なおさらの愛を喜ぶ       ローマ人への手紙第5章6〜11節

 
  「聖書を読むときは、接続詞に注意するとよく分かる」ということがあります。「接続詞」というのは、「つなぐ言葉」ですね。「だから」とか、「しかし」と かです。これを注意して拾って読んでいくと、話の展開がよくわかる、どういう理屈で話が展開していくかがよくわかるのだというのです。特にこのパウロの手 紙のような文章には、有効な方法だと言えましょう。
 今日の所は、まさにそうです。短い中に、「なおさら」、「なおさら」、「そればかりでなく」 と、畳み掛けるように続きます。「なおさら」というのは、既に起こった出来事、現在も続いている事実に基づいて、それを踏まえつつ、「それ以上のことがあ るよ」と告げる言葉です。「なおさら」「なおさら」、これは上昇して行く調子を強く表していると感じます。それだけでもそうですが、パウロはそこにまた 「そればかりではなく」と続けて締めくくるのです。「なおさら」「なおさら」、「そればかりでなく」、次々に上がり、昇って行く調子を表現しているので す。そんな音楽を想像してみると、わかるでしょう。

 「なおさら」は、既に起こった出来事、今も存続している事実に基づき、それを踏まえている言葉だと申し上げました。その「既に起こり、今も存続している出来事・事実」とは、いったい何でしょうか。
  それは、「神の愛」です。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。」「しかし、まだ罪 人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」人間の愛は、「正しい人」のため であっても、その人のために死ぬことはほとんどない。「善人」のためなら、ないことはないけれども、「あるいはいるであろう」という程度。しかし、神の愛 は、「弱い者」「不信心な者」「罪人」のために、神を知らず、求めず、信じない、だから全く神に関心もなければ、聞く気もない、そんな者たちのために、死 ぬことさえいとわない。その人が生きるために、その人が救われるために、自分の命を投げ出してもかまわない。その愛なんだ、まさにこの愛なんだ、イエス・ キリストが自ら十字架の道を選び取り、歩み抜いて、苦しみと裁きをことごとく引き受けつつ死んだその愛、これが神の愛なんだ。この愛を、神は示されたの だ。この愛を、神は私たちに与えてくださったのだ。この愛をこそ、パウロは踏まえているのです。この愛は既に起こった、この愛は今も変わらず私たちと共に ある、この愛こそは、今も私たちを救おうとこの世界のただ中で働き続ける。「ならば、なおさら」とパウロは続けるのです。

 でも、それは、私たち人間の間では、なかなかそうは行かない話です。かえって、しばしばその反対を行き、「裏切られた」と思うことがあるような話です。
  こんな良いことがあった、こんなすばらしいことがあった、「だからなおさら」とは行かずに、「でも、その後事情が変わった、だから申し訳ないが、続けるわ けにはいかない」、これが私たち人間の世界の成り行きではないでしょうか。「鳴り物入り」で始まったこと、「これからは新しい時代が来る、すばらしい生活 が始まる、希望の未来が待っている」と宣伝されて始まった計画やプロジェクトが、その後全く違った展開と結末を迎えて、失望と幻滅に終わったということ が、何度私たち人間の歴史で繰り返されてきたことでしょうか。私たち人間の愛、この世の愛は、まさにそうです。「きのうは愛したけれど、今日は愛している けれど」、いつか色あせ、力が弱くなり、やがては衰え無くなってしまう。

 しかし、神の愛は、それとは違うのです、「なおさらの愛」なの です。それは、「かついてあの時、あそこで、イエスが苦しみ悩む罪人たちと共に生き、全世界の罪を引き受けて十字架の道を選び取り、歩み通して、私たちの 救いのために死なれた」という出来事に基づき、それを踏まえて、「だからなおさら」と語るのです。「わたしたちは、キリストの愛によって今は義とされてい るのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。」
 また、「今このように神の恵みの中へと、神の愛による幸いな関係の中へと、 導き入れられ、置かれ、その中でまさに愛されている」のだから、この出来事、この事実は今も変わることなく、存続し、働き続けているのだから、「なおさ ら」、さらに深まり、拡大し、高まって行き、ついには完成に至るのだとパウロは畳み掛けるのです。「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死に よって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」
 先週私は、「私たちの『内容』が 問題なのではなく、神が私たちと結んでくださる『関係』こそが大切であり、決定的なのだ」と申し上げました。まさに、その通りです。この「なおさらの愛」 によって生かされ、導かれて行く、神との「関係」こそ、私たちの信仰であり、恵みによって導かれる私たちの生涯なのです。

