのあなたから、「人知 を超えた喜びと平安」が、今日も私たちにやって来ます、私たちに働きかけ、私たちをあなたと共に、またすべての人と共に生きる道へと招きます。
 どうかこの喜びを受け入れ、あなたにすべての思い煩いと苦しみを委ねて、信仰と希望と愛のうちに生きることを与えてください。一人一人と教会が、この救いと恵みの証人として送り出され、豊かに用いられるようにしてください。
まことの道、真理そして命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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