神の栄光に照らされるクリスマス        ルカによる福音書第2章8〜20節

 
  皆さん、クリスマスおめでとうございます。クリスマスのストーリーには、様々な人たちが登場します。もちろん、イエス様やマリヤそしてヨセフを欠かすこと はできませんが、それだけではありません。ここには、実にいろいろな人々が招かれ、呼ばれているのです。それは、一つのしるしです。「あなたもまた招かれ ているのだ、あの人もまた招かれているのだ」というしるしなのです。

 今日のお話の主人公は、その世界で最初のクリスマスに招かれた一群 の人々、羊飼いたちです。「羊飼い」というのは、かつては大変名誉ある仕事でした。イスラエルの黄金時代を築いたダビデ王も、王になる前は羊飼いをしてい たのです。またイスラエルという名前の由来となった先祖ヤコブもまた、「自分は羊飼いである」と自己紹介をしています。
 「それが今は」というこ とがありますよね。時代の流れ・変化というものは恐ろしいものです。それが今は、イエス様がお生まれになった当時には、羊飼いは「最下層」の、最も低い、 最も卑しい、最も汚れた仕事ということになってしまっていたのです。それについては、いろいろなことが「低い、汚れた、卑しい」ということの理由にされて しまっていました。たとえば、「家畜を追って巡回しなければならない不定住の民」だからとか、「第七日目は休まなければならない」という安息日ほかの戒め を守れなかったたらだとか、「他人の所有する牧草地に無断で侵入するから」だとかいう理由により、「盗人の仕事」「父親が息子に決して伝えてはならない職 業」「祝福の兆候すらない」と言われ、「彼らは法的に差別され、公的な諸権利を剥奪され」、「周辺に追いやられ、文字通りに、神からも人からも捨てられた 者としてあった」というのです。(栗林輝夫『荊冠の神学』による。)

 その羊飼いたちを取り巻く社会の状況と評価は、このクリスマスの夜の記述の中にも、読み取れます。「さて、この地方で羊飼いたちが夜、野宿しながら、羊の群れの番をしていた。」
  まず彼らは、「この地方で」、街外れで、羊を飼っていました。この晩、「この地方」ではローマ皇帝の命令による人口調査が行われ、誰もが街に入って調査を 受ける準備をしなければならなかったはずです。それなのに、彼らは町外れにいました。それは、彼らが「数にも入っていなかった」からです。人口調査は、税 金や兵役を課すために行われます。でも、この羊飼いたちは、それとは無縁のようにしてここにいます。彼らは社会からもあまり役割を期待されないような立場 に置かれていたのではないでしょうか。税金を納めることすら期待されていない、どうしようもない者たちとされていたからではなかったでしょうか。
  そして彼らは、「夜、野宿しながら」羊を世話していました。彼らは、最も過酷で不安定な環境で、最もきつい仕事をさせられていました。さらに彼らは、「羊 の群れの番をしていた」のです。おそらく自分たちの羊ではありません。他の人たち、富める人たちの財産である羊を、僅かな賃金で雇われて働かされ、他者の ために何の保障も保護もなく使われていたのです。
 彼らを取り囲んでいたのは、真っ暗な夜の闇でしたが、それはまた彼らを取り巻いていた社会の闇、この世の闇、そしてそれによって広がり深まってしまった彼ら自身のうちの「闇」をも象徴するものではあったのではないでしょうか。

 しかしクリスマスの知らせは、その真っ暗な闇を切り裂いて、神の栄光が照り輝いたことから始まります。「すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。」
  「主の栄光」、神の「栄光」とは何でしょうか。「栄光」、これは聖書ではいろいろな意味を持っています。それは「重み」という言葉であり、また「値打ち」 という言葉です。ですから、「神様の栄光」とは、「神様の重み、神様の値打ち」、「神様の尊さ」また「すばらしさ」さらに「美しさ」というものが、「光」 として輝き出て、現れ出たものということになるでしょう。そのような「神の栄光」が、彼らの上に現れたのです。

 そしてこの天使は、クリスマスの出来事をこの羊飼いたちに告げ知らせるのです。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」
  「救い主がお生れになった」、それがクリスマスのメッセージです。「救い主」と言い、「救い」と言いますが、「救い」とはいったい何でしょうか。それはま さに、この羊飼いたちに起こったことであると、私は思います。「救い」、それは「神の栄光によって照らされること」「神の栄光に照らされて、生かされ、生 きること」です。
 先ほど、「栄光」とは、「重み」であり「値打ち」「すばらしさ」であると申しました。「神の栄光に照らされる」とは、何より、 神様の「重み」「値打ち」「尊さ」「すばらしさ」を与えられ、知らされることです。「神様の重み」がないところでは、「神様の尊さ」によって支えられなけ れば、私たち人間は、本当の意味で良く、正しく、幸いに生きることはできないのです。「重し」という言葉があります。軽いものには「重し」を置いて、安定 をはかります。暖房にエアコンを使うときに、困ることがあります。それはエアコンから吹き出る風によって、書類がそのままですと飛んでいってしまうことで す。それで何か「重し」になるものを乗せて飛ばないようにします。人間も同じです。私たちは、神様の「重し」をいただいて、神様によって支えられ守られ導 かれてはじめて安定します。その「重し」なしに、私たちは風に吹き飛ばされるようなものであり、勝手にてんでんばらばらに生きていってしまい、そうしてあ の「闇」のような世界を作り上げてしまうのです。しかし、そんな私たちの上に「神様の栄光」が輝いた。それは、私たちの世界に神の御子イエス様がやって来 られたことなのです。イエス様は、実は私たちはこの「神様の重し」によってこそ支えられ、生かされて生きるのだということを示し、教え、与えてくださった のです。イエス様ご自身が常に共にいてくださる「神の重し」となって、恐れと不安の闇の中に生きる私たちに、まことの安定と平安を与えてくださるのです。