 南小倉教会の牧師谷本仰先生は、北九州市でやはり「ホームレス」支援に関わっておられるのですが、その中での経験を証ししておられます。それは、自分が直接関わった方々が相次いで亡くなられるという体験でした。
  「『水曜日、Aさんが亡くなった。自分で命を断ったのだった。四月に支援住宅に入居した日に銭湯に行った時のことを話してくれたのが昨日のことのようだ。 ―――それからわずか13日後の、出来事だった。僕は、言葉が、ない。いや、言葉がないのではない。なぜだ。お前のせいではないのか。お前の関わり、お前 の言葉が、彼を死に追いやったのではないか。そんな言葉が心の暗い根っこから聞えてくる。―――そして土曜日、今度はKさんが若松で電車にはねられて亡く なった。彼は支援住宅の最初の入居者の一人だった。そしてやっぱり僕が担当者だった。―――自立後、彼は僕にも怒りと疑いを向けた。そして僕は彼の担当を 離れた。―――関わっても、関わらなくても、人が、死ぬ。八方塞がりだ。―――』―――私は牧師になって初めて説教に全く手をつけることができずに翌朝を 迎えるという体験をしました。水曜日にAさんが亡くなって、その土曜日にKさんが亡くなった。私はこの文章をなんとか書くところまでは書いたのですが、説 教を書くことができませんでした。ですから、聖書の箇所だけを決めて、原稿もなしにただ説教台に立ったのです。そして執事たちに泣きながら『僕には言葉が ない』と言いましたら、『先生、大丈夫、ここに言葉があるから』と聖書を指しながら言ってくれました。『あなたに言葉がなくても、ここにちゃんと言葉があ るから』というその言葉を私は励みにして、説教台に立ちました。―――『私たちは杖にすがって立つ』という説教をしました。私たちは自分の足で立つのでは ない。杖にすがって立つのがクリスチャンだということ。杖というのは、神さまがお前のことを知っているという杖です。神さまがお前の罪を全部背負って、死 なれて、『お前、もう一回やってみろ』と言って下さっているという希望です。それが杖なのです。―――『―――『お前は罪人や。お前は人殺しや。お前は語 る資格などない。お前のこと知ってるぞ』というやつがお前を知っているのではない。お前を赦す私が、お前のことを知っているのだ』というその言葉だけを杖 にして、もう一回立ってみろと言って下さっている、そういう説教をしたのです。」(谷本仰「聖書研究:聖書と状況の対話を聴く」より、日本バプテスト連盟 ホームレス問題特別委員会編『「ホームレス」と教会』所収)
 谷本先生がいだいていた人間の愛は終わってしまいました、とうに終わっています。初 めは使命感と愛情と熱心に基いて、この二人の人たちに関わったに違いないのです。しかし、その愛は挫折し、終わってしまい、絶望と無力感に至りました。し かし、神の愛は、谷本先生に対して、また亡くなられたお二人の人に対しても、終わりませんでした、今も終わっていません。あの時あそこでイエスが、「お前 の罪を全部背負って、死なれて、『お前、もう一回やってみろ』と言って下さっている」、だから「なおさら」、今こそ、無力と絶望に陥っている今こそ、前に もまして強くこう言われるのです。「『お前を赦す私が、お前のことを知っているのだ』というその言葉だけを杖にして、もう一回立ってみろ」。「もし、わた したちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」

  「なおさら」「なおさら」、しかしこれでまだ終わりではないのです。さらに、「そればかりでなく」があるのです。「そればかりでなく、わたしたちは、今や 和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」何かほかのことやものではなく、神様がうれしい。神の愛でさえな く、神様ご自身がうれしい。神様の前で、神様と共に生きることができるならば、もうそれで十分、ほかに何もいらない、とくかく神様だけが喜びであり、うれ しい。
 これこそ、私たちの信仰と人生の、ただ一つの究極的な目的であり、目標です。私たちはこれをこそ生きるための希望として歩み、ついにそれに達するのです。「神を喜ぶ」、これこそ私たちの「すべてのすべて」であり、やがて本当に私たちの「すべてのすべて」となるのです。

  教会は、この神様を喜び、ただこの神の愛に生かされ、導かれ、それを喜び、分かち合い、伝えて行く者たちの集まりです。谷本先生が、その教会が、この世で 果すべき役割と奉仕について語っておられます。神の愛の証としてこの世の事柄、この社会で何を語り、どのように生きるのかということを語ってくださってい ます。それを最後にご紹介したいと思います。
 「教会は教会として関わったらよいと思いますし、信仰に基いて祈りながら福音宣教の言葉をもってや るべきです。市民運動と同じになってはいけません。市民運動には本当の意味での希望がないからです。市民運動は現実しか見えないからです。信仰がないから です。市民運動が絶望にさいなまれて倒れそうになったときに、それを後ろから倒れないように支えるのが教会の仕事です。『大丈夫、続けよう』と私たちは言 わなければならないのです。神様がいて下さる。赦してくださり、もう一回やれと言って下さるのですから、しんどいけれどももうちょっとやろうと言って ―――支える仕事が、教会の仕事だと思っています。」(同上)
 教会が知っているもの、それはこの神の愛です、「なおさらの愛」です。この愛こそ を、誰より教会が先ず喜び、それを周りの人々に、この社会とそこで生き苦しむ人々に、少しずつでも語り、分かち合い、共に喜ぶ。そのような信仰者一人一 人、教会となっていけますようにと、切に祈ります。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父よ、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  あなたはイエス・キリストの生涯を通して、とりわけその十字架と復活の道によって、「海よりも深く、空よりも広い愛」を表し、成し遂げ、与えられました。 それは「なおさらの愛」、あの時起こり始まり、今も変わらず存続し力強く働き続け、だから「なおさら」私たちを導いて、ついに完成にまで至らせる愛です。
 感謝いたします。この愛こそが私たち教会に与えられ、委ねられ、託されています。どうか、私たち一人一人が、この愛を受け喜ぶ証人として、ここから送り出され、それぞれの場に置かれ、そこで用いられますよう、切に祈り願います。
まことの道、真理、いのちであるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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