人の前で受け入れよ       マタイによる福音書第10章24〜33節

 
  今日イエス・キリストは、このように語って、私たちに問いかけ、挑んでおられます。「人の前でわたしを受け入れる者を、わたしもまた、天にいますわたしの 父の前で受け入れるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。」二度「人の前で」という言葉が出て 来ます。「人の前で、わたしを受け入れ、認めよ」と言っておられるのです。「人の前で」と対照される言葉は、「心の中で」ということです。もちろん、信仰 は「心の中で」起こり、始まるでしょう。しかし、それはいつまでも「心の中に」限定されたり、とどまったりはしないのです。「心の中で」信じられたこと は、「人の前で」語られ、表わされ、行われることになるのです。私たちの信仰の核心は、イエス・キリストとの「関係」ですから、それは「人の前で」イエス を「わたしの救い主、主」として受け入れ、認め、告白することになるのです。
 「人の前で」、それは人々の間でということであり、社会の中で、公 の場で、そして聖書の表現によれば「長官たちや王たちの前」で、国家や社会の責任ある人たちの前で、ということです。その人たち、その人々の前で、「わた しを受け入れよ」とイエスは語り、問いかけて来られるのです。

 「人の前でわたしを受け入れよ」、この主イエスの御言葉が、今日のテーマ と密接に関わっています。それは「信教の自由」ということです。イエス様からこう言われ、問いかけられているので、私たち信仰者また教会は、「信教の自 由」を国家・政府に対して主張し、それを守らせようと求めるのです。「信教の自由」、それはまさに「人の前で」信仰を告白する自由です。「心の中」だけで こっそり信じている「自由」ではありません。「心の中では何を思い、信じようと自由だが、公の場ではそんなわけにはいかない」というようなことではあり得 ないのです。それは、「人の前で」、信仰の言葉を語り、そしてその言葉の通りに「人の前で」行動し、その言葉を行動と生き方を通して表して生きる自由で す。
 この自由に対して、私たちが生きる日本は、極めて無理解・不寛容である社会であると感じます。「信仰などというのは、心の中だけにとどめて おくのが良いのだ。心の中でなら何を信じようと自由というか、勝手だ。しかし、人の前で、公の場で、それを自由に表して生きてもらっては困る。」音楽の先 生で、「君が代」の伴奏を断って、処分を受けたクリスチャンの方がいます。この方に対して、裁判所もまた同じことを言いました。それは、「心と体・生き方 とが裏腹・ばらばらでもいいじゃないか」ということではないでしょうか。それは、実際は「信じる心」をも軽んじることであり、貶めることになると思いま す。それは、「信仰などというのは、行動や生き方に影響を与えることなどできないほど無力なものだ」と言っていることになるからです。

 けれども、イエス・キリストは、私たちにイエスの御言葉を「人の前で」語れ、公に勝たれ、あからさまに語れと言われます。「わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。」
  イエス・キリストの言葉、それは何でしょうか。イエス様の宣教、それは一言にまとめられます。「神の国は近づいた」。「神の国」が近づきました。神様のご 支配、神様の愛と恵みがこの世に及び、そこに住む私たちに注がれ、その働きを始めているのです。だから、「神の国」の力が働いていますから、この世の有り 様、物事は、もはや「今まで通り」ではなく、根底から変えられ、変わり始めているのです。
 イエスは教えて言われました。「あなたがたの言葉は、 ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。」イエスが宣べ伝える「神の国」、それは「しかり」をもたらし、「しかり」の言葉を語ります。イエス様は、 その時代に生きる、貧しい者、弱い者、虐げられた者、罪に定められ罪に苦しむ者に向かって、神の無条件の「しかり」、赦しと励まし、思いを越える「しか り」の言葉を語られました。それは、「生きよ」という言葉です。「あなたは神から愛されて良いのだ。だから、生きて良いのだ」という語りかけであり、行動 であり、働きかけです。イエスがそのように私たちにも語ってくださったので、私たちもまた、この「しかり」の言葉を、「明るみで」「屋根の上で」「人の前 で」語り、行って生きるのです。
 同時に、イエスがもたらす「神の国」、それは「否」という言葉をも語り、語らせます。そのような「神のしかり」 に逆らい、反対する「この世」とそのすべての人々に向かって、時には「否」の言葉、批判し、問いかけ問い返す言葉、そのようにしてこそ「神のしかり」、神 の愛へと導き至らせる言葉を語って行かなければならないのです。ローマ帝国下での初期キリスト教会の研究をされてきた弓削達氏は、こう語られたそうです。 「今日『私はクリスチャンです』という証言は、何の衝撃も与えない。それはクリスチャンが社会に対する根底的批判をそぎ落としてしまったからではないか。 社会正義、経済正義、人権、核などの問題に対して、自分たちの利益を損なうまでに叫べば、もっと人々から嫌われるはずではないか。」(松本敏之氏による、 同氏『マタイ福音書を読もう2』より)

