神の国の喜びにふさわしい教会       ローマ人への手紙第14章13〜19節

 
  ローマ教会の問題は、「食べることと飲むこと」でした。「信仰とは何ぞや」とかではなかったのですね。極めて具体的かつ切実なこと、そしてある意味では 「些細なこと」とも言えるようなことだったのですね。しかし、この「些細なこと」が、教会ではしばしば大問題になります。使徒行伝8章を見ますと、初代教 会で最初に起こったもめごとが、やはりこの食事に関することでした。食事の配給を巡って、教会が分裂さえしそうになったのです。そして、教会における問題 は、どんなことであっても、その背後には関係の問題があります。人と人との関係の破れ、関係の危機があるのです。

 ローマ教会では、その 関係の危機、それは「食べる者と食べない者」また「弱い者と強い者」との関係の問題でした。「弱い者たち」というのは、何かにすがらなければ、特に人間的 な決まり事に従わなければ、生きていけないと思っている人たちのことです。この「弱い者」たちは「食べない」のです。「クリスチャンは、肉を食べてはなら ない。何々をしてはならない、この日を特別な日として重んじなければならない」、そう思わないと生きていけない、そんな人たちです。これに対して「強い者 たち」とは、「食べる者」たちです。「クリスチャンは、キリストの自由を与えられているのだ、だから、何を食べても飲んでも自由。別に何かの日を特別扱い する必要はない」、そう思って行動できる人たちでした。「それはそれで結構なことだ」と、パウロは言います。彼自身も、どちらかと言えば「強い人」です。 「わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。」
 しかし問題は、この両者が「さばき合う」ことで す。「強い者」は「弱い者」を軽んじ、ばかにする。「あの人たちは、クリスチャンのくせに窮屈で、不自由で、全然喜びのないような生活をしている。」反対 に「弱い者」は「強い者」を裁くのです。「クリスチャンのくせに、この世的な生き方から抜け切らない。」また、相手方の前に、「妨げ」や「つまずき」を置 いてしまうことです。「妨げ」とは無意識的にあるいは善意からでも相手を傷つけてしまうこと、また「つまずき」とはわざとあるいは悪意をもって相手に害と なる言動を取ることです。

 この問題に対してパウロは勧めを語るわけですが、ここでパウロは、ちょっとした「駄洒落」を言います。問題が 深刻になるほど、そこに「息抜き」を忘れない、さすがパウロですね。それは13節です。「それゆえ、今後私たちは、互いにさばき合うことをやめよう。むし ろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまづきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。」別に「だじゃれ」なんかない箇所だと思いがちですが、 実は元のギリシャ語だとそれが出るのですね。「互いにさばき合うことをやめよう」、ここでの「さばく」は「クリノー」という言葉です。そしてまた「兄弟の 前に置かないことに、決めるがよい」の「決める」も、「クリノー」なのです。ですから、「互いにクリノーし合うことはやめよう。だけど、兄弟をつまずかせ ないことにクリノーしよう。」わかっていただけましたか。「クリノー」の意味は「判断する」です。相手を「悪く判断する」と「さばく」ことになり、「相手 のために良く判断し、決める」ことにも使うことができるのです。
 パウロは、この両者に向かって呼びかけます。「今後わたしたちは、互にさばき合 うことをやめよう。」特に「強い者たち」に強く呼びかけます。なぜなら、「強い」方が、自分を曲げ譲ることがより大きくできるはずだからです。「むしろ、 あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。」「もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや 愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。」「食べても飲んでも自由ならば、食べなくても飲まなくても自由なは ずだ。ところがここに、あなたが肉を食べ酒を飲むことでつまずき、信仰の危機に面する人がいる。ならば、その自由を食べす飲まないことに使いなさい。」

  さて、ここからが大切です。なぜ、何を根拠にパウロはそんなふうに言うのでしょうか。と言うのは、これは単なる「牧会的配慮」の問題ではないからです。彼 は言います、なぜなら「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」(17節)からだ。この文では、「聖霊」を後の三つそれぞれ全部 に懸けて読む方がよいと思います。「神の国は飲食ではなく、聖霊における義と、平和と、喜びとである」と。
 聖霊とは、何か私たちの生活と関わり の薄い、高尚で深遠なことではないのです。そうではなくて、聖霊はまさに私たちの生活・私たちの生きる現実・私たちの教会生活のただ中で、私たちに語りか け、私たちに問いかけ、私たちの生き方を正し、私たちを喜ばしく希望に満ちた道へと導くのです。
 具体的に言えば、聖霊は私たちの「判断」を問 い、正し、導くのです。最初に「クリノー」という言葉は、善悪どちらにも使えるのだと申しました。聖霊は、私たちの「クリノー」、私たちの「判断」を問う のです。あなたの教会の仲間、「兄弟姉妹」、友に向かって、どのようにあなたは「クリノー」し判断するのか。悪く、軽んじて、「クリスチャンのくせに」 「こんなことをするのか、こんなこともできないのか」「ろくな者ではない」と、悪く、意地悪く、価値低く判断し、裁くのか。それとも、その人のために、で きるだけ良いように判断し評価し、「妨げとなる物やつまずきとなる物を、その前に決して置くまい」と、「平和に役立つことや、互いの徳を高めることを追い 求め」るように判断し決めるのか。

