まく者も刈る者も共に喜ぶ       ヨハネによる福音書第4章31〜38節

 
 主イエス・キリストが与えてくださるものは、「神の国の喜び」です。この世が知らない喜び、私たちが知らなかった喜びです。その喜び、イエス・キリストの喜び、神の国の喜びが、この世へと突入してくるのです。私たちのただ中に飛び込んでくるのです。
  「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。」多くの人にとって「食べる」ことは、即喜びではないでしょうか。だから、「わたしにはあなたがたの知ら ない食べ物がある」とは、「わたしにはあなたがたの知らない喜びがある」と聞くことができるでしょう。その喜び、イエス・キリストの喜びとは何でしょう か。どんな喜びなのでしょうか。

 それは何よりまず、「神のみ心を行って生きる喜び」です。その「あなたがたの知らない食物」とは、これ だとイエスは言われます。「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」「イエス様の食べ 物」とは、イエス様を遣わした方つまり神が考え願っておられることを行い、神がしようとしておられることを成し遂げることだ、そうおっしゃるのです。そし てそれは「食べ物」ですから、「そうして神のみ心を行って生きることは、私を生かし、私を養い、私を大いに喜ばせるものだ」と、イエスはおっしゃるので す。
 そういうことで言うなら、イエス様は生涯この「食べ物」を食べ続けて行かれました。神様の愛を信じ、そのすばらしさを表わし、語りながら生 きて行く。あのサマリヤの女性をはじめとする多くの人に、この「神の愛によって生かされて生きる」というその恵みを語り与えてやまない、この「神の食べ 物」をイエス様はとことん食べられました。主はあの「十字架に至るまでも」、それを食べられました。このイエス様の生涯、このイエス様の道は、「この食べ 物こそ、人を生かし、養い、喜ばすものだ」ということを、力強く、そして細やかに語っているのです。
 「わたしには、あなたがたの知らない食べ物 がある」、そう言いましても、イエス様のことですから、「だから、私だけで食べよう」とは決しておっしゃらないはずです。このイエス様が、今私たちを招い てくださいます。「この『食べ物』をあなたがたも食べなさい。わたしと一緒に食べなさい。これこそ、あなたがたを本当に養い、支え、生かしてくれるもの だ。これによって生かされて、そして生きなさい!」

 イエス様の喜び、神の国の喜び、それはまた立場や利害の違いを越えて、共に働く喜び です。イエス・キリストが呼びかけ、呼び出す働きの場所、収穫の場所には、実にいろいろな人が招かれます。「わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見 なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も共に喜ぶためである。そこで、『ひとり がまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。」
 そのイエスが招かれる「神の畑」では、「まく者も刈る者も共に喜ぶ」のだと いうのです。これは「ありえない喜び」です。「ひとりがまき、ひとりが刈る」、この言葉は当時のことわざのようなものだったようです。しかも、極めて悲観 的・絶望的なことわざだったのです。「泣きっ面に蜂」「一寸先は闇」みたいなものですね。「本来は、まく者が刈り入れまで生き残れず、その実を収穫できな いことを言った悲観的調子のものであった」。(『新約聖書略解』による)「蒔く人の立場から見た絶望的な観方」を言うなどという説明があります。(岩波訳 新約聖書による)「一人の人が苦労して種を蒔いた。でも、その収穫を別の人が刈り取って行ってしまう。ああ、なんという不幸であり、損だろうか。虚しい、 ばからしい。人生って、そんなもんさ。」なぜなら、この世はどこまでいっても「自己責任」「自己利益」で生きている、生きようとしているからです。
  しかし、イエス様はそんな生き方を逆転されました。私たちの言動と生き方は、かつてのあのことわざのように分裂的であり対立的でした。「私は蒔いてばかり いる。あの人はそれをいつも調子よく刈り取って行ってしまう。」「刈入れることが大切なのであって、蒔くなどという奉仕はつまらない、くだらないもの だ。」しかし今、主はそれを「まく者も刈る者も、共々に喜ぶ」という道へと逆転なさるのです。「私は蒔くことがゆるされる、そうして神様に用いられ、報い られる」、「私は刈ることがゆるされる、そうして神様に用いられ、恵まれる。」神の国の喜びは、違う者同士が共に働き、共に生きる喜びなのです。

