幼子イエスの場所に!        2016年 イブ礼拝メッセージ

 
 皆さん、クリスマスおめでとうございます。
  さて、クリスマスの物語、救い主イエス誕生のいきさつは、旅の話から始まります。イエスの両親マリヤとヨセフの旅から始まるのです。「旅」というと、皆さ んはどんなイメージを抱かれますか。観光旅行、楽しい旅、非日常的時間と出会い、新しい体験、そういう肯定的な面も旅にはあります。でも、他方で「旅」は 過酷なものでもあります。昔お正月になると「寅さん」の映画が封切られました。寅さんは「旅から旅へ」の人生を送っています。それはきっと、寂しさや苦し さを多く含んだ旅でもあったのではないでしょうか。
 このマリヤとヨセフの旅もまた、過酷な、そして決して喜ばしくない、心細さと不安とが影をよ ぎるような旅ではなかったでしょうか。マリヤはお腹に間もなく生まれそうな胎児を抱えています。そんな体で、電車も車もない時代に、片道150メートル以 上、高低差700メートルもの旅をするのです。「楽しい旅」などであるはずがなかったでしょう。

 なぜなら、それは強制された旅であった からです。それは、当時の世界を「ローマの平和」の名の下に支配していたローマ皇帝アウグストゥスの命令によって、無理矢理動かされ急かされてのものだっ たからです。「そのころ、人口調査をせよとの勅令が皇帝アウグストから出た。―――人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。ヨセフ もダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」「不思議なことであ りますが、人口調査から、この降誕祭の物語が始まるのであります。―――聖書は、一切の人口調査に対して疑念を持っています。人口調査は、常に高く権力者 が君臨していることのしるしでありました。権力者は自分の力を評価してみたいのです。新しい税を課したいのです。徴兵をしたいのです。私どももまたこの人 口調査の世界を知っています! 全世界において、勅令が出、独断的命令がくだされ、権力者、力ずくで支配する者たちが、徴税をし、兵力を増強しています。―――そのような独断的命令、指 令、勅令が発せられると、民族が、人間である民が、貧しい人たちが作る民が、新しい重荷を負わせられます。しかも、それによって民衆が助けを得るのだとい う偽りの事実をちらつかせられながら、そうされてしまうのです。」(トゥルンアイゼンの説教による、ランダウ編『光の降誕祭』より)

 そ してまた、その旅は、人々から押し出され、追い出されるようなものであったからです。こうした人口調査の際には、別に家族全員が移動する必要はなかったと いうことも言われています。つまり、「世帯主」である夫ヨセフだけが、ベツレヘムへ行けばよかったのではないかというのです。それなのに、どうしてまた、 出産を間近にしたマリヤも一緒に行ったのか。こんな推測をされている方がいます。「たとえば、ナザレでは生むことが難しくなったという想像です。ナザレの 村では、マリアのお腹の子どもの父親はヨセフではないことは『公然の秘密』だったと思われます。―――婚約中の若い女性であるマリアの突然の妊娠と出産 は、誰からも歓迎されない出来事です。―――マリア妊娠前から非嫡出子差別を持っている人々は、妊娠後も同じ差別意識を持ってマリアを差別し続けたことで しょう。きわめて胎教に良くない環境です。マリアとヨセフは臨月になることを見計らって旅に出ます。最初から旅先で出産する予定だったのだと推測します (6節)。誰にも見られない環境で静かに子どもを産みたいということです。この場合なるべく遠くの土地で出産したほうが良いでしょう。」(城倉啓氏によ る)

 そんな過酷で不安な旅を続けて来た末に、ようやくベツレヘムに着いた二人を待っていたのは、またしてもこんな状況でした。「ところ が、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったか らである。」この出産がどういう状況であったのか、詳しくはわかりません。「マリヤたちは、ベツレヘムで受容もされたし、歓迎もされた」という考えもあり ます。けれども、この「客間には彼らのいる余地がなかった」、だから生まれた赤ん坊は「飼葉おけの中に寝かせた」というのは、やはり尋常ではないことのよ うに思われるのです。しかも、「飼葉おけ」というのは、よく言われるように「馬小屋」ではなく、町外れにある、家畜を飼う「洞窟」のような場所ではないか とされるのです。
 そういう場所で、そういう状況の中で、初めての子どもを産まなければならなかった、それは、これまでの、そして今マリヤたち が、そして生まれて来たこの子が歩み、生きるであろう状況と道をも指し示しています。それは、「場所がない」ということです。「ゆっくりと一息つく場所、 安心して命を生み出し育てる場所、生きる喜びと幸いを分かち合い共に喜べる場所、ゆとりと希望をもって生きることのできる場所」、そういう場所が極めて限 られ、狭められ、押し込められている、そんな状況であり、立場であったのではないでしょうか。