  クリスマスの救い、神の栄光に照らされること、それはまた、この「神様の栄光」、それによって照らされる私たち人間の「重み」「値打ち」「尊さ」「すばら しさ」を示し、教えてくれるものであったのだと思います。光に照らされるとき、その照らされたものもまた輝き始めます。私たちは夜、月を眺めて喜びます が、あれは月自身が光っているのではなく、太陽の光に照らされて、それを反射して光っているのです。
 「神様の栄光」に照らされるとき、私たちも また自分の「重み」「値打ち」を知らされ、知ります。また他の人の、そしてすべての人間の「重み」と「値打ち」を知らされるのです。この「羊飼いたち」の 存在意味と価値が軽んじられ、否定され、排除されていく「闇」の世界の中に、「神様の栄光」が照り輝くとき、そうではないのだ、決してそうではないのだと 宣言され、告げ知らされるのです。クリスマスにお生まれになったイエス様が、そのご生涯の間、告げ知らせていかれたのが、まさにこの「人間の重み、値打 ち」、「人間にとってのまことの光栄」でした。この羊飼いたちに始まって、「疲れた人、重荷を負って苦労している人」、「病める人」「束縛されている人」 「苦しめられ、小さくされている人」、その人々に主イエスは呼びかけられました。「あなたは神に愛されている者、神の光を受けて輝く者、神によってかけが えのない重みと値打ちを与えられている者なのだ」。
 今年、私たち日本バプテスト連盟の理事会は、「生きる価値のない命などありません」という声 明を発表しました。それは、「7月26日、神奈川県相模原市にある『津久井やまゆり園』において、入所なさっている方々の19名の命が奪われ、27名が重 軽傷を負うという、残忍な事件」について、出されたものでした。その中で、こう述べられています。「この事件は、容疑者となっている青年の特殊な問題では ありません。この事件は、ヘイト・クライム(憎悪犯罪)であり、経済効率優先の価値観が、現代社会を蝕んでいる表れです。このあまりにも残忍な行為に至る 『優生思想』が、ただ『労働力の担い手』や生産効率で、人を序列化する現代社会の深部に潜んでいるのです。これは他ならぬ、私たちの生きているこの社会で 公然と起きた、人命軽視なのです。」そして、このように言われます。「私たちは、声明を行います。全ての人が神にかたどって造られ、神にあって命が与えら れ、その命に優劣はないことを。命、一人ひとりの存在は、固有であり、かげかえのない尊いものであることを。一人ひとりの存在に、神は深い意味を与えてお られることを。」「神が私たち一人ひとりに与えてくださった出会いにおいて、無用な命、無価値な命、意味のない命は、ないのです。私たちは、主イエス・キ リストの愛を受けて、命を喜び、命を祝い、命を尊び、命を愛します。」 それは、私たち一人一人、すべての人が神の栄光によって照らされ、尊厳と意味また 価値を与えられ、輝きとすばらしさを与えられているからなのです。

 このまばゆい神の光の中で、天使によるメッセージが告げられます。 「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こ そ主なるキリストである。あなたがたは、この幼子が布にくるまって飼い葉桶の中に寝かしてあるのを見るであろう。」  あなたがたのために救い主が生まれ た。飼い葉桶の中に、きらびやかな御殿の中の見事な寝台ではなく、家畜のえさを入れるような飼い葉桶の中に、あなたがたの近くに、あなたがたがすぐに簡単 に近づけるように、あなたがたと常にどこまでも共にいてくださるために、救い主がお生まれになった。

 天使が去り、神の光が消え去った 時、羊飼いたちの中から口々にこのような声が上がります。「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせくださったその出来事を見てこようではないか」。そう して、かれらは出かけて行って、ついにマリヤ・ヨセフと共にいる幼子イエスを見つけ出し、神様とその恵みの業を共々に喜んだのでした。それは、かれらに とって、新しい生き方、新しい道の始まりとなったのではないでしょうか。それは、自分たちにも、このわたしにも、神様の光が照ったということを経験したか らです。
 わたしが生きていく中で経験する様々な「闇」、ありとあらゆる「闇」の中でも、私は一人ぼっちなのではない、放って置かれているのでは ない。神の栄光がわたしを照らし、わたしを支え、導いているのだ! またわたしは、いてもいなくてもどうでもいいようなものではない、まして死んだ方がま しというような者では決してない。神の栄光がわたしを意味ある者、価値ある者としていつも照らし、輝かせていてくださる!
 このクリスマスの光は、今日ここにおいでになったあなたの上にも照り輝いているのです。どんな闇の中でも、あなたを照らし、支え、導くのです。「神の栄光に照らされるクリスマス」、この幸いを、改めてご一緒に喜び合いましょう。クリスマス、心からおめでとうございます!

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父よ、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  あの最初のクリスマスの晩、天からの光、あなたの栄光が羊飼いたちをめぐり照らしました。それは、あなたの重み、あなたのすばらしさを告げ知らせて、彼ら とその人生また働きにも輝きと値打ちを与え、尊厳と誇りまた希望を豊かに与えてくださるものでした。これこそが、あなたの救いであり、その晩お生まれに なった救い主イエス・キリストが、ご自身の全ての人生を通して、その十字架と復活の道によって、私たち皆に与えてくださったものでした。このクリスマスの 救い、その幸いを心から感謝いたします。どうか、ここに集った一人一人にその恵みを豊かにお与えください。あなたの栄光が、私たちの人生の道一つ一つをく まなく照らし導いて行ってくださいますように、切に願います。
まことの光、世の人全てを照らす、人の命の光、救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る