人生を喜び祝おう       ローマ人への手紙第5章1〜2節

 
  「人生を喜び祝おう」、これは、ある方が留学先で聞き、出会った言葉だそうです。「わたしが1968年にスイスの世界教会研究所で、世界の24カ国から来 た五十人ほどの牧師や神学生と一緒に学んでいたころ、みんなの中で合言葉のようによく使われたのが『人生を喜び祝おう』という挨拶でした。―――世界キリ スト教協議会WCCの世界総会に―――出席しましたが、総幹事のサムエル・コビア氏が、総括報告をしました。その冒頭に、南アフリカにやって来て、この土 地の人々が政治的、経済的困難の中で死と絶望にさらされて生きておりながら、陽気さを失わずに、生きていることを喜び祝っていることに深い感動を覚えたと 述べました。そしてこの『生の祝祭』こそが、教会の原動力だと語ったのであります。―――これこそがキリスト教生活の基本の調べであります。」(大宮溥 『新生の福音』より)
 「人生を喜び祝おう」、それは爆発的な喜びです。「人生を喜び祝おう」、それはイエス・キリストへの信仰に生きる者たちの合言葉なのです。
  「人生を喜び祝う」、それはいったいなぜでしょうか。何を喜ぶのでしょうか。どのように祝うのでしょうか。それを、今日与えられた御言葉が語り、教えてく れます。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたち は、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。」

 私たち、イエス・キリストを信じる者たちの喜び、何よりそれは、「神に対して平和を得ている喜び」です。
 「神に対して平和を得ている」、どうも私たちにあまりピンとこないような言い方・言葉遣いです。何がいったいうれしいのでしょうか。
  ある一つのことを理解するためには、その反対のことを考えてみれば、よく分かることがありますね。「神との平和」と言いますが、「平和」の反対は何でしょ うか。「争い」「敵対」「不和」「葛藤」「摩擦」「しっくり行かない」などが考えられるでしょう。神様との間にこういう問題があるとしたら、どうなるので しょうか。
 それを、大変わかりやすいイメージで語ってくださっている言葉に出会いましたので、ご紹介したいと思います。「神が恵みによって自分 に命を与え、人生を導いて下さっていることが実感できていないので、自分が何故生きているのかが分からない、人生を支える確かな土台が見つからない、だか ら人との関わりの中で、人が自分のことを認めてくれ必要としてくれることによって人生の意味や支えを得ようとしてあくせくしている。でもそのように人の顔 を伺って、人にどう思われているかを気にして生きることにはストレスが溜まるし、人と自分を比べることによる劣等感に苦しむことも起る。つまり自分が自分 であることを喜ぶことが出来ずに、そのことを人のせいにして人を恨んだりしている。あるいは社会的な地位や名誉や財産を得ることによって人生の支えを得る ことができると思って努力し、たまたま能力と機会に恵まれてそれを得たとしても、それが本当に人生を支えるものとなり、本当に喜んで生きることが出来るか というと、どこか虚しさがつきまとい、何かが違う、求めていたのはこんなことではなかったはずだという思いを拭い切れない。いや中には自分は成功し、様々 なものを得たことによって喜んで充実した人生を歩んでいると思っている人がいるかもしれないが、そうであればある程、誰にでも必ずやって来る人生の終り、 全てを奪われる死が恐ろしい。自分の死を平安な思いで見つめることが出来ず、それをなるべく見ないように、考えないようにしている、つまり死においても自 分を支える確かな土台が見えていない。―――それは、私たちが神の前に安心して立っていないということであり、神との間に平和を得ていないということなの です。」(藤掛順一氏、横浜指路教会ホームページより)
 ところが、パウロは言うのです、「イエス・キリストによって、私たちは神との間に平和を 得ている」と。私たちの救い主イエス・キリストがこの世に来られ、私たちの神様との敵対関係の真っ只中へと入って来てくださって、本来なら私たちが神様に 対して負っている罪、私たちが負うべき罰、私たちが支払うべき負債、その一切を引き受け、担って、私たちと神様のとの間を仲介し、和解させてくださったの です。それこそが、あのイエス・キリストの全生涯であり、とりわけその十字架の死を通って復活に至る道であったのです。しかも、この「平和を得ている」と いうのは、「平和を得て、しかもその平和が今に至るまでずっと続いている」という言い方をしています。
 だから今やまさに、私たちは、イエス・キリストによって、神との間に平和を得ている、それが喜びであり、それがうれしいのです。