 しかしそんな中に、神はご自身の御子を送 られました。救い主イエス・キリストは、そのようなマリヤとヨセフの真ん中に来られ、生まれました。その「場所なき場所」が、神の恵みと救いが起こり、始 まり、進んで行く、そのところとなったのです。ここに、「神が我々と共にいてくださる」、このメッセージが告げられ、語りかけられ、招きが起こって行く、 そんなところとされたのです。
 だからここには、このイエスが生まれたここには、当時の社会からはじき出された羊飼いたちが安心して来ることがで きます。またここには、ユダヤの伝統と習慣の中では「よそ者」「異端者」とされた東の国の博士たちもまた、喜びと宝物をもってたどり着くことができるので す。誰もが、ここでは、軽んじられることも、拒まれることも、排除されることもありません。神ご自身がここにおられて、私たちと共におられて、私たちの間 で生き働いてくださり、私たち人間同士も共に生き、助け合って生きる道を開き、力を与え、目標に向かって導いていてくださるからです。
 そして、 こうして始められたイエスという方の生涯、このイエスによって表わされ、成し遂げられ、与えられた神の救いもまた、この始まりにふさわしく、それがどこま でも貫かれていくものとなったのです。このイエスの生涯と出来事を全世界に宣べ伝えた使徒パウロのメッセージについて、このように言われています。「パウ ロの福音は、すべての人が『罪人』であるという点でまったく共通であり、キリストの名において同じテーブルに招かれていることを告げ、共に食卓を囲むこと を可能にするものであった。そこでは、『信仰義認』(注 ただ信じることによって神に愛され受け入れられる)とは、『信仰』という線引きによって人を排除 する論理ではなく、万人がタダで、無条件でキリストの食卓に招かれていると告げることによって、いっさいの差別立てを廃棄することであった。」(渡辺英俊 「地べたに在ます神―――寿町」による、『低きに立つ神』より)

 「イエスの飼葉おけが置かれているのは、当時と同じく、この地上の世界 の陰の部分であるということです。人々が飢えや悲惨、老いや孤独、不安や恐れの中で苦しんでいるところ、まさにそのような蔭のところにこそ、ベツレヘムの イエスが立っています。わたしたちが自分自身の悩みや不安に目をとめるだけでなく―――そのような苦しみをもった隣人と出会うところ、わたしたちの目に今 まで見えなかった人びとの存在が見えるようになるところ、そこに、わたしたちにとってのベツレヘムの飼葉おけが置かれているのです。」(宮田光雄『一粒の 麦死なずば』より)
 ブラジルのドン・エルデル・カマラ大司教の言葉をご紹介します。カマラ司教はマリヤとヨセフがあのように、あのところで幼子 イエスを生んだ出来事に触れつつこのように語られたそうです。「たとえばわたしたちのところのような、世界のある場所においては、ほとんど毎日このような 情景を、身をもって体験することができます。―――大企業が奥地の方で何エーカーもの土地を買い上げます。するとそこに何年も何年も住んでいた家族は、そ こを去らざるを得ません。そして例えばレシフェのような都市にやってきて、住むところを探します。しばしば妻は妊娠しています。最後にはみすぼらしい小屋 を建てるのです。(小屋以下だと言ってもいいでしょう。)そこはいつも沼の近くで誰も住みたくないところです。そしてそこでキリストは生まれます。そこに は牛もろばもいませんが、豚がいます。豚と、時々にわとりが。これが飼い葉桶、生き生きと実在する飼い葉桶です。
 当然のことながら、クリスマス には、私はいろんな教会でミサを祝いますけれども、こうした生き生きとした飼い葉桶のどこかでミサを立てるのが好きです。どうしてキリストの歴史的生誕 地、ベツレヘムへ巡礼に行く必要があるでしょうか。この日のあらゆる瞬間に、ここで実際に、キリストがお生まれになっているのを見られるのですから。その 子はジョアン、フランシスコ、アントニオ、セバスチャン、セヴェリーノと呼ばれます。でもキリストなのです。」(松本敏之氏による)

 幼 子イエスの場所に、イエスがいて神の愛と恵みの業を今も行い、与え続けておられるその場所へと、私たちも招かれています。もしあなたが、今この時代、この 社会で生きづらく、「居場所がない」と感じておられるなら、イエスはそこへとあなたを招いておられます。また私たちが、そういう「居場所がない」者同士、 共感と協力と連帯に少しでも共に生きようと歩み出し、踏み出すなら、もうそこにイエスがいてくださり、もうそこが「イエスの場所」とされるのです。あなた がこれから生き、歩むその道が、「イエスの場所」として導かれるのです。

(祈り)
私たちすべての者の創り主また救い主なる神よ、イエス・キリストによって私たちを極みまで愛された神よ。
  あなたがあの晩、御子イエスを送られた場所、そこが羊飼いも博士たちも安心して訪れることができるところとされ、すべてのどんな人も喜んで希望を抱いて立 ち寄り、集まれる場所とされました。イエスがおられ、イエスが働かれ、イエスが今も歩まれる場所で、私たちも、神の愛と力とによって、共に生き始めること がゆるされます。
 どうか、クリスマスの喜びと幸いが、今日限り今夜限りのもので終わらずに、ここに集われた一人一人にとって、ここから始まり、これからもずっと続いて行くもの、あなたによって完成に至るまで守られ導かれるものとなりますよう、切にお願いいたします。
まことの光、命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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