この関係の中で喜ぶ       ローマ人への手紙第5章1〜8節

 
  「信仰は山登りに似ている」と言った人があります。「岩をよじ登り、草を分けて、汗をふきながら、ようやく一つの高みにたどりついたら、今までは見えな かったように思われた天地が、一度に開けてきたように思われるのです。青空が地平線まで広がり、緑の平野を一望の下に集めることができるのです。」(竹森 満佐一)私たちの信仰には、そのような瞬間がある。また、このパウロの「ローマ人への手紙」もそんなふうに書かれていると思います。ここまでの所で、パウ ロはイエス・キリストの福音についてずっと語ってきたのです。それが一つの締めくくりに達して、一つの高みにたどり着いて、そこから今までの道を振り返り ながら、新しい高みを目指す歩みを目指す、今日の部分はそんな所です。

 前回の所でパウロは、神は救い主イエス・キリストにおいて、イエ ス・キリストを通しして、私たちに良いことを行い、良いものを下さったと語りました。その「良いこと」「良いもの」とは何なのでしょうか。イエス様が私た ちに下さっている「良いもの」「良いこと」とは何でしょうか。
 それは、「関係」です。「神様との良い、正しい関係」、それをイエス・キリストは 私たちのために開き、与えてくださったのです。「関係」、これこそが大切であり、決定的なのです。「イエス・キリストによって、神に義とされる」というと きの「義」とは、「内容」ではなく、「関係」に関する言葉なのです。
 ここでよく誤解をする方がいます。クリスチャンになるとは、「いい人」にな ることだ、「だから、もう少し努力して、まともな人間になってから、クリスチャンになります」という人がいます。「もう少し聖書や信仰のことがわかって、 自信ができたら、バプテスマを受けます」という人もいます。「関係」ではなくて、「まともな人間、良い人間になる」とか、「聖書や信仰の知識」とか「自 信」というような、「内容」をもらうのだと思うのです。
 ところが、キリスト信仰では、少なくともその初めは人間の「内容」は何も変わらない、別 に良い、優れた、強い人になるのではないし、なる必要もないのです。「放蕩息子」が父のもとに帰ってきたその時、彼は別に良い人間になったわけでもなけれ ば、奇跡的にまともな人間になったわけでもありませんでした。むしろ、彼は身も心も生き方も「ぼろぼろ」の状態になって、父の胸にまでたどり着いたのでし た。彼が長年培ってきてしまった、悪い生活習慣やライフスタイルはそのままであったことでしょう。それを丸ごと抱えたまま、彼は父のもとにやって来たので す。彼は、彼のままであったのです。私たちがイエス・キリストを信じて、父なる神のもとに帰ってくるときも、まったく同じです。放蕩息子が放蕩息子のまま であったように、その時私たちも、私たちのままなのです。

 私たちの「内容」は何も変わらない、そのままです。そうではなく、「関係」が 変わる。「わたし」は「わたし」のままで、弱い、不信心な、罪人のままで、神様が、神様の方から「わたし」と良い、正しい関係を結んでくださる。でも、こ のことこそが私たちに新しい命を与え、人生を変えるのです。これが、主イエス・キリストがご自身のすべてを懸けて私たちに与えてくださったことなのです。
  このことを、パウロはこのように表現しています。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、 神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって 喜んでいる。」今わたしたちは神との「平和の関係」の中に入れられているのです。何のこだわりも、責めも、わだかまりもない関係の中に置かれているので す。また私たちは「恵みの関係」の中に、神様によって何の条件も、能力も、資格も問われずに愛されるという関係の中に導き入れられているのです。そして私 たちは「栄光にあずかる」、神様が私たちを見捨てずに導き、必ず目標・完成・ゴールに至らせてくださるという「希望の関係」の中を導かれているのです。こ の「関係」、この神様との「太く、堅く、確かなパイプ」を、パウロは喜び誇るのだと語るのです。

 さて、「関係」を問い、ただし、確かめ るものがあります。また「関係」とは、問われてこそ、確かめられ、確かなものとして示されると言えます。それは「患難」と呼ばれるものです。またそれは 「試練」とも「苦しみ」とも呼ばれます。ここでも誤解する方がいます。「クリスチャンになったら、何の苦しみも悩みもなくなる」。そんなことはありませ ん。この世の常として、私たちには苦しみがやって来ますし、ひどく悩みもします。また、信じるからこその「試練」「患難」ということもあります。私たちの 信仰というのは、そういう煩わしい一切のものから逃れて、ひたすら静かに平穏に暮らすというようなものではありません。むしろ、そういうこの世の「嵐」と 「荒波」のただ中を、激しく動かされながらもしっかりと支えられて、力強く乗り越えてすすんで行くことができるものなのです。
 この道筋を、パウ ロはこんなふうに表わします。「それだけでなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、練達は希望を生み出すこと を知っている」。「患難をも耐える」「我慢する」というのではないのです。むしろ、それを「喜び」「誇る」とまで言う。またこれは、「艱難汝を玉にす」 「苦しみの中でこそ、人は強くなれる」というような精神主義、能力主義でもないのです。「苦しみをもプラスにできる人がいる」というような考えでは、そこ に「できる人」と「できない人」がむ生じます。
 これもまた「関係」の話なのです。その「患難」・試練・苦しみを前にして、この「わたし」は弱 く、無力なままです。もし「わたし」だけであるなら、こうなるほかはないでしょう。「患難は不平を生み出し、不平は不和を生み出し、不和は自暴自棄を生み 出し、自暴自棄は絶望と破滅に至る」。しかしそんな私たちを愛される神がおられます。そんな私たち、そんなただ中の私たちを愛し、愛し抜かれる神がいま す。そんな私たちを、決して変わらない愛と真実とをもって、その力ある御手をもって、神はこのように導いてくださるのです。「患難は忍耐を生み出し、忍耐 は錬達を生み出し、練達は希望を生み出す」。これは、そういう「関係」のストーリーなのです。だから、確信をもってこう言えるのです、「そして、希望は失 望に終ることはない」。