  そして、イエス・キリストの喜び、神の国の喜びは、さらに「恵みと希望に基いて労苦をする喜び」です。主イエスは弟子たちに、こんなすばらしい約束をくだ さいます。「わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈り取らせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労 苦の実にあずかっているのである。」
 弟子たちに続く「神の国の奉仕者」「イエス・キリストの僕」である私たちは、他の人々の労苦の実り、その収 穫を、何の苦労もなく、ただで、刈り入れるだけ、いただくだけであるというのです。これが、まさに「恵み」ですね。楽ですね、ありがたいですね。日頃家族 の食事を毎日のように苦労して作っている、そんな人もどこかの温泉旅館に泊まりに行けば、「据え膳上げ膳」、楽ですね。しかも、(この世ではそれはお金を 払ってやってもらうわけですが)もしそれが「ただで」やっていただけるとしたら、こんなすばらしいことはありませんね。でも、これが「神の国の原則」なの だというのです。
 この恵みの源には、何よりイエス・キリストの労苦、神様ご自身の労苦があります。私たちは神様の前に何も良いことはできません でした。神様から言ったら、私たちはただ悪を重ねる罪人に過ぎませんでした。しかし、イエス様が、イエス様ご自身、イエス様お一人が、私たちの罪を担っ て、大変な労苦をし、十字架の道を歩んで、私たちも神の前に正しく幸いに生きる道を切り拓いてくださったのです。私たちは、そのイエス様の労苦の恵みをた だ受けるだけ、ただいただくだけです。イエス様、神様が蒔いてくださったその実、その収穫を、私たちはただ刈り入れることがゆるされる。これが恵み、まさ に恵みなのです。「神の国」は、万事そのように導かれ、進むのだと、主イエスは言われるのです。

 何度もお話ししている証があります。私 がイエス・キリストへの信仰に導かれたのは、一枚のトラクトがきっかけでした。そのトラクトは、私が幼い頃、未だに未信者である母が、職場で誰かからも らってきたものでした。私はそのトラクトを配ってくださった方が、だれであるか、どんな方なのか、今もって知りません。でも、その方が蒔いてくださったそ の恵みの実を、私は何の努力も苦労もなく刈り取り、いただくことがゆるされたのです。だからその方は、今もって自分が蒔いたものが、どんな実をもたらし、 どんな結果となったのを知らず、その喜びや幸いを味わっておられないと思います。
 ほかのだれかが汗を流して、自分の報いを求めず、私たちに先 立って働いてくださり、私たちのために労苦することを喜びとしてくださった、その実りを何のためらいも遠慮もなく私たちは受けることがゆるされる。こんな ことが、神の国の働きでは、よくあるというか、しばしば起こります。それがまさに今、私たちが経験し始めている「恵みの世界」なのです。

 ドロテー・ゼレという人が、1979年に「賛歌―――悲惨なクリスマスの季節に」という詩を書きました。
  「サンタクロースたちの赤い外套に雨が落ちる  サンタたちは袋からお菓子を取り出す  子どもたちは せわしく先を急ごうとする母親たちに しがみつき   デパートの前で『ぼくに』『わたしに』『ぼく』と叫んでいた。   その時 うしろを男の子が二人歩いていた。  『ふるさとのチリではね』という声 が聞こえて わたしは耳を疑った  『クリスマスツリーは もっとずっと大きいんだよ  そしてサンタはいろんなものを たくさんのものをもって来るん だ』  振り返るとそこには黒い髪の十二歳の男の子 はっきりとしたドイツ語で ブロンドの男の子に言った  『誰もが何かをもらえるんだよ 何ももらわ ない人はない、そう 一人もいないんだ』」(ショットロフ『ナザレのイエス』より)「何ももらわない人はない、一人もいない」、これが「神の国」の働きで あり、道なのです。

 そして、このことはまた、私たちの神の国での働き方、その希望と約束に即つながります。私たちが、そうして他の人の 労苦の実その実りを、ただで恵みによって刈り取ることが許されたならば、私たちもまた、私たちが今している労苦についても、たとえ私たちがそれについて何 の成果も、喜びも、充実感も味わうことがなくても、それが神の国においては、神様が導かれる道においては、他の人の喜び、他の人のための恵み、他の人の救 いと幸いに必ずつながり、至るということを信じ、望むことができるのではありませんか。自分では刈り取ることができなくても、きっと必ずその実りは、他の 人の救いと喜びと幸いとなって刈り取られる、神によって刈り取られることを信じ、委ね、望んで生き、働くことができるのではありませんか。そして、今神の ために蒔く、隣人のために蒔くことがゆるされることを喜び、誇りまた希望として、働き続け、仕え続け、蒔き続けることができるのではありませんか。

  この新しい年が始まり、まもなく新年度が始まって行きます。その道の中で、私たちの働きと業、その労苦は、いつもこの約束、この希望、この喜びの下に立つ のです。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。」「刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も共に喜ぶためであ る。」

(祈り)
天地を創られた私たちすべての者の父よ、御子イエス・キリストによってこの世とそこに生きる私たちを極みまで愛された神よ。
  主イエスは、私たちが知らなかった喜び、神の国の喜びを開き、示し、与えてくださいました。あなたのみ心を行って生きる喜び、共に働き生きる喜び、恵みに よって受け、希望をもって働く喜びです。この新しい年、まもなく始まる新しい年度、私たち教会とその一人一人を、このあなたの喜びによって生かし、導き、 用いてください。
 どうかまたこの喜びが、多くの人々、御心にかなう方々に広く宣べ伝えられ、豊かに分かち合われるようにしてください。そのために、私たちが用いられ、仕えることがゆるされますように。
まことの道、真理、また命なる救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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