 でも、この委託と命令をイエスから受けるとき、私たちは「恐れ」に囚われます。このイエス様の御 言葉の中には、その弟子たちの恐れ、私たち弟子として呼ばれている者たちの恐れが、響いています。そんな言葉を、「心の中に」留めて置かず、「明るみで」 「屋根の上で」「人の前で」語って行くならば、ひどい目にあわされるのではないか、苦しみを味わわされるのではないか。悪く言われ、人々特に力ある人たち の前に連れて行かれ、そしてついには殺されることさえあるのではないか。だからこそ、イエス・キリストは、その私たちに向かって「恐れるな」と語ってくだ さいます。「恐れるな」と慰め、励ましてくださいます。「恐れるな」と力づけ、再び送り出してくださいます。
 第一の「恐れるな」のメッセージは これです。「弟子はその師以上の者ではなく、僕はその主人以上の者ではない。弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。 もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。だから、彼らを恐れるな。」「師」とはイエ ス・キリストであり、「主人」とは、イエスその人です。「師」であり「主人」であるイエス様が、ひどい悪口を言われた、「ベルゼブル、あれは悪霊の頭だ」 言われたのです。ならば、その私の「弟子」であり「僕」であるあなたがたが、多少悪く言われたからとて、何の不思議はない。あるいは、もっとひどく、立ち 直れないほど悪く言われることがあっても、この私がそれほどひどく言われ、扱われたのだから、あなたがたは不思議に思うこともなければ、恐れることもな い。
 それは裏を返せば、私たちがイエス様の御言葉を「人の前で」語ったために、悪く言われ、苦しみを受けるなら、そこにはもう既に十字架の主イ エスが共におられたのです。イエスが私たちに先立って苦しみを受け、イエスが私たちと共に苦しみを受け、私たちを支え、教え、力づけてくださるのです。そ して、弟子の道は、師の道に似るのです。イエスが十字架につけられ、捨てられ、殺されて死んで、その三日目に墓の中から起こされ、復活されて、勝利者とさ れたのならば、私たちもまた主の後に従い、死の中から引き上げられ、神によって復活の勝利者とされるのです。先日おいでになった常務理事の吉高叶先生は、 日本の教会の歩みを振り返ってこう言われました。「私たち日本の教会は、あまりにも『世の中から、社会から受け入れられ、喜ばれる教会になろう』として来 たのではないだろうか。むしろ、私たちはイエスに従って、人々を受け入れる教会となるべきではないか。」