 そして、問題は事の善悪だけではありません。それを超えて、最終的には、それがだれの判断なのかとい うことが決定的なのです。聖霊は語り、問い、勧め、導くのです。「あなたの判断でなく、自分の判断でなく、聖霊が与え導く、神の判断をこそよしとし、受け 入れ、それに自分を従わせるのか。」「聖霊が与える神の正しい判断」、これが「聖霊による義」ということの意味だと思います。
 だからこの14章 には、あえて「大げさな」ことが語られています。このある意味で「小さな」、何を食べ・食べないのかとか、教会の中での争い事ということの中で、そのため に最も大きく、中心的なことが、聖霊に導かれて語られるのです。「あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、いや彼のた めにこそ、死なれたのである。」まさに聖霊が、教会の争い事のただ中で、このことを、これほどのことを語り、思い起こさせるのです。
 だからこ そ、パウロはこの話の中で、私たちにとって最も根本的なこと・中心的なこと・大いなることを語り出すのです。少し前の6節中ほどからです。「食べる者も主 のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分の ために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても 死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」
 「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」それは、クリスチャンは もちろん、本質的・究極的には「すべての人」が、どんな人であっても、そうなのです。「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のもの」、「キリスト は、この人のためにこそ死なれたのだ」、そんな人をどうしておろそかにできるでしょうか、分け隔てできるでしょうか、軽んじ裁くことができるでしょうか、 いやむしろどうしてその人に愛を注がないでいられるでしょうか。これが、正しい判断、正しい評価、正しい関係、「聖霊による義」なのです。

  そして、それは「聖霊による平和」です。「わたしたちはみな主のもの」であると「判断する」なら、私たちは愛のうちに、愛を追い求めて、共に、平和に生き ようするほかはないのです。「つまずき」や「さまたげ」となる物を取り除くことはもちろん、「互いの徳を高めることを追い求める」よりほかはないのです。 「この人もまた主のもの」であるなら、私は、私たちはこの人のためにどんな良いこと、どんな益となり、幸いとなることをし合うことができるでしょうか。こ のように問いつつ歩み、共に生きる、それが「聖霊による平和」です。

 さらにそれは、「聖霊による大いなる喜び」です。「生きるのも主の ために生き、死ぬのも主のために死ぬ」、「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のもの」、そのように生きられるなら、それは大いなる「喜び」では ないでしょうか。「生きるにしても死ぬにしても」、それは私たちが人生で出会い経験するすべてのことを指しています。中でも、「死」こそは私たちが最も嫌 い、避けようと思い、行動するものです。でも、聖霊は、実に不思議な「判断」を与え、導くのです。「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のも の」、あなたが生きて行くすべての道において、死の瞬間に至るまでも、「あなたは主のものである」、あなたのすぐ傍らにいつもこのイエスがおられる、あな たを愛して、ご自分のすべて、ご自分の命までも投げ出し、献げられた方がおられる。死と罪に打ち勝って復活し、今も生きておられる主が、あなたと共におら れる。それはいわば、「決して当たり外れのない人生」です。この道を共に歩み共に生きる、それは「聖霊による大いなる喜び」なのです。

  教会における「関係の破れと危機」とは、私たち人間全体、社会全体の破れと危機を表わし、反映しています。「積極的に他の人々の前に『つまずきとなる物を 置く』のは、人間社会においてはは、不幸なことではあるが、日常的である、と言えよう。この種の事例は、挙げたら際限の無いほどである。国家と国家の間 で、民族と民族の間で、同胞間で、また、政治、経済、社会、家庭の各領域において絶えるこなく生起している。恐ろしいことではあるが、人間は、あるがまま では、『つまずき』を隣人の前に置くような者であると認識することが大切である。」(土戸清氏)その意味で、確かに「教会は社会の縮図」です。
  しかしまた逆に、教会は「神の国のしるし」でもあるし、「しるし」として生きるのです。私たちがキリストによっていただいた神との愛の関係を、お互いの間 での関係、他の人々との関係、さらには社会における関係・社会のあり方にまで向かって語り、表し、及ぼして生きるようにと、私たち一人一人また教会が、今 日も神によって呼びかけられ、招かれ、託されているのです。「『もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子である ことを、すべての人が認めるのです』とあるように、個人の信仰生活が個人で終わりにならず、個と個とが愛し合うことによって、キリストが存在し、その間に 神の国が建設されるなら、人々はだまっていても集まってくるであろう。どんなに熱心で、真面目でも、他者との関係の中に神の国のうるわしさを作るのでなけ れば、人々はついて来ない。」(大川従道氏)「教会とは、この世界のただ中で、目には見えない神の愛と平和を、しかし、目に見えるように映し出す使命、責 任が与えられているわけです。」「教会が、この国、この社会、この町に住む小さな人々に向けて神から送られた愛と平和の手紙として知られ、読まれて行く」 べきなのだと言うのです。(相馬伸郎氏)「こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受け入れられるのである。こういうわけで、平和に役立 つことや、互いの徳を高めることを、追い求めようではないか。」

(祈り)
主イエス・キリストによって私たちすべての者に愛と和解を与えられた神よ。
  あなたの愛と和解が、聖霊によって絶えず私たちの心に、そして私たちの教会のただ中に豊かに注がれていることを、心から感謝いたします。どうか、神の国の 愛と和解とが、私たち一人一人また教会を通して、この世に対して、そこに住む一人一人に対して、とりわけ「いと小さき者」たちに対して語られ、証され、分 かち合われて行くことができますように。
まことの道、真理、命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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