いと小さき者から出る救い        ミカ書第5章1〜4、10〜13節

 
  「今あなたは壁でとりまかれている。敵はわれわれを攻め囲み、つえをもってイスラエルのつかさのほおを撃つ。」それが、救い主を待ち望み、その待望が告げ 知らされる状況なのです。それは、当時の世界の超大国アッシリアの脅威の中で語られました。預言者イザヤなどが活躍したこの時代、ユダの国は大国アッシリ アの軍事力と政治権力に頼りました。その結果がこれです。その頼ったアッシリアが、かえって敵となって今都エルサレムを取り囲んでいるのです。包囲され、 圧迫され、自分たちの王は屈辱を受けているのです。「今あなたは壁でとりまかれている。敵はわれわれを攻め囲み、つえをもってイスラエルのつかさのほおを 撃つ。」

 その中に、もう一人の預言者が立てられます。それがミカです。ミカは、「当時の南ユダ王国の貧富の格差や堕落に憤り、社会正義 を希求し勇気をもって命がけで格闘した人物である」と言われます。(ブログ「heartfulwill77の日記」「ミカ書を読む」より)このミカが今、 イスラエル、ユダの人々に救いと希望の言葉を告げようとするのです。
 しかしそれは、実に意外な知らせでした。今、大いなる都エルサレムは、風前 の灯火です。その中にあって、こう語られるのです。「しかし、ベツレヘム・エフラタよ。あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者が あなたのうちからわたしのために出る。」大いなる都エルサレムが今にも倒れそうなこの時、「いと小さき者(町)ベツレヘム・エフラタよ」と語られるので す。
 ユダには、「ベツレヘム」という町が複数あったようですね。それで、この町を特定して「エフラタ地方のベツレヘム」いうのが、「ベツレヘ ム・エフラタ」です。その「ベツレヘム・エフラタ」は、「ユダの氏族のうちで小さい者」だと言うのです。この「小さい」には、ただ量的・物理的な意味だけ でなく、価値判断もまた含まれています。「『最も小さい』(新改訳)と訳された形容詞のヘブル語は『ツァーイール』で、『小さい、つまらない、若い、年 下、末の子、弟、妹』を意味します。新共同訳・関根訳では『いと小さき者』と訳されています。」(空知太栄光キリスト教会ホームページ「牧師の書斎」よ り)「大いなるエルサレム」からではなく、「小さい、つまらない、最も小さい、いと小さき者」であるベツレヘム・エフラタよ、あなたから、「イスラエルを 治める者があなたのうちからわたしのために出る」と、主なる神は言われるのです。しかもそれは、神様の一時の気まぐれや思いつきではなく、「昔から、いに しえの日から」の御心であり、ご計画であったというのです。

 そのベツレヘムから出る王は、全く新しい王、今までとは全く異なる王です。 今までの多くの王は、「大いなる都エルサレム」の宮殿に住んで、権力や富そして軍事力をかき集め、「力には力を、富には富を、軍事力の馬には馬を、戦車に は戦車を」というように支配し、張り合い、治める、そういう王たちでした。
 しかし、これから、後の日に新しくベツレヘムから出る王は、このよう であるとミカは告げるのです。「彼は主の力により、その神、主の名の威光により、立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる。今、彼は大いなる者と なって、地の果にまで及ぶからである。」「主は言われる、その日には、わたしはあなたのうちから馬を絶やし、戦車をこわし、あなたの国の町々を絶やし、あ なたの城をことごとくくつがえす。またあなたの手から魔術を絶やす。あなたのうちには占い師がないようになる。またあなたがたのうちから彫像および石の柱 を絶やす。あなたは重ねて手で作ったものを拝むことはない。」
 その新しい王は、イスラエルを救い、安らぎを与え、イスラエルと世界に平和を来た らせるのです。その平和とは、「馬」や「戦車」によらない、軍事力によらない、力の対抗とバランスによらない、脅かしと圧迫によらない、そういういまだか つてない平和です。そして、他の神々、偶像、人を押さえつけ、支配し、抑制し、自粛させる思想・宗教・慣習・習慣などによらない平和です。「そのような新 しい王が、ベツレヘムよ、あなたのうちから後の日に出る」と、預言者ミカは語ったのでした。