 第二の「恐れるな」はこれで す。「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼすことのできるかたを恐れなさい。」「この方を恐れ よ」、「神を恐れよ」と言われているのです。「神を恐れる」、だからこそ人を恐れないのです。「神を恐れる」、だからこそ「悪口を言われる」ことを恐れな いのです、迫害されることを恐れないのです。
 「神を恐れる」こと、それは何だと思いますか。意外や意外、イエス様は、それは「愛を知ることだ」 とおっしゃるのです。「神の愛を知ることだ」とおっしゃるのです。「二羽のすずめは1アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しが なければ、その一羽も地に落ちることはない。」1アサリオンというのは、当時の最も小さいお金の単位だそうです。だから、「一羽のすずめ」は、1アサリオ ンにも満たない、最も小さい、そして「価値が低い」とされるものかもしれません。しかし、イエス様はこう言っておられるのだというのです。「そのうちの一 羽さえも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。」(岩波書店『新約聖書1』より、佐藤研訳)訳者の佐藤研さんは、これはこういう意味だと言われ ます。一羽のすずめが「地に落ちる時は神が支えつつ、共に落ちてくれる」! (同上)
 「地に落ちる時は神が支えつつ、共に落ちてくれる」、なん と大げさなと思いますか。いいえ、私は「これが神の愛だ」と思います。なぜなら、神はこのイエス・キリストにおいて本当にその通りに、御自身の愛を表され たからです。神は、御子イエス・キリストにあって、御自身の命をすら投げ出して、「最も小さい者」を愛し、徹底的に共にいてくださるからです。「神はその ひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)ある方は この愛を「ぶっちぎりの愛」と言いました。この「ぶっちぎりの愛」をもって、イエス・キリストの神は、「あなたがたの頭の毛までも、みな数え」てくださっ ている、それほどに私たちを知り、心にかけ、愛していてくださるのだというのです。「なんと大きな、底知れない愛だろう!!」それが正しい「恐れ」です。 「神への畏敬」であり、「神への愛」なのです。このお方への信頼と愛こそが、恐れを締め出し、恐れを克服し、恐れに打ち勝つのです。「神がわたしたちの味 方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみ ならず万物をも賜らないことがあろうか。」(ローマ8・31)

 そして第三の「恐れるな」はこれです。「それだから、恐れることはない。 あなたがたは多くのすずめよりも、まさったものである。」その後、「人の前でわたしを受け入れる者は」と続いて行くのです。私はここに福音があると思いま す。イエス様という方は、要求し、命じる前に、与えてくださるのです、大いなる恵みと助けを注ぎ与えてくださるのです。主は「人の前でわたしを認めよ」と 言う前に、真っ先に私たちのことを認めてくださいます。「あなたがは多くのすずめよりもまさった者である」と。「あなたがたは神から愛され、数えられ、覚 えられている者だ。価値ある者だ、重んじられている者だ、愛されている者だ」と語り、約束していてくださるのです。
 この神の愛が何よりも先にあ る。こんなに多くを与えられ、こんなに多く愛されている、だからこそこう語りかけられ、ここまで求められているのです。「だから人の前でわたしを受け入れ る者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受け入れるであろう。」このイエスの御言葉は、ある面「裁きの言葉」であり「恐れを引き起こす言葉」で しょう。しかし、それは何よりイエス・キリストの約束の言葉であり、希望をもたらす言葉なのです。「わたしはあなたがたをこの愛している。わたしは、わた しに従い、福音に忠実に歩もうとして来たあなたがたを、決して見捨てない。必ずあなたがたを父の前で認め、喜び、誇りとする。」このイエスを信頼し、仰 ぎ、望みつつ、今ここで私たちに委ねられている課題を、喜びと感謝と希望をもって、共に力いっぱい果たしてまいりましよう。

(祈り)
天地の主なる神、私たちすべての者を愛する神様、世界と歴史の主なる神よ。
  私たちを極みまで、すべての者を愛してくださるあなたの福音の言葉を、どうか、恐れることなく、どうか「人の前で」語り、行い、生きる勇気と力、そして愛 と希望を豊かにお与えください。お一人一人また私たちの教会を、そのような良き弟子、僕、証人として送り出し、豊かにお用いください。
天と地のすべての権威をもって今も生きておられる主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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