喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい       ローマ人への手紙第12章9〜18節

 
  「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」。美しい言葉です。しかし、これこそ私たちにとって大変難しい教え、いや「できない」というほどのことだと いうのです。「人間にとって、何が難しいといって、喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者とともに悲しむことぐらい難しいことはありません。それでいながら、どの 人にとっても、喜ぶ時に一番欲しいのは、一緒に喜んでくれる人であり、悲しい時にほしいものは、やはり、共に悲しんでくれる人であります。つまり、ひとに 対しては、最も困難なこと、そして、自分は、一番してほしいことであります。ここに、われわれが、どんなに身勝手であるかが、あらわされていると思いま す。」(竹森満佐一)
 ドイツ語には一語で「他人の不幸を見て喜ぶ」という言葉があるそうです。でも、ドイツ人だけが冷酷なわけではなくて、それ は万国共通の人間のありようではないでしょうか。「今日のような競争社会においては、他人の不幸や悲しみを共に担うことはむずかしく、むしろ逆に、他人の 失敗を見て我がしあわせを喜ぶということになりやすい。しかしさらにむずかしいのは、他人の幸いや喜びを、自分のこととして共に喜ぶことである。他人の成 功は羨望や嫉妬の的となり、そこからお互いのあげ足取りやひっぱり合いが始まるである」。(森野善右衛門)
 私たちの中にも、喜びや悲しみはあります。でも、「共に」ということがない、極めて乏しいのではないでしょうか。このような「自己責任社会」では、喜びも悲しみもすべて「自己責任」、自分一人の中だけで自己完結してしまっているのではありませんか。
 また、私自身を振り返ってみて、私たちの社会は、「人を喜ぶ」「ほめる」ということが極めて少なく、下手であるということを思います。「けなす」「下げる」「駄目を出す」ということが圧倒的に上回っているのです。

  そういう私たち人間の罪と言いますか、問題性のほかに、私たち本来の限界性や困難性があります。それは、人の立場や思いを、本当のところはわからないとい うことです。喜んでいる人、とりわけ悲しんでいる人のその心、思いというもの、またとりわけその苦しみ・痛みというものを、その人ではない私は、究極のと ころ感じることができないし、理解することもできないのです。愛する人の苦しみは「替わってあげたい」とまで思うかもしれません。でも実際は、「替わる」 ことは決してできないのです。
 「わたしの友人の牧師で、三歳になったばかりの娘さんが隣の家に遊びにいって、その庭の池にはまって、死なせてし まったという経験をした人がおります。そのときに、近所の牧師仲間がきて、自分も同じように子供を亡くした経験があるから、あなたの悲しみはよくわかる、 一緒に祈りましょう、一緒に賛美歌を歌いましょうと言いに来た牧師がいたというのです。そのとき、彼はそれがとてもわずらわしかったというのです。そのと き、彼はこう思ったとわたしに話してくれました。『自分は娘を死なせたという悲しい経験をしてわかったことは、同じ悲しい経験をしたからといって、人の悲 しみがよくわかるなんていうことは、到底言えない』といったのです。」

 そうすると、この言葉を真剣に受け止め、聞こうとすればするほど、私たちは自分の現界性や問題性、そして無力に直面することになります。ただそういうことで終わってしまうのでしょうか。
  そうではありません。この言葉が、この「ローマ人への手紙」の中にあるということに、私たちのための「糸口」「助け」「突破口」が開かれているのです。パ ウロはこの手紙を、「イエス・キリストの福音」を伝えたいがために書きました。それをずっとこれまで書いてきたのです。その上で今、このように言うので す。だから、これは「キリストの福音」に基づいた勧めです。またパウロは、「福音」を一言で振り返ってこの12章をこう始めました。「兄弟たちよ。そうい うわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。」その後のすべての言葉に、この「神のあわれみによって」はかかるのです。「神のあわれみによってあ なたがたに勧める。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」これは、「神のあわれみ」に基づく勧め、それに支えられ、導かれている言葉なのです。
 イエス・キリストの福音が語ること、私たちに告げること、それは「神のあわれみ」です。「神の愛」です。「神の愛がわたしたちの心に注がれている」のです。「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」のです。
  イエス・キリストが、その人と共に、その喜ぶ人と共にいてくださるのです。またイエス・キリストが、その悲しむ人と共にいてくださるのです。その人と、ど こまでも共にあっていてくださるのです。その人のことをどこまで理解し、どこまでも共感し、そしてどこまでも連帯していてくださるのです。「どこまで も」、それは「十字架に至るまでも」ということです。それは実際に、本当に成し遂げられました。「十字架に至るまでも」、自分の心と体をすべて用い捧げ て、そしてその命を使い尽くし投げ出して、そこまでその人と共にあり、その人を理解し共感し、その人と連帯し、その人を愛されたのです。私たちよリ先に、 この私よりも先に、その喜ぶ人と共に喜び、その悲しむ人と共に悲しむ方がおられる、いてくださるのです。そして、このお方、イエス・キリストが、その人と 私との間にいつも立っていてくださるのです。
 だからこそ、このイエス・キリストのゆえに、私たちにもこのように勧められ、命じられ、招かれているのです。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」。

