今日もイエスが共にある        ヘブル人への手紙第13章8節

 
 皆さん、新年あけましておめでとうございます。
 この年の初めに私たちに与えられている神の御言葉は、これです。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない。」
 「いつまでも変わることがない」とは、「同じ方である」という意味です。また、「イエスはまさしく彼である」とも訳すことができます。「イエスはきのうも、きょうも、いつまでも同じ方である」。

  新年は、その反対に「決して同じではあり得ない」私たちというものをいやでも思わされる時であります。昨年の元旦にいた私と、今今年にここにいる私とは同 じでありません。人間は変わって行きます。もっとはっきり言えば、年老い、衰えていきます。もちろん、よくなった、上達した、進歩したということもありま すし、それは素晴らしいことです。しかし大きな目で見れば、私たちは一年ごとに年老い、そして衰えていきます。そしてその終局は死です。ある見方をすれ ば、私たちは一年また死に近づいたということもできるのです。
 そしてまた人間が変わるというのは、そうした年齢的なこと・身体的なこと・物理的 なことだけではありません。この「ヘブル人への手紙」は、教会が大変困難な時期に書かれたと言われています。国家権力による迫害と、社会による圧迫の中 で、教会を維持していくだけでも大変な状況があったようです。「気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から 離れ去る者があるかもしれない」(3・12)のように、背教つまり信仰を捨てることへの警告があります。またもっと具体的に、「ある人たちがいつもしてい るように、集会をやめることはしないで互いに励まし」と、「集会をやめる」、つまり「もう礼拝もやめようか」というような状況があったことがわかります。 そういう中では、人間は変わるのです。悪い方に変わるのです。
 辻宣道という牧師がおられました。お父さんも牧師でホーリネス教会に属していまし た。お父さんが戦争中捕らえられ、獄死されました。その時のことを語っておられます。「父が伝道と牧会の現場から警察に連行されたのは1941年の初夏で した。それは、拘置所、裁判所、刑務所と続き、最後は懲役二年で服役中に死にました。私が中学二年のときでした。―――ある日母に言われて元教会員(教会 は政府の命令で解散させられていた)だったひとのところへカボチャをわけてもらいに行きました。農家でした。たしか父が牧師であったころ役員をしていたひ とです。おどろきました。『おたくにわけてやるカボチャはないねえ』というのです。手ぶらで帰る少年の気持ちはどんなだったでしょう。平穏無事なときは まっさきに証しなどをしてはりきってるひとでしたが・・・・。―――みんなの尊敬を集めていました。私もなついていました。それがどうしてカボチャ一個も わけてくれぬひとになってしまったのか。―――そんなものかと思いました。人間いざともなれば信仰もヘッタクレもなくなるんだなあと思いました。」(辻宣 道『教会生活の処方箋』より)昨日まで熱心に教会に集っていた人が、ある日ぱったりと来なくなってしまった。信仰って何なの、そう思わずにおられないこと があったと思います。でも、それが人間の現実、罪人である人間の現実なのです。あのペテロもまた、「イエス様と、死に至るまでも共に行く覚悟です」と言い ながら、その同じ晩のうちに「こんな人は知らない」と三度も言ってしまったのです。
 そんな私たちのただ中にあって、イエス・キリストは、「きの う」と変わらない、同じ方、まさしく彼である、いつまでも変わらないのです。イエス・キリストがあのとき病気の人に手を伸ばし手を触れていやしてくださっ たその慈しみと恵み、人々から訴えられ殺されそうになっていた女の人を守り、赦しをもって生かしてくださったその真実と正義、ガリラヤ湖の嵐を一言葉を もって静められたその権威と力、そしてすべての人の罪を負って十字架の道を歩み死なれたその愛と献身、それは変わらない、まったく変わらないのです。イエ スは、まったく同じ方、「まさしく彼である」のです。今も、そしてこの新しい年の一日一日、たとえ私たちにとっての最後の日、死の床にあってさえも、今も 同じ方ととして愛し、働き、歩んでくださるのです。それは、なんという恵みでしょうか。