  イエス・キリストを信じる人生の喜び、それはどんな有り様なのでしょうか。それは、「恵みの中に入れられ、恵みの中を生かされ、生きる」という喜びです。 「彼(イエス・キリスト)により、今立っているこの恵みに信仰によって、導き入れられ」ているのです。「恵み」とは、神様の恵みであり、神様の支配と導き です。それは、もう一つの国に生きることです。「神の国」に生きることです。イエス・キリストが来られて以来、私たちが知っていた「この世の国」の中に 「神の国」が入ってきて、その二つは触れ合っているのです。そういう中にあって、私たちは「神の国」へと導き入れられ、「神の国」の中を導かれ歩むことが 許されているのです。
 それは、こんな生き方であり、歩みなのだと教えられます。「私たちは、自分に命を与え、人生を導いて下さっている方が恵み 深い神であることを知っており、その神と共に生きており、その神の守りと支えとを日々感じつつ、自分が生きている理由、根拠はこの神の恵みであり、またど んな時にも人生を支えてくれる土台がそこにあることを意識して歩んでいる―――つまり自分の命と人生に確固たる根拠と土台があることを知っている者とし て、自分が自分であることを喜んで生きている―――さらには、自分に命を与え、人生を導いている神が、いつか自分の命を終わらせられる時が来る、しかしそ れもまた恵み深い神のみ業であることを信じて、神への信頼の中で自分の死をしっかりと見つめて生きることができている」。(同上)私たちは、このような人 生を喜び祝うのです。

 イエス・キリストを信じて生きる喜び、それはさらには、将来、「神の栄光にあずかる希望の喜び」です。「そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。
  そのようにして私たちの人生の喜びは、「イエス・キリストによって」、イエス・キリストを信じることをもって始まりました。それは、「私たちの何か」を作 り上げて、達成し、それを神様の前に提出して得られるようなものではなく、ただ「信仰によって」、何者でもない私が、何ものをもできず、成し遂げられず、 出せずにいても、ただイエス・キリストを信頼し、イエスにお任せし、イエスの後に従って生きようとする、ただこのこと一つによって始められました。
  この道、この歩みは、確かな、揺るがない、変わらない約束を持っています。それは、「神の栄光」に必ず至るのです。「神の国」の完成に必ず導かれるので す。「新しい天と新しい地」の完成にまで必ずたどり着くのです。私たちの人生は、ただ死をもって終わらないのです。私たちの生きる道は、罪の世をもって終 わらないのです。私たちの生きる場は、古い世界をもって終わらないのです。私たちの人生と歩みすべては、失望をもって終わらないのです。それは必ず神の栄 光に至る、そして希望のうちに、喜びへと必ず至るのです。
 今度の特伝講師の柏木哲夫先生が紹介しておられるエピソードです。
 「私たち には絶対背負えない領域があります。神様に背負っていただく以外に道がない領域というものがあるのです。あるとき、三回離婚歴のある女性の患者さんが、ホ スピスに入院してきました。その方は、三人の夫の悪口ばかり言っていました。ところが、だんだん身体が弱ってくるにつれ、結局悪かったのは自分ではないか といいう思いになってきました。そして、罪の意識が出てきて、にっちもさっちもいかなくなり、病室でも『自分は罪人だ、罪人だ』と言っていました。そんな 状態のところに、牧師に入ってもらって、『あなたのこの罪は神様がちゃんと背負ってくださるのだから、悔い改めて、神様に背負っていただけば、罪から解放 されるんですよ』と話していただきました。―――そう話されたこの人は、その後洗礼を受け、すべてを神様に背負ってたいただきました。それから、本当に平 安になって、最後の二週間を過ごしました。」(柏木哲夫『生きること、寄りそうこと』より)
 
 「人生を喜び祝おう」、それが私たち、イエス・キリストを信じる者たちの合言葉であり、教会の原動力なのです。それは、一つの顕著な生き方であり、はっきりと現れ出る力、苦難の中でも不思議に生かされ、また不思議にも周りの人々にも現われ働きかける力なのです。
  「その時私たちは、他の人が他の人であることをも喜び、受け入れ、他の人との間に良い関係を築いていくことができるようになるのです。―――本当の自由と は、人を愛し、人に仕えていくことが出来ることなのです。 この神との平和こそが、私たちが人との間にも平和な関係を築いていくための土台となるのです。―――しかしこの世の現実においては、争い、対立があり、憎 しみがあり、人が人を傷つけ殺してしまうようなことが起こっています。憎しみが憎しみを、報復が報復を生んでいくような憎しみの連鎖、悪循環が生じていま す。その憎しみの連鎖をどこかで断ち切らなければ平和への道を歩むことはできません。それを断ち切ることができるのは、人を愛し、赦し、受け入れ、仕えて いくことができる人です。」(同上)私たちは、神様との間に平和をいただいて、他の人々との間にも良い関係を築き、またこの争いの世においても「平和を作 り出し」、平和の「架け橋」となるような生き方をすることが許されるのだと信じます。
 「人生を喜び祝おう」、これを私たちの間でも、私たちの教会の合言葉とし、証しの言葉として、共に歩み、共に仕え、共に働いてまいりましょう。

(祈り)
天地を創り、その中に生きるすべての者を愛される父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべての者を極みまで愛された神よ。
 あなたとの間の平和、全き平和、これをこそイエス・キリストが私たちに与えてくださいました。ご自身の全生涯、すべてを懸けて、私たちに与えてくださいました。
 今私たちはひとえにこのお方によって、この恵みと信仰の世界、神の国の領域の中を、新しい天と新しい地を目指し、そこへと必ず至る道を歩ませていただいています。この喜び、この平安、この希望を、心より感謝いたします。
 どうかここに集められた一人一人またその教会を、あなたのこの愛と恵みの証人としてここから送り出し、それぞれの場で支え導き、豊かにお用いください。
まことの道、真理、命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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