 ならば、私たちはこのお方と共に始めることができます。イエス・キリストと共にこの道を歩み始めることができるのです。今も生きたもうイエスと共に、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」、この道に踏み出すことができるのです。
  それは何より、「その人に対するイエスの思いとまなざしを知る」というところから始められると思います。その喜ぶ人と共に、またその悲しむ人と共に、主イ エスはどのようにして共に立ち、共に感じ、共に生きておられるのだろうか。イエスは、その人をどのように見、その人の言葉、叫び、うめきをどのように聞い ておられるのだろうか。イエスは、その人をどのように、どれほどまで愛しておられるのだろうか。私たちは、それを少ししか、あるいはほとんど、感じ取り、 理解することはできないでしょう。でも、ほんの僅かなら、許されて理解し、感じ取ることができるのではないでしょうか。それは、その人のために、イエス・ キリストによって神に祈るところから始まります。

 そしてこの道は、さらに具体的・積極的な姿を取ると思います。それは、キリストと共 に、その人をほめる、良いところを見い出す、そのようにしてその人を愛するということです。「神の愛が、あなたの心を支配するようにしなさい。そうすれば ―――私たちは、率先して他の人についてすてきなことを語るように、心がけることでしょう。また、進んで他の人に祝いの言葉を述べ、彼らとともに喜んであ げる人になることでしょう。私たちは親切なほめことばを口にすることによって、どれほど他人の生活にうるおいをもたらすことができるでしょう。それだけで なく、私たち自身の心と生活に、どれほどぬくもりと喜びを添えることでしょう。ほとんどの人は、ほとんどと言っていいほど、賞賛の言葉にあずかりません。 私たちはみな、賞賛に価することでも、当然のこととして受け止めます。」(『キリストに似るものとしてください』より)

 さらに私たち教会と一人一人の信仰者は、この「共に」ということ、「共に喜び、共に泣く」ということを、お互いの間で実践し生きつつ、この世に向かって、この「自己責任社会」に対して表し、伝え、分かち合って行くことへと招かれているのだと思います。
  アルノ・グリューンという人は、「自己責任社会」は、「戦争を肯定する社会」だと言っているように思います。そのような社会に向かって、私たちはこのよう に生きることで、「平和の福音」を宣べ伝え、証しするのです。「私たちは社会化の過程で、意識的であろうと無意識的であろうと、『自分の価値は、他者より も優位に立つことだ』と教えられる。そこでは、虐殺すること、人を見下すこと、人から奪い取ることが、幸福の源となる。」「戦争は避けられる。それは私た ちが考える以上に、簡単なことだと思う。なぜなら、私たちの多くが、人間的な結びつきを持つことにあこがれを捨てていないからである。その際に、私たちの 内面の深いところから湧いてくる夢が、戦争を避けようとする私たちを助ける。なぜなら、この夢が、私たちに真実をはっきり見分けるように、共感を私たちの 行動の基準にするようにと、私たちを勇気づけるからである。―――アメリカの先住民は、子どもたちに、『相手のために行うことは、すべて自分に返ってく る』と教えた。ダライ・ラマは、『私たちが隣人を助けることができないなら、自分自身も助けることができない』と書いている。彼はさらに、つぎのように主 張する。『愛や共感を大事に育てることで、このような生き方が可能になる。他者と苦しみを分け合うために他者の苦しみに立ち入っていく能力は、私たち人類 の種の保存のための基盤である』。」(アルノ・グリューン『私は戦争のない世界を望む』より)私たちをそのように教え、励まし、導いてくださるのは、私た ちの中に、そして私たちの間におられるイエス・キリストであり、その御霊なのです。

 「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」。イエス・キリストと共に、イエスを信じる私たちお互いと共に、この道を希望をもって進んでまいりましょう。
  「私達は、何を恐れているのだろうか。『泣く者と共に泣く』ことで、神の祝福が損なわれるのだろうか。そんなことで消えてしまう「喜び」など、表面的で限 りなく自己満足に近いものではないか。『泣く者と共に泣く』ことを静かに実践する時―――深い喜びと慰めを体験する。それは、天上の栄光を脱ぎ捨て、地上 において悩み苦しむ罪人の隣人となられたイエス・キリストの霊との交わりから与えられるものである。」(ブログ「an east window」より)

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父よ。御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  罪に泣き、この世の苦しみに泣く私たちのために、主イエスをお送りくださり、心より感謝いたします。イエスこそが、私たちに先立ち、私たちのために、「共 に悲しみ、共に喜ぶ」者となってくださいました。このお方が今も私たちと共に生きて、私たちを招いていてくださいますから、私たちもこの道、「喜ぶ者と共 に喜び、泣く者と共に泣く」道に信仰をもって踏み出し、希望をもって歩んで行くことができますように。
 イエス・キリストの愛、神の愛が、いつも私たちの心に注がれていますから、どうか私たち一人一人に、私たちの教会に、そのように生きるための愛を豊かに与え、お導きください。
まことの道、真理、そして命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る