 しかしまた、「変わらない」ということには、別 の側面もあります。人もものごとも新しくなり続けなければ、古くなってしまうのです。例えば、パソコンなどの機械類を考えていただければわかります。「こ のパソコンは、十年前とまったく変わらない、多少内部の部品に劣化はあるだろうが、十年前とまったく変わらず、きちんと動く」と言っても、そのパソコンは もう使えないでしょう。「変わらない」でいたために、かえって古びてしまったのです。
 復活のイエス・キリストは言われました。「わたしは世の終 わりまでいつもあなたがたと共にいる」。この「いつも」というのは、「いつも変わらずのんべんだらりと共にいる」ということではないのです。文字通りに は、それは「すべての日々に」です。「日々」は、「日」の複数形です。一日一日、全然同じではないのです。この年、私たちが迎えている年、その365日 は、日々、一日一日、全部違う日でしょう。喜びの日もあれば、悲しみの日もあるでしょう。幸いな日もあれば、苦しみと試練の日もあることでしょう。
  しかしイエス・キリストは、その「すべての日々に」、それぞれの日にふさわしく、それぞれの日に新しく、その日に最もふさわしい仕方で、最もふさわしい方 として、私たちと共にいてくださるのです。最もふさわしく語り、行動し、導いてくださるのです。それは、私たちに対する愛と真実のゆえです。「あなたがた を愛するがゆえに、私はどんなものにもなろう、どんな道をも共に歩もう、どんな時にもあなたがたを助け導こう」、この愛と真実は変わらない、いつまでも、 この年の終わりに至るまで変わらないのです。

 そして「いつまでも」、それは神の国の完成を目指している言葉です。イエス・キリストは変 わらない、神の愛と真実、その慈しみと正義は変わらない。だから、かえって私たちの方が、この世界の方が変えられるのです。「わたしはまた新しい天と新し い地とを見た」と語られます。その日が来ます。今、私たちのこの世界は、格差と差別と憎悪と排除と、そして暴力、戦争に満ちています。私たちは、ついつい 変わってしまいます。「もうこんな世の中は変わらない。だから、もうあきらめよう、もうやめよう」と、私たちの方から変わってしまいます。しかし、イエ ス・キリストは変わらない、いつまでも変わらない、その神の国への信仰と希望とそして愛を決して変えず、捨てずに貫き、そしてついに実現されるのです。そ の日、すべてが変えられます。新しい天と新しい地が来ます。その時その日まで、いつまでも、イエス・キリストは変わることなく前進し、私たちを導いて行っ てくださるのです。

 最後に、「きょうも、変わらない」ということを聞きましょう。これは、「今日も、イエスはまさしく彼である」という ことです。一年は、「今日」の積み重ねです。「今日」を365回積み重ねると、一年になるのです。さきほど、「すべてに日々に」と申しました。それは、す べての「今日」にということです。私たちがこれから共に歩んで行くすべての「今日」、その一日一日に、イエスは私たちと共にあられます。このことは決して 変わらず真実であり続けます。だから、私たちは、この一年の毎日毎日「今日もイエスは私と共にある、今日もイエスはまさしく彼である」ということを、驚き と共に確認し、感謝と共に受け取って、そのように歩んでまいりましょう。

 先にご紹介した辻宣道先生は、あの出来事によって人間不信、さ らには神不信にさえ陥ります。「人間の不思議な冷酷さが目のまえにちらつくと、すべてに信用がおけなくなります。自分も信用できません。そのゆえにキリス トの十字架が立つのですが、それはあとになって知ることです。」キリストの十字架は今も変わらず立っている、人間の罪と不真実にもかかわらず今も変わらず 立っている、人の罪を負われたそのキリストの愛と真実は今も変わらず立っている、このことを知って、辻先生は再び信仰を取り戻し、そして献身をされ、牧師 になりました。そして思うのです。「大きく遠まわりして牧師になったとき思いました。ことがおこってがたがたになるような教会はこまる。天地がひっくりか えっても教会の肢であることをやめぬ教会員をつくろう。そしてともに歩んでいこう。」(同上)
 私たちも、そんな教会、そんな信仰者になれるでしょうか。「きのうも、きょうも、いつまでも変わらないイエス・キリスト」、このお方に支えられて、このお方に導かれて、このお方に愛されて、私たちもこの道に一歩を踏み出すことができるのです。

(祈り)
天地を創られた私たちすべての者の父よ、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  この新しい年を迎えることをゆるされたその恵みと祝福を心より感謝申し上げます。この年、何が起こるかを私たちは知り得ません。その様々な出来事の中で、 私たちは悪く変わろうとするかもしれません。しかし私たちと共に歩まれるイエス・キリストは、変わりません。変わることなく神の愛と真実を貫き、行い、与 えてくださいます。そのゆえに、どか私たちの信仰と歩みをお守りください。そして、あなたの変わらない愛と真実が貫かれて実現する、神の国の完成まで、新 しい天地の到来のその日まで、どうか一日一日私たちと変わることなく、それぞれの日々にふさわしく、共にいてくださいますように。
 お一人一人また私たちの教会を、一年の終わりに至るまで、あなたとあなたが出会わせてくださる隣人に対して忠実であり続けさせてくださり、その愛と奉仕を貫くことができるよう導き、お用いください。
まことの道であり、真理であり、命でありたもう世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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