 そして、まさに「後の日」、新約聖書の「マタイによる福音書」で、再びこの言葉が語られるのです。それは、もはや予告・約束としてではなく、実現・成就として語られるのです。
  東の国の博士たちは、西の空に不思議な星を見つけ、旅に出ます。その星は、「新しい王が世界に生まれた」ことのしるしだというのです。彼らは長い旅の末 に、都エルサレムにたどり着きました。そして王の宮殿を訪ね、こう問うたのでした。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わた したちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました。」この博士たちへの答えとして引かれたのが、あのミカの預言の言葉であったのです。「ユダ の地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さい者ではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろ う。」
 今や、この王は生まれました。全く新しい王、全く異なる王、それが、ベツレヘムの飼い葉桶にお生まれになったイエス・キリストです。イエス・キリストこそは、全く新しい王、人々に安らぎを与え、世界に平和を実現する、まことの王なのです。

 その平和、イエス・キリストが与える平和は、「馬」や「戦車」によらない平和、神の平和です。
  『グランド・ゼロからの祈り』という書物があります。「テロで破壊された貿易センタービルと同じ地域にあったオールド・ジョン・ストリート・合同メソジス ト教会の2001年9月16日から10週間の礼拝説教の祈りを集めた本です。―――事故から5日後の9月16日、犠牲者の多くはまだ瓦礫の下におり、教会 は電気が止まっている中で、ろうそくの明かりの中で礼拝を持ちました。広島やベルリンで起きたことが今自分たちの上に起こったことを悲しみ、亡くなった人 に哀悼を捧げながらも、教会は祈ります『仕返しと報復を立法化せよと要求する怒りの声が悲劇の現場から教会の説教壇に至るまで鳴り響いています・・・復讐 を求める合唱の中で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように』。 次の週、町には星条旗が あふれ、国内のイスラム教徒はテロのとの関連を疑われて次々に拘束されていきます。『アメリカに忠誠を誓わない者はアメリカの敵だ』との大統領声明が出さ れます。その中で教会は祈ります『戦争の風が勢いを増しています。どうか私たちに聖霊を吹き込んで下さい・・・私たちの怒りと復讐の要求を平和への切望に 取り替えて下さい』。やがてアフガニスタンに対する報復攻撃が始まります。テロの首謀者とみなされたビン・ラディンがアフガンにいると思われたからです。 教会は祈ります『現在起きている事件の中で、全ての人々への同情心で私たちを満たすよう、聖霊を送って下さい。その人々とはアフガニスタンの罪なき子ども たち、女や男たちです。おお神様、あなたの愛に満ちた霊を全ての悩める心に吹き込んで下さい』。―――キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死 なれた。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられない。『国は間違っている、神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい』と教会は祈りま す。(ジェームズ・マグロー「グランド・ゼロからの祈り」より、篠崎キリスト教会ホームページによる)