 どうしてでしょうか。どうしてそこまで言えるのでしょうか。その答えは「愛」です。「なぜなら、わたしたちに 賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」この「関係」を通して、この「太いパイプ」を通して、神の愛が私たちの心に 脈々と流れ込んで来る!
 「神の愛」、それは比べるもののない愛、途方もない愛、度肝を抜く愛です。私たち人間の愛は、たいていこうです。「正し い人のために死ぬ者はほとんどいないであろう」。私たちは通常、「人のために死ぬ」などということはできません。「正しい人のため」であっても、なかなか そんなことはできない。それどころか、ちょっとした犠牲を払うことさえ煩わしいと思える、まことに自己中心的な者なのです。そんな私たちでも、時に人のた めに犠牲を払ってもいいと思えることがある。「善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。」少し広げて、私たちに親しい人、何かしら魅力があ り慕わしい人、見どころがあると思える人のためには、何かをしてあげたいと思う、進んで犠牲を払う。それだって、「死ぬ」というほどの大きなこととなる と、「あるいはいるであろう」という程度なのです。
 ところが、神の愛はこうだというのです。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時い たって、不信心な者たちのために死んでくださったのである。」「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、 神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」「わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けた」。「弱さ」とは、あらゆる人間 的「弱さ」であり、欠点であり、限界性です。意志や気力の弱さであり、なかなか前向きになれず暗い心を振り払えないことであり、自信が持てず自分のことを 決して良く考えられないことです。あるいは、自信過剰であり、傲慢であり、他者を押しのけても何とも思わない、そして自分とその将来について慢心している ことです。また「不信心」とは、宗教的・信仰的なあらゆる弱さと不真実と悪を表わします。祈れない心であり、神に従うと言いながらそれを貫けないことであ り、神を信じることが隣人を愛して共に生きることに結びつかず、時に矛盾してしまう自己中心性であり、「都合の良さ」であり、弱さです。そして極め付き、 私たちは神の前に「罪人」であり「神の敵」なのです。神に徹底的に逆らい、根本的に離れ背いている者なのです。
 そんな者たちのために、犠牲を払 うどころではない、神の御子イエス・キリストは、そんな私たちのために、ご自分の命を投げ出し、私たちを救うために死んでくださった。それは、私たちのあ らゆる弱さ、不真実、自己中心、愚かさ、そして罪とそのあらゆる深みと暗さとを、ことごとくご自分の身に引き受け、担うことでした。それが、あの十字架の 道だったのです。それが、あのイエスの死の意味であったのです。
 このようにして神はその愛を表わされた、これが神の愛、これこそ神の愛だ! 一体全体、こんな愛ってありますか。まさに、比類のない、「度肝を抜く」愛です。

  この愛が、この神の愛こそが、私たちの心に注がれている、脈々と注がれている。この「関係」の中に入れられ、この「関係」の中に置かれ、この「関係」の中 を導かれている。だから、私たちは喜ぶのです。この「関係」の中でこそ、このように語って生きることさえゆるされるのです。「それだけでなく、患難をも喜 んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして、希望は失望に終ることはな い。」
 そして、この「関係」の中には、この「神との義なる関係」の中には、ただ「わたし」
だけが孤独にいるのではなく、「私たち」がい ます。この「関係」の中を、神に向かって共に生きるべき、信仰の友・同志たち、そして隣人たち、そしてまだ見ぬ多くの人々もいるのです。その間にあって私 たちは、この「関係」を映し出して生きる、この「神との関係」が、私たちのお互いの関係の中に映し出され、少しでもそれに似た関わりが示されるようにと願 いながら、互いに努力しながら、共に生きるのです。教会は、この神の愛と義が映し出され、語り合われ、分かち合われ、私たちの行いと言葉と生き方とをもっ て、この世に向かって、この社会に向かって、そこで生きる人々に向かって表される場なのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父よ、御子イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  イエス・キリストは、私たちに、あなたとの「義なる関係」を創り、開き、与えてくださいました。ご自身の命を懸け、ご自身のすべてを投げ出して、その中へ と私たちを導き入れてくださいました。私たちがこの世で日々出会う患難の中にあっても、この「関係」こそは貫かれ、確かめられ、全うされます。この恵みと 幸いを心から感謝いたします。
 どうか、私たち信仰者一人一人、また私たちの教会が、このあなたとの「恵みの関係」「幸いな関わり」を示し、表し、行い、生きることを通して、私たちの周りの多くの方々に伝え、分かち合うものとされますよう、切にお願いいたします。
まことの道、真理そして命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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