 ベツレヘムに新しく生まれる王、 イエス・キリストが成し遂げられる平和、それは全ての偶像を廃した平和です。『バプテスト』2016年9月号の巻頭メッセージの中で、野中宏樹牧師は、こ のように言われます。今世界は、「今だけ、金だけ、自分だけ」の考えに支配されている、と。それが、今私たちすべての者を支配し、縛りつけている偶像なの ではないでしょうか、「今だけ、金だけ、自分だけ」。
 その支配に、敢然と立ち向かった人々が、百年も前に日本にいたのだと紹介されます。それ は、足尾鉱毒事件に取り組んだ田中正造と谷中村の人々です。足尾鉱毒事件は、「『国益』や『公益』と言いながら、実は『今だけ、金だけ、自分だけ』しか考 えない、官民一体となった国策企業である古河工業足尾銅山が垂れ流した鉱毒によって引き起こされました」。その結果、渡良瀬川流域一体の人々のみならず、 すべての生き物が被害を蒙り、命と生活の危機にさらされたのです。その被害の最もひどい所が、この谷中村であったのでした。
 最初田中正造は、こ の谷中村の人々のことを「無知無能の民」と呼びました。しかし、かれらの中に入り込み、かれらと共に生き、共に働く中で、正造の考えは変えられました。 「人がパンや金のみで生きている存在ではないということを、たとえ人から軽蔑されようが、馬鹿にされようが、忍んで、また、どんなに眠くなっても空腹に なっても忍んで『殺されるまで忍んで』今の世の人に教えることであった。つまり、最も貧しく、軽蔑され、抑圧されていた『最弱』の存在である彼らが、逆 に、所有欲、物欲、金欲に囚われた人類を解放するために最前線にあって活躍することを正造は期待していたのである。『弱者』が『弱者』のままで『腕力』 (警察力、軍事力、経済力など)を独占している『強者』に当たり、『強者』を悔い改めさせ、彼らが囚われているものから解き放つことによって、『弱者』の みならず『強者』をもあわせ救おうという正造の『事業』。そうした『事業』の担い手となり、汚濁した人類社会を救済する『救えぬしの一人』となることを正 造は谷中残留民に期待したのであった」。ついに正造は、こう語るのです。「神は谷中にあり、聖書は谷中人民の身にあり」。(野中宏樹「『救えぬし』とな れ!」より、『バプテスト』2016年9月号)

 かれらをも導き用いて、常にこの働きと道に先立ち、また共に歩み働いておられるのは、あのベツレヘムから生まれ出られた救い主イエス・キリストなのです。最も小さい所から出られた、このお方が、世とそこに住む私たちに祝福と平和をもたらされるのです。
  このお方は、「最も小さい」ベツレヘムに、「最も小さい」姿で現われ、おいでになりました。飼い葉桶に寝かされた赤ん坊の姿でおいでになったのです。そし てその最期は、最も弱く無力な十字架に至る道でした。しかしこのお方は、その小さく弱い姿のままで勝利を収められ、復活し、今も生きておられます。世の力 ある王たちとその支配とが、すべて衰え滅んでも、このお方の不思議な支配と助けは、いつまでも変わることがなく、滅びることも、尽きることもなく働き続 け、働きかけ続けるのです。
 あの谷中村の人々に田中正造が託した「救え主となれ」という言葉は、聖書で言うならば「わが証人となれ」と言われた 主イエスの招きであると、野中牧師は言われます。「明治以降、日本の国策は今日まで常に『富国強兵』『殖産興業』『脱亜入欧』であり続けてきました。『今 だけ、金だけ、自分だけ』の思想が吹き荒れる壊れた世界の中で、私たち教会は一体どこに立つのでしょう。」(同上)主は今も言われます。また、イエス・キ リストによって一層強く言われます。「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちか ら、わたしのために出る。」このまことの「小さい者」イエス・キリストから神の救いは出るのです。そして、ほんのちょっと「小さい者」でもある私たちの 中、私たちの間からも、神の業が始まるのではありませんか。

(祈り)
天地の造り主、私たちすべての者の父よ、御子イエス・キリストによってこの世界と私たちを極みまで愛された神よ。
  あなたは、「いと小さき者」ベツレヘムから、イエス・キリストの道を始められました。そしてその主イエスの道は、ついにあの十字架に至りました。しかし、 これこそ世の救い、罪と悪の克服、そして復活による永遠の命の始まりとなりました。あなたの救いの御業は、今も「小さいところ、弱いところ、無力なとこ ろ」から始まっています。どうか私たち一人一人とその教会を、このあなたの業と道との証人とし、僕として、ここから送り出してください。そしてそれぞれの 生きる場で、豊かにお用いください。
まことの道、真理、そして命なる世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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